西新営業所


昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

地行枕
(001)

2020/08/01追加
地行枕は中央区今川1丁目から 同じく今川1丁目から
 枕町として15年地図5−カ。ここに枕町の掲載があることは知っていましたが、明治通りの南側なので西町の字名だと思っていました。地行枕(町)で出てきましたので慌てて地図を見直しますと、明治41(1908)年最新実測福岡市街全図には、明治通りはまだ当該地域まで伸びておらず、鳥飼宮のラインまで地行域であると描かれています。(字一番町〜字八番町を挟んで大きな文字で地行の表記がある。ただし、最終的に鳥飼宮の神域を軌道<後の明治通り>が走ることになり、どこまでが地行域だったのかは、この地図だけではあいまいです。)

枕は頭の意味でしょうか。大正以前の地図には枕町の表記は見られません。

新大工
(002)
新大工は中央区黒門から  黒門6−16 黒門公民館に
 15年地図5−ワ。筑前國續風土記及び同拾遺には、新大工町は寛永15(1638)年に藩命によって作られた町で、初めは大工しか住んでいなかったと書かれています。ちなみに新ではない大工町は15年地図6−ルに記載があり、現在の昭和通り中央区大手門1丁目・2丁目辺りでしょうか。

黒門公民館は、常時は閉門されているのかもしれません。
産神は鳥飼八幡宮(中央区今川2丁目1)

東唐人
(006)
東唐人は中央区唐人町1丁目から 
 15年地図5−ワ。                                                                            

中唐人
(007)
中唐人は中央区唐人町2丁目から 同じく唐人町2丁目  2020/03/01追加
 15年地図記載なし、17年地図4・5−ワあたり。                                                            

北唐人
(008)
北唐人は中央区唐人町3丁目から 同じく唐人町3丁目 
 15年地図には北唐人としては記載なし。                                                                 

海岸通
(008)

2020/03/01追加

海岸通は中央区唐人町3丁目から  
 ここ(15年地図4−ワ)に海岸通の地名があり、よかトピア通りの先 福浜は埋め立て地であることがわかります。                     

木屋
(009)

2020/03/01追加

桝木屋は中央区唐人町2丁目から   
 15年地図4・5−ワ。桝木屋は未発見としていましたが、その後見つけました。唐人町3丁目3番の唐人町北公園に桝木屋(ますごや)跡の案内が立っています。15年地図では桝木屋の南に浪人町が、明治通りの南、新大工の西に西唐人町が見えますが、どちらも見つかりません。

九電バッジの桝は異字体

地行1
(011)

2020/07/01追加
地行1は中央区地行4丁目から 同じく地行4丁目
 地行は15年地図4・5−ワ・カに、南北の筋に沿って東から西へ一番町・二番町〜八番町の記載があります。現在は明治通りと菰川が交差する東南角(唐人町西交差点)から、時計回りに1丁目〜4丁目となっていますが、今でもNTTの電柱表示は、

    
 
15年地図通りの南北筋に、東から一番丁・二番丁となっています。すべての番号が揃っているわけではなく四〜六番丁は見つかりませんが、三番丁と七番丁域が広いので、これは単に電電公社(NTT)の電線(柱)管理の都合でしょう。

また、現在の地行1丁目と2丁目(同じく4丁目と3丁目)は、明治通り 地行の交差点(鳥飼八幡宮角)とよかトピア通り 地行3丁目交差点(韓国総領事館角)を南北に結ぶ道で区切られていますが、七番丁の電柱表示は1丁目(4丁目)からも2丁目(3丁目)からも出てきます。15年地図5−カを見ると、確かにその鳥飼八幡宮東角の通りに七番町が見えます。(この時代は道路で囲まれたブロックではなく、道路に地名・丁目が付いていた。)

筑前國續風土記拾遺には鳥飼村の民居として地行の字があります。

地行3
(012)

2020/07/01追加
地行3は中央区地行4丁目から 中央区地行1丁目からも
 011地行1で書きました通り、一番町・二番町は南北の筋に沿っていますので、現在の地行1丁目からも4丁目からも同じ地行3が出てきます。 

地行4
(012)

2020/07/01追加
地行4は中央区地行1丁目から     同じく地行1丁目
 地行1と地行5は地行4丁目側から、地行4は地行1丁目側からしかそれぞれ見つけられていませんが、それはたまたまだと思っています。      

地行5
(013)

2020/07/01追加
地行5は中央区地行4丁目から 同じく地行4丁目から
                                                                                        

地行8
(014)

2020/07/01追加
 地行8は中央区地行2丁目から 中央区地行3丁目からも
 15年地図5−カで見ますと地行八番町も南北筋ですが、大正3年最新実測福岡市街全図で見ると八番町に該当する南北筋はまだなく、東西筋が八番町になっています。

地行からは011地行1〜014地行8の他に、028地行西も見つかっています。さらに001地行枕も見つけています。

城西町
(017)
城西町は早良区城西2丁目から 
 15年地図6−ヨ。                                                                            

西ヶ崎
(017)

2020/09/01追加
西ヶ崎は早良区城西2丁目から
 15年地図6−ヨ。城西2丁目の東側からは城西で、同丁目の西側からは西ヶ崎で出てきました。15年地図で見ると、七隈川沿いの通りが城西町、城西2丁目の交差点と早良市民プールを結ぶ通り上に二百石町、その一本西が西ヶ崎町のようですが、017城西は城西2丁目の交差点の筋よりも西から見つかっています。九電バッジが貼られた時期には二百石町はもうなく、城西町に統合されていたのかもしれません。

上今川橋通
(018)

2020/09/01追加
上今川橋は早良区城西1丁目から
 15年地図6−カ・ヨ。樋井川の城南線に架かる城西橋の、一本下流(北)の橋が上今川橋です。上今川橋と城南線 城西1丁目の交差点を結ぶ通りは現在、北が西新1丁目・南が城西1丁目になっていますが、当時は通りの両側が上今川橋通だったのでしょう。

城西橋通
(018)

2020/09/01追加
城西橋通は早良区城西1丁目から      早良区城西2丁目からも
 15年地図5・6−ヨに城西橋通2丁目の記載。同地図では現在の城南線 西新4丁目交差点あたりに、城南線に沿って城西橋通2丁目の記載がありますが、同1丁目は記載がありません。城西橋から西へ、城南線の両側に城西橋通があったのでしょう。城南線北の城西1丁目からも、同南の城西2丁目からも城西橋通が出てきました。

上今川橋通はその西端が城西橋通と交差して終わる形のようです。(城南線の西は西新町中田町 15年地図5・6−ヨ。)

福岡西2
(019)

2020/07/01追加
福岡西2は中央区今川2丁目から  同じく今川2丁目
 020福岡西1で書きましたように15年地図には鳥飼八幡宮の参道前の道に、東は菰川から西は樋井川に掛けて西町があります。福岡西1は今川1丁目から出てきましたが、今川2丁目からは019・020福岡西2及び019福岡西3が出てきました。

この3つの使い分けがよくわかりませんが、福岡西3がより明治通りに近い北側に、福岡西2は明治通り一本南の15年地図に西町の記載がある通り(西町筋)上にあるような気がします。019福岡西2と020福岡西2は同じ街区符号(番)内の数軒先のお宅でも変わっていますので、単に番号枯渇で福岡西1用の020を流用しただけなのかもしれません。

福岡西3
(019)

2020/07/01追加
福岡西3も中央区今川2丁目から  黄色バッジ04と一緒に 同じく今川2丁目
 頭番は019福岡西2と一緒。019福岡西2で書きましたように、福岡西3は明治通り側。                                    

福岡西1
(020)

2020/04/01追加
福岡西1は中央区今川1丁目から
 111城南町や114鳥飼3の一枚、さらには黄色バッジは営業所欄が福岡西で出てきており、西新営業所が福岡西営業所だった時代があったようですが、これはそれらとは違い地名欄が福岡西となっています。現場ではその福岡西という表記がちょっと理解が出来ず、帰宅後に15年地図を検討したら、鳥飼八幡宮南の通り(5−カ)に西町が見えます。(ちょうど折れ目があるので、17年地図の方が見やすい。)

西新営業所管内に他に西町があったので前に町名(大字)をつける必要があったが、西町は大字鳥飼(鳥飼村)域ではなく福岡区(福岡商家廿二町の一つ)だったため、福岡西という表記になったのでしょう。(九電バッジが貼られた時代には、さすがに福岡区という区分はもうなかったでしょうが。)
産神は鳥飼八幡宮(中央区今川2丁目1)

福岡西2
(020)

2020/07/01追加
020福岡西2も中央区今川2丁目から     同じく今川2丁目
                                                                                          

百道
(022)

2020/04/01追加
百道は早良区西新2丁目から  同じく西新2丁目20−21(解体済み)
 15年地図5−ヨ。002−068はまさに建物を解体中に見つけました。すでにこの世にはない建物ですからモザイクを掛けていません。解体作業をされていた業者さんに話をして立ち入らせてもらい、廃棄されるものということで譲っていただき、このバッジは現在私の手元にあります。

同地区からは黄色バッジ 福岡西05も。

現在の西新2・3丁目の明治通り側(南)が西新2となり、よかトピア通り側(北)が百道となるようです(現在は西新の西に百道がある)。

 地行西
(028)

2020/07/01追加
地行西は中央区地行3丁目から   
 15年地図記載なし。大正3年最新実測福岡市街全図には八番丁の南に地行西町が見えますが、地行西のバッジを発見したのは地行8の北、よかトピア通りに近いところからでした。現在はよかトピア通りの先に地行浜があり地行は海には面していませんが、この地行西が出てきたあたりは車が通れない路地が張り巡らされており、漁村だなと感じます。

荒江
(031)

2020/10/01追加
荒江は城南区荒江1丁目から 同じく荒江1丁目
 15年地図7−ヨ・タ。逢坂は福岡西048で。                                                            
 産神は櫛田神社(元禄年間に野芥より勧進/城南区荒江1丁目13)

飯倉
福岡西033)

2020/10/01追加
福岡西033飯倉は早良区飯倉2丁目から 早良区飯倉4丁目からも
 15年地図8・9−レ。筑前國續風土記拾遺には飯倉村の民居に、本村・唐木が記されています。同地区からは黄色バッジ 福岡西16も。  
 産神は飯倉神社(拾遺の記載は天満宮/早良区飯倉2丁目16)

七隈
(034)

2021/03/01追加
七隈は城南区七隈7丁目から
 15年地図の10−レには七隈(本町/七隈4丁目)と七隈原(035)の間に西七隈という字があり、元年実測図で見ると西七隈には鳥居マークが見えます。筑前國續風土記拾遺には、(七隈村の)北の松林の中に十六天神社があると書かれていますので、あるいはこれでないかと思って七隈3丁目の徳常寺(同時代の地図には掲載がないが、拾遺には「向村にあり」と記載)を中心に神社の痕跡が残っていないか探してみましたが、見つけられませんでした。

その後に七隈郷土誌(七隈郷土史研究会/1986年)を読む機会があり、十六天神社は七隈3丁目8番にあったとなっています。私がまさにアーサー城南クラブ(七隈3丁目8)の前で聞き込みをした時には、「目の前のマンションが建っているところは森だった」とお聞きしました。

十六天神社が菊池神社に合祀されたのが大正8(1919)年のことのようですので、目の前で生まれ育った方でも十六天神社の記憶がないのは当然のことかもしれません。大正8年に廃されたお宮が昭和元年の地図に載っているのも不思議な話です。



西七隈のNTT電柱表示は七隈3丁目から。また周辺では西七隈ではなく七隈西町という表記を何度か目にしましたので、戦後の一時期(住居表示導入前)に七隈本町に対して七隈西町と呼ばれていたこともあったようです。(この例は西片江でも目にしました。)

拾遺には若宮社の記載もあり「字若宮にある小祠」と記されていますが、七隈郷土誌には七隈6丁目の個人宅に祭ってあったとなっています。若宮池(七隈6丁目24)・油山川に架かる若宮橋(七隈小の西)・七隈若宮公園(若宮5丁目4)と若宮は大きな字だったようです。
産神は十六天神社(七隈郷土誌)。

唐木
福岡西035)

2021/03/01追加
唐木は早良区飯倉7丁目から
 15年地図9−ソ。筑前國續風土記拾遺には飯倉村の民居として本村  唐木の記載があります。唐木の字はバス停(早良区飯倉6丁目25/飯倉7丁目3)にも残っており、15年地図を見ると後に国道263号線となる道の西側に町が描かれていますが、現在は飯倉7丁目に唐木ストアー(飯倉7丁目28)があります。

一方で、飯倉6丁目側に唐木集会所(6丁目41)や唐木児童広場(6丁目12)などがありますが、6丁目側はきれいに区画されており、NTTの電柱表示も唐木団地となっていますので、戦後に戸建て団地として宅地化されたのでしょう。

唐木の西に描かれた稻塚(15年地図9−ソ)は、046原の欄で書きます。

七隈原
福岡西035)

2021/03/01追加
七隈原は城南区七隈2丁目から 早良区飯倉6丁目からも
 15年地図には七隈原は記載がなく飯倉原のみが描かれていますが、元年実測図では飯倉原の南に七隈原が見えます。

七隈原は筑前國風土記に「七隈の東西に高き原あり。東最も広し。西もまた長き事十町ほどあり。村(七隈)は両原の間、谷間にあり。」と書かれています。東の原が金山で、西の原が七隈原を指すのでしょう。続いて筑前國續風土記附録には「この村(七隈村)及び飯倉、梅林、干隈四村にかかれり、その中を通路とす。」と記されています。

梅林に掛かるということになると、現在の西南の杜湖畔公園(熊本池より南が梅林)までもが七隈原ということになりますが、筑前國續風土記拾遺には「七隈村の東西に原があって、西の原は荒江・飯倉・干隈に連なっている。」と梅林は触れられていません。

福岡西048(飯倉原)のところに書きましたように、現在の国道263号の一本東、七隈一丁目交差点と西南の杜湖畔公園西を結ぶ道を中心に北に飯倉原・南に七隈原ですから、七隈原のバッジは道の西側の飯倉6丁目からも見つかっています。一方、七隈2丁目の1※5が見つかった場所は七隈2丁目ですから十分に飯倉原と言える場所と思われ、飯倉原と七隈原の境が私には曖昧です。

この飯倉と七隈の間の「通路」は、早良区役所のHPで見ると脇山街道(板屋道)となっています。

曙町
(036)

2020/11/01追加
曙町は早良区曙1丁目から 早良区城西3丁目からも
 15年地図記載なし。曙1丁目から曙町を見つけ、15年地図に記載はないものの当然のだと思っていましたが、城西3丁目からも曙町、さらには城西3丁目からは040曙も見つかりました。15年地図を見ると、今川新町・同二丁目が036曙町・040曙に該当するのではと考えています。

塵埃燒却場が現在の早良市民プールでしょう。
 
弓ノ馬場
(038)
2020/08/01追加
弓ノ馬場は城南区別府5丁目から 同じく別府5丁目から
 15年地図8−ヨ 福岡學園(福岡学園は那珂川市に移転して、現在同所は中村学園)の西には弓ノ馬場一〜三丁目が載っています。別府郷土史研究(別府公民館/昭和55年)では、弓ノ馬場一〜三丁目は昭和6年以前は字西田だったとなっていますが、西田は大字鳥飼(鳥飼村)の字です。

一方、同地図には町名の弓ノ馬場一〜三丁目とは別に字名(赤文字)の犬馬場が見えます。

筑前國續風土記拾遺には、七隈村の欄に「高樹公(二代 忠之)の馬術調練所跡と伝わる犬馬場」が書かれています(同村の民居としては犬ノ馬場とも)。また田嶋村の欄にも犬ノ馬場に民居が数軒あったと書かれています。

鳥飼村・田島村・七隈村の境も今となっては判然としませんが、別府郷土史研究には別府6丁目には大字七隈・田島域があり、別府7丁目は大字田島域となっています。

別府6丁目の西が七隈村の字犬馬場・同じく別府6丁目の東から7丁目に掛けてが田島村の字犬ノ馬場に該当するのでしょう。そうすると茶山6丁目(の少なくとも一部)は七隈域でないと、別府6丁目の七隈村犬馬場が飛び地になるのではと考えていましたが、将軍地蔵(弓の馬場・茶山会館/城南区茶山6丁目1)の地番表示時代の住所は、大字七隈弓の馬場だったようです。

犬馬場・犬ノ馬場の読み方ですが、筑前國續風土記「犬馬場村 七隈村の内」には「いぬの」とルビが振られていますので、少なくとも江戸中期には「いぬのばば」だったようです。

弓ノ馬場の国道202号別府橋通りを挟む北側には西田町が見えます。現在の別府4丁目が該当するようですが、痕跡は見つけられていません。

※ 2021/07/15 ついでに歴代藩主の敬称を記しておきます(それぞれ戒名より)。

 1,長政 興雲(こううん)公
 2,忠之 高樹(こうじゅ)公
 3,光之 江龍(こうりゅう)公
 4,綱政 霊源(れいげん)公
 5,宣政 泰林(たいりん)公
 6,継 功崇(こうそう)公
 7,治之 鳳陽(ほうよう)公
 8,治高 龍雲(りゅううん)公
 9,斉隆 敬徳(けいとく)公
10,斉晴 乾竜(けんりゅう)公  龍の字が使われていたり、乾雲となっている資料もあり、要確認です。
11,長溥は未確認です。

茶山
(038)

2021/03/01追加
茶山は城南区茶山6丁目から 同じく茶山1丁目からも
 15年地図9−ヨ・タ。別府郷土史研究(別府公民館/昭和55年)には茶山1丁目・2丁目は大字田島(田島村)域だと書かれています。一方、同書には将軍地蔵(城南区茶山6丁目1)の地番表示時代の住所は大字七隈弓ノ馬場だったと書かれており、茶山6丁目の少なくとも一部は大字七隈だったようです。


(040)

2020/11/01追加
曙は早良区城西3丁目から
 15年地図記載なし。036曙町で書きましたとおり、15年地図の今川新町に該当すると考えています。036曙と040曙町は同じ通り上に乗っていると考えてよく、同じ町をあらわすものでしょう。123塩屋の欄で塩屋が後に塩屋町と表記されるようになったのではと書きましたが、曙町(036)より
曙(040)の方が頭番は後ろになっています。036が空き番だったので後から使った等考えられますが、実際のところはわかりません。

西新2
(045)

2020/04/01追加
西新2は早良区西新3丁目から    同じく西新3丁目
 15年地図5−ヨ。西新022百道の欄でも書きましたが、現在の西新2・3丁目の明治通り側(南)が西新2となり、よかトピア通り側(北)が百道となるようです。

筑前國續風土記拾遺の西新町村の欄には「一番町 二番町 Mノ町 東枕町 西枕町すべて五町となれり。この五町をすべて新屋敷いう。また片原町の北を拓いて(中略)これを新地という。」と書かれていますが、明治23年福岡市明細図にはこれらの地名がすべて載っています。
 


(046)

2021/06/15追加
早良区原6丁目から 黄色バッジ 福岡西15とともに
 15年地図7−ソ。筑前國續風土記には民居として「本村 水町 着無田 稲塚 修理免 新屋 堀または登縄という」と記載があります。また諏訪社(諏訪神社/早良区原6丁目20)が「村の北口にあり」、寶樹院(同6丁目13)及び正聞寺(同6丁目17)は「本村にあり」となっており、本村は諏訪社の南、現在の原6丁目に広がっていたようで、確かに15年地図で見ると、諏訪宮の南に現在の県道558号原通りの一本東の道沿いに町(本村)が広がっています。

15年地図7−レには原小學の北に新村とその西に舟底の町が見えます。舟底は県道558号原通りと油山川が交差する橋(早良区原2丁目11)と、平川団地内の公園(同2丁目10)に名を残しています。



ただし、15年地図では舟底橋はまだなく、三瀬街道は早良口から南に下って来て、高取中東側あたりで現在の金屑橋を渡り、油山川の西河畔を歩き、ちょうど舟底橋の西詰あたりで現在の原通りと重なる道筋となったようです。

一方、現在の原小学校のすぐ北に古くから発達した町と思える一角がありますが、新村の名は確認できまっせんでした。

15年地図9−ソには稻塚があります。干隈から流れて来た油山川がクランクしており、その弦(つる)に稻塚の町があります。そこに金屑川から免(賀茂)のあたりで分岐した流れが合流します。さらには稻塚から東に向かい先で北へ折れ原小學方向へ向かう流れもあります。これらの川のかたちは今も変わっておらず、15年地図が指す稲塚の町は早良区飯倉4丁目原中学校の南あたりに該当しそうですが、



早良区飯倉4丁目37・38と同8丁目13の間の油山川に架かる、下稲塚橋にその名を残しています。下稲塚橋の一本下流に架かる橋が稲塚橋らしいのですが、橋名板は掛かっていません。その稲塚橋の東詰が現在は飯倉4丁目・西詰が原8丁目になりますので、原と飯倉の間に両稲塚だったのでしょう。

15年地図7−レに大牟田の字が見えますが、元年実測図で見ると大牟田の東を郡市境(―・・―)の地図記号が走っており、大牟田の東で福岡市の麁原が南に大きくはみ出しています。(西新町<麁原>が福岡市に編入したのが大正11<1922>年、原村は昭和4<1929>年に福岡市へ編入なので、元年実測図 昭和2年福岡市及付近図当時は福岡市と早良郡の郡市境です。)

元年実測図15年地図に描かれた大牟田は現在の荒江3丁目に該当しそうですが、地図を見る限りこの地域は荒江・原・麁原の間でかなり区画整理されているようです。

筑肥線の旧西新(町)駅の所在地は、現在の住所でいうと早良区昭代3丁目7番です。昭代は麁原村域ですので、明治22年以降の新制西新町域になり、西新の街からは離れているとはいえ西新(町)駅でよさそうですが、元年実測図 昭和2年福岡市及付近図で見ると「にしじん」駅はその大部分が原村大牟田側にあり、西新町(麁原)にはホームの東側のほんの一部しか掛かっていないように見えます。

15年地図には6−ソに板次郎の字も見えます。国道202号原の交差点(の少し西)から大原橋に向かう道筋はほぼ当時のままのようですが、原4丁目から板次郎の痕跡は見つけられません。
産神は諏訪宮(拾遺の記載は諏訪社)

有田
福岡西047)

2021/06/15追加
有田は早良区有田2丁目から 早良区有田3丁目からも
 15年地図7・8−ツ。福岡西高女(現福岡県立講倫館高校/有田3丁目9))の周りに有田の町が見えます。元年実測図で見ると、寶満神社(有田2丁目20)と西應寺(有田2丁目19)がそれぞれ現在と変わらぬ場所に描かれています。

現在は室見川までが有田8丁目(県道561号の北は早良区室住団地)ですが、15年地図7・8−ネで見ると、室見川の東岸に壹岐村(大字橋本)が大きく張り出しているのがわかります。有田が属する原村が福岡市に合併したのが昭和4(1929)年、橋本が属する壱岐村が福岡市に合併するのが昭和16(1941)年ですから、元年実測図では早良郡内の町村境(―・―)ですが、15年地図では福岡市と早良郡の郡市境(―・・―)となっています。
産神は寶満宮(寶満神社)

鴨添
福岡西047)

2021/06/15追加
早良区原8丁目から
 15年地図8−ツ。同地図では早良郡田隈村大字免(早良区賀茂)との境の原域に鴨添の街が見えます。                       


荒江
福岡西048)

2020/10/01追加
福岡西048荒江は城南区荒江1丁目から
 15年地図8−タを見ると、荒江の南側には逢坂の地名が見えます。筑前國續風土記拾遺の荒江村の欄には「民居は本村 大阪にあり」と記されています。

現在の城南区荒江1丁目の別府橋通よりも南側が逢坂に該当するのではと探しましたが、該当地域からは同じ荒江1丁目でも031荒江とは違う、福岡西048の荒江が出てきました。福岡西048飯倉の欄に書きましたが、福岡西048荒江は荒江逢坂を指しているのではないかと考えています。



荒江逢坂の交差点は、国道263号城南区荒江1丁目と同区飯倉一丁目の境に。

飯倉
福岡西048)

2020/10/01追加
福岡西048飯倉は早良区飯倉5丁目から 同じく飯倉5丁目から 2021/02/01追加
 15年地図8・9−レ。同地図を見ると、現在の国道263号 飯倉2丁目交差点を中心に飯倉の街が広がっていたようですが、国道263号の西側からは福岡西033飯倉で、国道263号の東からは逢坂に該当する荒江と同じ、福岡西048の飯倉で出てきました。

2021/02/01 15年地図9−レには飯倉原の字が見えます。筑前國續風土記拾遺には、飯倉村の民居として本村・原・唐木の記載があり、原は「往来の道を隔てて西は飯倉村に属し 東は七隈村に属す」と書かれています。国道263号の一本東、七隈1丁目南交差点と西南の杜湖畔公園西交差点を結ぶ尾根道は、現在でも東が七隈、西が飯倉から干隈と町境の道になっており、拾遺に言う往来の道がこれに当たり、原(飯倉原)はこの尾根を中心に飯倉・七隈両域に広がっていたようです。この両村間の「往来の道」は、早良区役所のHPで見ると脇山街道(板屋道)となっています。

15年地図の飯倉原と唐木(9−ソ)の間に見える池((9−レ)が現在の丸尾池公園のようで、その南を福岡市(飯倉・七隈)と早良郡田隈村(干隈)の郡市境(― ・ ・ ―)が走っています。(田隈村が福岡市に編入するのは昭和29<1954>年。)

 丸尾池公園は早良区飯倉6丁目15

15年地図に描かれた、飯倉の街中から飯倉原の北を通り茶山に至る道は、現在の国道263号飯倉2丁目交差点と城南学園通り茶山交差点を結ぶ道に該当しそうですが、その峠は現在よりも南に弓反っていますので、七隈1丁目交差点よりも若干南になるのでしょう。(飯倉5丁目3と14の間を南に折れ、飯倉5丁目4と5・七隈2丁目18と19の間を通る道だと考えています。)

七隈1丁目交差点から干隈までの尾根(飯倉・七隈境)道を中心に、飯倉原名義のバッジがあるのではないかと探しましたが、尾根(往来の道)に近いところからも福岡西048飯倉のバッジが出てきます。

ピンポイントで尾根道沿いのお宅から福岡西048飯倉が出てくれば、福岡西048飯倉が飯倉原を指していると断定できるのですが、今のところは福岡西048の一桁台が荒江逢坂、200番台が飯倉原を指している可能性が高いと考えていますという表現にとどめます。

 飯倉原のNTT電柱表示は早良区飯倉5丁目から(飯倉原域と思われる)。

小田部
(049)

2021/07/15追加
早良区小田部1丁目から 黄色バッジ福岡西14と一緒に
 15年地図6−ツ。筑前國續風土記拾遺には「村の北に寶満社が、村の西口に教善寺がある」と記されています。元年実測図に描かれた寶満神社(早良区小田部3丁目11)の鳥居マーク・教善寺(同じく3丁目7)の卍を見ると、昭和元年当時もそれぞれが村の北・西はずれのようです。両地図には当然202号線バイパスの記載はありませんが、現在は寶満神社のすぐ北を202号バイパスが走っています。

また、元年実測図で見ると、現在の国道202号小田部大橋あたりと思われる場所で、小田部が大きく室見川西岸に張り出しています。現在は川を境にきれいに区画整理されたのかと思ったら、小田部大橋とその一本上流の福重橋の間で、往時ほどではないにしてもわずかに小田部(4丁目)が川西へ張り出しています。

元年実測図15年地図地図に描かれた原から小田部に向かう道ですが、現在の国道202号バイパス原交差点から分岐して同バイパスの南を走り、小田部橋を渡り西福岡中学校東交差点に至る道になるでしょう。

元年実測図には、小田部と庄原(南庄)の間に2連の鳥居マークが見えます。庄原にも鳥居マーク(埴安神社/早良区南庄3丁目29)が見えますが、2連の南(下)側は将軍神社(早良区小田部1丁目24)でしょう。埴安神社と将軍神社の間に描かれた神社は、早良区小田部1丁目27・28あたりにあるはずですが、探しても見つかりません。

将軍神社と呼ばれていますが、赤鳥居が連なり宇賀神社の神額が掛かっています。同敷地に名月稲荷大神の祠も並んでおり、欠けてしまっているとはいえ昭和十年代の名月稲荷専用の鳥居があります。倉稲魂命(宇賀神社)と稲荷神は同じ神ですので、元々同じ場所に二神が並んでいたと考えるよりも、名月稲荷は鳥居と共にどこかから移ってこられたと考えた方が自然です。名月稲荷が元年実測図に描かれた埴安神社と将軍神社の間にあった祠で、戦中もしくは戦後に遷座して来た結果、同じ神様が並んでしまったのでしょうか。
産神は寶満神社(早良区小田部3丁目11)

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

防塁
(051)

防塁は早良区西新7丁目から
 15年地図には地名としての防塁は記載がありませんが、防前停留所は載っています(5−タ)。地名として防塁があったのかは未確認です。 

中西
(052)

2020/11/01追加
中西は早良区西新5丁目から 同じく西新5丁目
 15年地図では西新町三丁目あたりに該当しますが、中西の記載はありません。一方で、中西商店街(早良区西新5丁目)に現在も名を残しています。明治41(1908)年最新実測福岡市街全図までさかのぼると、該当の場所に字中西が見えます。

なんとなく中西を「中西新」の意味だと思ってきましたが、同地図を見ると字中西の東には字中東があります。どうやら中という字の東西なのでしょう。中西が修猷館中学の南、中東は中西の東かつ移転前の紅葉宮の西ですので、現在の西新4丁目あたりでしょうか。

西新町下田町

2021/01/01追加






 15年地図で見ると、現在の国道263号(早良街道)上に麁原一番丁・同二番丁が見えます(その西に三・四番丁が続く)。麁原一番丁の北には西新町下田町が見えますが、現在は下田公園が早良区城西3丁目21にあり、西は現在の福岡大学西新病院から、法務局西新出張所交差点を越えて城西3丁目21番前の東西の筋が西新町下田町に該当しそうです。そうすると、福岡大学西新病院が池だったのでしょう。

麁原
(057)

2020/12/01追加

五穀神碑は祖原公園(早良区昭代1丁目7番)に
麁原は早良区祖原から
 15年地図6−タ。現在の祖原は丁目のない小さな街です。といいたいところですが30番まであり、2丁に分けてもいいほどの規模です。

筑前國續風土記拾遺には、麁原村の産神は村の南タウの山にある十六天神社であると書かれています。大正9(1920)年福岡博多及郊外地図元年実測図を見ると麁原の街の南外れ、麁原山の北東斜面に鳥居マークが見えます。たぶん、祖原公園の五穀神の石碑がある場所が十六天神社跡なのでしょう。

この五穀神の碑には明治12年の裏銘が入っています。五穀神碑は福岡に於いて時々目にしますが、元々十六天神の境内に五穀神碑もあったのか、五穀神碑は別の場所に建っていたものが、道路拡張等でここに持ってこられたのかはわかりません。現在の祖原はマンションや一戸建てが建ち並ぶ副都心西新に隣接の住宅街ですが、江戸・明治期は五穀の神を敬う、農業に適した麁原だったのでしょう。

同地区からは黄色バッジ 福岡西06も。
産神は十六天神社

昭代東部
(059)

2020/12/01追加
昭代東部は早良区昭代1丁目から 早良区曙2丁目からも
 昭代町一〜四丁目は15年地図6−タに記載があります。

同地図の昭代町一丁目は麁原山(現祖原公園)の西側に見えますが、昭代東部は祖原公園の東側及び国道263号のを挟んだ早良区曙2丁目から出てきました。この当時は道路で囲まれたブロックではなく、道路に町名が付いていましたので、国道263号を挟む両側が昭代東部だったのでしょう。

昭代中部
(不明)

2020/12/01追加
昭代中部は早良区昭代1丁目から
 昭代東部は国道263号沿いから出てきましたが、昭代中部はその一本西側のブロック(番)から出てきています。頭番不明ですが、昭代東部の059・昭代西部の060のどちらかと共用しているはずです。

昭代西部
(060)

2020/12/01追加
昭代西部は早良区昭代2丁目から 早良区昭代1丁目からも
 昭代西部になってやっと今の昭代1丁目の西から昭代2丁目の東端です。15年地図に昭代町四丁目まで記載がある割には、現在の昭代2丁目の高取小学校の西側及び昭代3丁目からは九電バッジを見つけられていません。ここがすべて昭代西部に該当するとも思えず、そこに他の地名がないのならば街が東に偏っているような気がしています。

百道本通西
(061)

2020/06/01追加
百道本通西は早良区百道1丁目から
 百道は15年地図5−ヨ。百道本通が西新小学校南(百道小北)の通りなのか、西新小北(百道中南)の通りなのか、その間からこのバッジは出てきており今のところ分かりません。百道本通東が見つかればよいのですが。

藤崎
(062)

202/09/15追加
062藤崎は早良区百道2丁目から 早良区百道3丁目からも
 藤崎については067藤崎欄に。

早良区藤崎1丁目から067藤崎を見つけており(藤崎2丁目は064早良口)、15年地図と整合するので安心していましたが、明治通り北の百道2・3丁目からも新たに062藤崎を見つけました。ところが明治通り北側の、藤崎バス乗継ターミナル(百道2丁目2)の西から金屑川までの範囲では、063弥生1が複数個見つかっています。

南北でいえば、明治通りから福岡拘置所(室見2丁目16)の間が063弥生1で、福岡拘置所の北側から062藤崎が見つかります(よかトピア通りより北は1980年代の埋め立て地)。よって、062藤崎と067藤崎は間に063弥生1を挟み、連続していないように感じます。

15年地図では、刑務所(現在の福岡拘置所よりも東の、百道パレス<百道2丁目3>から九州郵政研修センター<百道2丁目5>あたり)前の明治通り(5−タ)には「六丁目」の記載があります。明治通りに沿って通りの両側は西新町六丁目だったようですが、063弥生1は明治通り沿いからも見つかっています。よって九電バッジが貼られた時期には西新町6丁目はもうなかったと結論付けると話は早いのですが、071西新515年地図該当の場所から見つかっていますので、5丁目はあって6丁目はなかったと言うのはちょっと危険かもしれません。

旧福岡刑務所の住所は藤崎になるようですから、もしかすると百道2丁目の西側の一角(百道2丁目7〜15くらい)が弥生1丁目・東側かつ北(1〜6・16・17及び百道3丁目)は藤崎だったのかもしれませんが、ここは私の憶測にすぎません(15年地図では刑務所の北・現在の百道3丁目はもう松原)。


生1
(063)

2021/01/01追加
弥生1は早良区百道2丁目から 同じく百道2丁目
 彌生町一丁目として15年地図5−タに。同地図では彌生町一丁目の東に刑務所が載っていますが、猿田彦神社と思われる鳥居マークの正面に見えますし、刑務所と金屑川の間に彌生町一丁目がある(現在はほぼ金屑川に沿って福岡拘置所がある)ことから、同地図の刑務所は今の福岡拘置所よりも若干東にあったようです。

Wikipediaの記載ならば、百道1丁目の西福岡税務署の北側になりますが、それならば15年地図では千眼寺の上になりますので、もう一ブロック東に描かれなければいけません。あるいは大正5(1916)年に最初に同地に建った福岡監獄がWikipediaのいう早良区百道1丁目にあり、15年地図当時は市立ももち体育館や県立ももち文化センターあたりの現在の早良区百道2丁目に刑務所があり、拘置所は福岡刑務所土手町拘置支所として土手町にあったようです。

15年地図7−ルに土手町の記載があり、その上に裁判所が描かれていますが、その裁判所の一角に拘置所が併設されていたようです(土手町拘置支所についてはこちらが詳しい)。その後昭和40(1965)年に、福岡刑務所が宇美町に移転するとともに、跡地の一角に拘置所を移転したとのことですので、福岡刑務所の敷地自体が15年地図時よりも西に広がっており、福岡刑務所跡の東側は早良区役所(早良区百道2丁目1)や九州郵政研修センター(同2丁目5)となり、刑務所敷地の西端だけが福岡拘置所として残ったのでしょう。

九電バッジの「弥」の「尓」の上が「ム」なのですが、それは私のパソコンでは出せない文字でした。

早良口
(064)

2021/07/15追加
早良口は早良区藤崎2丁目から 同じく藤崎2丁目から
 067藤崎に書きましたように、15年地図の藤崎町一・二丁目はどちらも現在の藤崎1丁目域で、藤崎1丁目から067藤崎が出てきます。では現在の藤崎2丁目からはどういう地名が出てくるのかと、楽しみに歩いたところ早良口でした。15年地図には早良口の停車場(5−タ・レ)が、現在の明治通り早良口の交差点のあたりに描かれていますので、早良口の停留場(早良口交差点)と早良口の町は藤崎町一つ分離れています。

藤崎2丁目のほぼ全域から064早良口で出て来ますが、すべて200番台です。このような場合、どこかの町と064を共用していたと考えられますが、その町をまだ見つけられていません。

弥生2
(065)

2021/01/01追加
弥生2は早良区弥生1丁目から
 15年地図では現在の原通り上に彌生町二丁目・三丁目が見えます(この時代は道路で囲まれたブロックではなく、通りに町名が付いていた)。彌生三丁目でも涼橋の北ですので、現在の弥生1丁目(全域)・藤崎1丁目(の原通り沿い)になるのでしょう。

弥生2のバッジが見つかった場所が15年地図にいう彌生三丁目域ですので、弥生3のバッジは存在しないようです。

藤崎
(067)

2021/02/01追加
藤崎は早良区藤崎1丁目から 同じく藤崎1丁目 黄色バッジ 福岡西08と一緒に
 15年地図5−タに藤崎町一丁目・同二丁目として。同地図が示す藤崎町一丁目は、庄橋につながる筋ですので、現在の藤崎1丁目2と3の間の筋、同二丁目が同じく藤崎1丁目3と同4・5の間の筋のようですから、藤崎町一・二丁目とも現在の藤崎1丁目域です。現在の藤崎2丁目からは64早良口で出てきています。

筑前國續風土記(元禄16<1703>年)には「麁原村の内 藤崎村」と記されています。また、福岡県立図書館が公開している筑前国郡絵図 早良郡にも、麁原村の内 藤崎村の掲載があります。郡絵図は年代不詳ですが、私は黒田新続家譜の筑後境論地決定の中で、(上座郡の)絵図は元禄14年以前のものであると書いています。拾遺(天保8<1837>年頃)では麁原村の欄に「民居は本村 藤崎 皿山にあり」と村内の字になっています。

2021/09/15
明治通りの北側、現在の百道2・3丁目からも062藤崎を見つけました。

西新本5北
(068)
西新本5北は早良区百道1丁目から 同じく百道1丁目
 15年地図は時々理解できないのですが、現在の西新商店街に西新町一丁目〜五丁目が記されています(5−カ・ヨ〜4−タ)が、明治通りの北側
にも唐突に四〜六丁目の記載があります。西新本5北は千眼寺(千眼禅寺 早良区百道1丁目3−6/15年地図5−タ)のさらに北側から出てき
ており、この明治通り北に書かれた五丁目と西新本5北は矛盾しないと感じています。

皿山
(071)

2020/03/01追加
皿山は早良区高取2丁目から 
 15年地図5−タ。筑前國續風土記拾遺には、皿山は麁原村の字で、独自の産神である稲荷社を持っているとなっています。西新町の産神である紅葉八幡宮がある山は、現在は紅葉山(公園)という名前ですが、紅葉八幡宮が大正2(1913)年に移転してくるまでは、この山が皿山だったのでしょう。

大正3(1920)年最新実測福岡市街全図で見ると、紅葉宮はまだ軌道(路面電車/現在の明治通り)の南側に書かれています。現在の明治通り上からその南側、西新1丁目辺りにあったようです。同地図では修猷館中學は軌道の北に書かれていますし、金龍寺(明治通り南)と浄満寺・真福寺(明治通り北)の位置関係も変わっていないので、ほぼ道筋は変わっていないように見えます(ただし、明治通りは黒門までしか繋がっていない)。鳥飼神社や大通寺・金龍寺の敷地内を軌道が走っていますので、明治通り延伸の際に道の南側を広げ、その境内・寺域を削られているのでしょうか。

皿山の産土である稲荷社は、紅葉八幡宮内にある宇賀稲荷神社でしょうか。

西新5
(071)

2020/03/01追加
西新5は早良区高取2丁目  同じく高取2丁目  
 15年地図5−タ。高取2丁目5に五丁目会館(公民館)がありますが、西新5丁目を指しているのでしょう。                       

紅葉
(073)

2021/02/01追加
 紅葉は早良区昭代2丁目から 黄色バッジ06と一緒に 同じく昭代2丁目
 15年地図6−タに紅葉町一丁目・二丁目・三丁目として掲載。現在の高取1丁目交差点と高取2丁目交差点の間(北は高取1・2丁目・南は昭代2・3丁目)の筋沿いに紅葉町があり、昭代2丁目から紅葉で出てきました。高取側からは見つけられていません。

紅葉八幡宮は大正2年に移転してきていますが、大正3(1914)年最新実測福岡市街全図ではまだ移転前の西新1丁目で載っています。大正5年・8年の地図では域外で、大正9(1920)年福岡博多郊外地図になって現在の場所になります。紅葉は紅葉八幡宮移転以降の地名でしょうか。

弓田
(075)

2020/03/01追加
弓田は早良区高取1丁目から
 15年地図記載なし。                                                                          

新町
(076)

2021/10/15追加
新町は西区姪の浜3丁目から
 15年地図で見ると姪濱の町が3−ソ・ツに広がっていますが、すでに明治通り(電車通り)が開通しており、唐津街道は旧道になっています。その旧道上に、南北筋である三ヶ町と交差する形で東西筋の新町(3−ソ)が描かれています。

姪濱村に全体について、九電バッジが見つかった中では頭番が一番若いここに記しておきます。

筑前國續風土記拾遺の「姪濱村ならびに浦」欄には、民居として「本村 上野間町 下野間町 宮前 北小路 新町 三ヶ町 魚町 當方町 旦過町 畠中 弥丸町 西町 また浦分に東網屋 西網屋の都合十四丁あり」と書かれていますので、この14町が本村の字となるようです。その他に「愛宕下 岳山」、「姪浜浦」として「民居二町分本村に続けり」と記されています。また「東西六町 南北四町の広村で、海岸には常に旅商の船が絶えることない」と書かれています。

また、同じく拾遺には「(姪濱)村の四辺に東より西に連なりて小山あり。浦山すなわち愛宕山なり 興雲寺山(は)浦山の西に続く 丸隈山(は)道場山ともいう 中隈山 小戸山あり 以上海辺(にある山)なり」と書かれています。

興雲寺山は筑前國續風土記では「浦山の西に山あり。上に城跡あり。興雲寺山という。これ澁川探題の城なりという。上に毘沙門堂あり。」と書かれています。さらに同書の「探題墓」には「姪濱村の東の入口の北にある小山を探題山という。(中略)昔このところに光運山寂照坊という寺あり。」と記されています。

光運山寂照坊から光運寺になり、さらに興雲寺山の文字で書かれるようになったのでしょうが、探題墓(探題塚)は興雲寺山の麓(万正寺裏)にあり、姪浜小学校(姪の浜2丁目10−6)と姪北小学校(同20−23)の間の山全体を指して興雲寺山というのでしょう。丸隈山・中隈山は102砲台に、小戸山は100102砲台に書いています。

東町
(076)

2021/10/15追加
東町は西区姪の浜3丁目から 同じく姪の浜3丁目
 15年地図3−ソ。姪の浜北公園(姪の浜3丁目32)の西の南北筋が東町筋に該当するのではないかと考えていて、実際に姪の浜北公園の際からも東町で出て来ます。東町集会所は3丁目14に。ただし、亀井南冥生誕の地案内板(姪の浜3丁目15)には、同地は東網屋であると記されています。また、筑前國續風土記拾遺の姪濱村欄にも東町の字は見えず、東町は明治以降の字となるのでしょう。

15年地図には東町に続いて北小路が見えます。小路は行き止まりやT字路など、道が突き抜けていないことを指します。同地図では北小路の西の東西筋はかぎ状に描かれていますが、住吉神社(姪浜3丁目5)と東光禅寺(姪浜3丁目6)の間の東西筋は今も同じようにクランクしています。拾遺には、天然寺(姪の浜3丁目10)が「北小路にあり。」と記されていますので、少し道筋が変わっているようですが、姪の浜3丁目9と10の間の東西筋が北小路に該当するのではと探しましたが、北小路のバッジは見つかりませんでした。

飛石
(078)

2021/08/15追加
飛石は早良区室見1丁目の松林よりも南 同じく室見1丁目
 大字庄(早良郡庄村)全体については西新081西庄ノ西の欄に。

15年地図5−レには飛石町一〜三丁目が見えます。飛石の名は明治通り飛石橋に現在も残っています。

飛石町の北(4−レ)には緑の〇印が一列に並んでおり、そのさらに北の室見川沿いに室見町一丁目(西新083)が描かれています。この飛石町一〜三丁目及び室見町一丁目は、現在はすべて早良区室見1丁目域となっており、緑の〇印は松並木で、15年地図の規模で現存しています。

左(南) 飛石町一丁目  右(北) 室見町一丁目
現在はどちらも室見1丁目

金門
(079)

2021/08/15追加
金門は早良区室見2丁目から 同じく室見2丁目から
 15年地図5−レには金屑川の西河畔、庄橋と凉橋(すずみばし)の間に北から金門町・庄浜町の地名が見えますが、昭和14<1939>年最新福岡市地図小形だけに浜庄町と掲載されています(それ以前の地図には字名の掲載はない)。浜庄が庄浜になったのか、単に14年地図が間違えたのか?

15年地図では金屑川の川沿いに南北筋として描かれていますが、金門の九電バッジはもう少し西側に広い範囲まで見つかり、また金門公園(室見2丁目10)も同地図に描かれた金門町よりも一ブロック西にあります。

室見庄浜公園は早良区室見4丁目12に、室見庄浜東公園は室見3丁目2にありますので、庄橋よりも南・凉橋より北、かつ少童(わだつみ)神社よりも東が金門町、凉橋と筑肥新道(旧筑肥線跡道路を一括して筑肥新道と呼びます) 南庄二丁目東交差点を結ぶ凉橋筋と旧筑肥線の間が庄浜町だったのではないかと考えていますが、その庄浜と言える地域からも081西庄西のバッジが見つかっており、今のところは庄浜のバッジはなかったと考えています。

          
  金門公園は室見2丁目10に         室見庄浜公園は室見4丁目12に

西庄ノ西
(081)

2021/08/15追加
081西庄ノ西は早良区室見4丁目から 同じく室見4丁目から
 筑前國續風土記拾遺の庄村欄には「民居は一所にあり」、また龍王神社(少童神社)が「村南松林の中にあり」となっていますが、現在の少童(わだつみ)神社は、拾遺にも記載がある天満宮に相殿となっています(大正9<1920>年)。拾遺には「この村、昔は太宰府天満宮領で塩濱庄と言えり」と記されており、その縁で天満宮が勧進されたのでしょう(菅公伝説もあり)。

元年実測図で見ると正福寺(拾遺では字「金戸にあり」/室見4丁目6)の卍を中心に、唐津街道(明治通り)と北九州鐵道(旧筑肥線)の線路の間に町が広がっており、町の南北に鳥居マークが見えます。

北側は現在の少童神社(拾遺では「天満宮 村内金戸にあり」/室見4丁目3)ですが、南の線路沿いにあるのは地蔵堂(室見4丁目19)です。地蔵堂に建つ碑には、大正4年付で「弘法大師御修行中之像」と記されており、大師像を中心に地蔵が数体鎮座されています。仏堂に鳥居マークも不思議な気がしますが、最新の地理院地図でも鳥居マークが付された仏堂があります(実際に鳥居を持つ仏堂も存在しますが)。

江戸時代の早良郡庄村は、明治22(1889)年の町村合併で早良郡原村大字庄となります。15年地図では5−レに(大字)庄の掲載が、また停留所として西ノ庄の掲載もあります。西ノ庄は那珂郡庄村(現在の中央区今泉)と区別するための呼び方でしょう。

15年地図5−ソ大字庄の南側 小田部との境には庄原の地名があり、元年実測図では庄原にも鳥居マーク(埴安神社/早良区南庄3丁目29)が見えます。庄原のバッジもあるのではと探してみましたが、今のところ見つけられていません。
拾遺の記載は「龍王神社 産神なり」(少童神社/現在は早良区室見4丁目3)。上記の通り、現在少童神社のある場所は元は天満宮があった場所(現在も鳥居の神額は「天満宮」)で、大正9年に少童神社が相殿になったそうですが、拾遺にはそもそも龍王神社に少童命と老松天神が相殿だったと書かれています(天満宮と老松天神はどちらも菅原道真を祀る)。

西庄西
(081)

2021/08/15追加
081西庄西も早良区室見4丁目から 早良区室見3丁目からも
 17年地図では「西ノ庄西町」と表記されており、「西庄ノ西」という表記に若干の疑問を感じていましたら、「西庄西」も見つかりました。同じ081ですが「西庄ノ西」の方が番号が若いので、貼られた時期が違うのでしょう。

西庄ノ西
(082)

2021/08/15追加
082西庄ノ西も早良区室見4丁目から
 15年地図5−レ・ソには、駅名は描かれていませんが駅らしきものが見えます。昭和12(1937)年福岡市街案内図では「しやう」駅(北九州鐡道線/昭和12年10月に国有化)が、昭和14(1939)年最新福岡市地図小形では「筑前庄」駅(国鉄筑肥線)と掲載されています。17年地図でも駅名の書かれていない白抜きの駅らしきものが描かれています。

庄(筑前庄)駅は筑肥新道 南庄二丁目東交差点の西、室見4丁目14と南庄2丁目1・2の間あたりに、昭和6(1931)年に愛宕神社前停留所として開設され、愛宕神社前はさすがに無理があったのか、翌年には庄と改名、昭和16(1941)年に廃止と10年間しか存在しなかったようです。

17年地図では赤文字で「西ノ庄西町」と共に「西ノ庄東町」も描かれています。「西庄ノ東」名義のバッジがあるとすれば、室見2丁目1・2・3・14・15・16あたりではないかと重点的に歩きましたが、見つけることは出来ません。(頭番080ではないかと推測しているのですが。)

室見
(083)

2021/08/15追加
室見は早良区室見1丁目の松並木よりも北から 同じく室見1丁目から      2021/09/15追加
 15年地図4−レ。室見町一丁目は078飛石の欄に。15年地図室見町二丁目・三丁目は、現在の室見5丁目に該当しそうですが、目ぼしいものは見つけられません。

三ヶ町
(084)

2021/10/15追加
三ヶ町は西区姪の浜3丁目から
 15年地図3−ソに南北筋として三ヶ町が描かれていますが、通りの東西に卍が見えます。東が万正寺(姪浜2丁目14)、西が称讃寺(姪浜3丁目11)です。

よって、明治通り 姪の浜2丁目交差点とマリナ通り 愛宕浜四(マリナ通りの交差点表示板は漢数字)丁目交差点を結ぶ南北筋が三ヶ町(さんがまち)ですが、特に東の姪の浜2丁目側は大きく道路拡張されており、三ヶ町筋上から九電バッジを見つけるのは困難だと思っていました。最終的に見つけたのは脇筋からですが、数軒先にはもう東町のバッジが貼られています。

竹ノ山
(086)

2021/11/15追加
086竹ノ山は西区姪浜2丁目から
 087竹ノ山に詳しく書きましたが、17年地図の竹ノ山停留所(3・4−ソあたり)が愛宕2丁目と姪浜2丁目の境あたりにあったと考えていますので、姪浜2丁目から見つかった086竹ノ山が、17年地図竹ノ山停留所(15年地図四丁目停留所)周辺に該当すると考えています。

竹ノ山
(087)

2021/11/15追加
087竹ノ山は西区愛宕2丁目から
 筑前國續風土記拾遺に書かれた「岳山」が竹ノ山のことだと思いますが、岳山=竹ノ山であるという確実な証拠は見つけられていません。

15年地図には地名としての竹ノ山は記載がありませんが、4−ソに竹ノ山停留所が描かれています。ところが17年地図では、竹ノ山停留所が一つ西の15年地図でいう四丁目停留所の場所に移動しており、四丁目停留所は描かれていません。

とりあえず15年地図で話を進めますが、ちょうど竹ノ山停留所の東で明治通り(電車通り)と唐津街道(旧道)が分岐しており、竹ノ山停留所から愛宕神社への道が付いていますので、セブンイレブン愛宕2丁目店(西区愛宕2丁目15)前あたりが15年地図竹ノ山停留所になるでしょうか。

一方、小学校前停留所(3−ソ)の前(北)でも明治通りと唐津街道(新町筋)が分岐していますので、小学校前停留所は明治通り 姪浜小学校前交差点が該当しそうです。その間の15年地図四丁目停留所(17年地図竹ノ山停留所)の場所はどこになるでしょう?

15年地図に見える、四丁目停留所から南へ室見川まで繋がる道は、姪浜ドライビングスクール四輪コース(西区姪浜1丁目1)と同二輪コース(姪浜1丁目5)の間の道しか該当がありません。四丁目停留所から北(海)への道は、明治通り姪浜1丁目交差点の一つ東の交差点(交差点名表示なし)とマリナ通りマリナタウン南交差点を結ぶ愛宕2丁目と姪浜2丁目の間の道が該当しそうですが、この道はかなり付け替わっていないと15年地図17年地図とは整合性しません。それらを考えあわせますと、姪浜1丁目交差点と一つ東の交差点の間あたりに15年地図四丁目停留所(7年地図竹ノ山停留所)があったのでしょうか。

これ以上話をややこしくしたくないので書きたくないのですが、15年地図竹ノ山停留場は、昭和12(1937)年福岡市街案内図では浦山停留場になっています。拾遺には「浦山すなわち愛宕山なり」と書かれています。

愛宕下
(087)

2021/11/15追加
087愛宕下は西区愛宕2丁目から 西区愛宕3丁目からも
 15年地図4−レ。                                                                          

愛宕下
(089)

2021/11/15追加
089愛宕下は西区愛宕3丁目から 黄色バッジ09と一緒に
 15年地図には3・4−レに辯天町が見えます。西区愛宕4丁目17−24に岩窟(いわや)弁財天がありますが、



筑前國續風土記拾遺には岩窟辯財天について、「浦山(愛宕山)の北の麓 海浜の松林の中にあり」となっており、江戸時代には民家はなかったようです。元年実測図で見ても、民家ではなく番屋と思しき建物が並んでいるように見えます。

私はこの洞窟は人の手によって掘られたものかと思ったのですが、「天工の石窟なり」と記されています。弁天町のバッジもあるはずと思って探したのですが見つかりませんでした。

宮ノ前
(092)

2021/12/15追加
宮ノ前は西区姪の浜3丁目10−15 天然寺山門に 同じく姪の浜3丁目から
 15年地図では旧唐津街道沿いの東西筋として宮ノ前の記載があります。同地図には姪濱町内に多くの鳥居マークが描かれています(実際に姪浜を歩くとその何倍もの神社に行き当たります)が、姪濱村の産神である住吉神社のマークはなぜかありません。神社仏閣に関してはマークだけで名の記載があまりない元年実測図には、珍しく住吉神社と記載されています。

15年地図宮ノ前の西には旦過の字が続きます。旦過達磨堂が西区姪の浜6丁目13にあり、ここから取られた字かつ東西筋のように見えますから、姪の浜6丁目1・11・12あたりから出てこないかと交差する南北筋を含めて探しましたが見つかりません。筑前國續風土記拾遺には、順光寺(姪の浜6丁目9)が「旦過町にあり。」と記されています。
姪濱村及び姪濱浦の産神は住吉神社(姪の浜3丁目5)。拾遺には、姪浜に住吉神社神領があったため勧進されたと記載。

上野間
(093)

2021/12/15追加
上野間は西区姪の浜5丁目から
 15年地図3−ソ・ツ。同地図には明治通りの南側に、上野間町とノマ町の記載がありますが、時代によって若干変わり、例えば昭和10(1935)年福岡市街地図名所案内では野間町と一つの字で記載されています。筑前國續風土記拾遺には、姪濱村の民居として「上野間・下野間」の記載があり、「貴布祢社が上野間に、真根子天神祠は下野間にある」となっていますので、15年地図ノマ町が下野間に該当するのでしょう。

元年実測図で見ると、貴船神社(姪の浜4丁目17)と真根子神社(姪の浜5丁目4/常時は閉門か)と思しき鳥居マークがあり、真根子神社の北に潮音寺(姪浜5丁目3)と思われる卍もあります。現在の県道560号姪浜大通りを中心に大きな町が広がっているのが見えます。

水町
(094)

2021/12/15追加
水町は西区姪の浜6丁目から
 15年地図では水町は南北筋に見えます。同地図名柄橋の南詰に描かれたのが水町天満宮(3−ソ・ツ/姪の浜6丁目8)のようですが、その東の筋として描かれていますので、水町天満宮と順光寺(姪の浜6丁目9)の間の南北筋が該当しそうです。ただし、水町のバッジは旧唐津街道沿い(東西筋)から見つけました。

当方
とうぼう)
(095)

2022/01/15追加
当方は西区姪の浜6丁目から
 15年地図では名柄橋や水町天満宮の東側に、斜めの筋として当方筋が見えます。実際にはその筋より入った南北筋からバッジを見つけました。当方の読みがわからなかったのですが、姪の浜6丁目14の姪浜当方公園に「とうぼう」とルビが振られていました。


小戸
(097)

2022/01/15追加
小戸は西区姪の浜6丁目から 同じく姪の浜6丁目
 15年地図3−ツには旧唐津街道上、名柄川の東際に東西筋として西町が、南北筋として弥丸の記載があります。筑前國續風土記拾遺には興徳寺は「弥丸にあり」と記されており、当然明治通りは明治以降に出来たものですから、明治通りを挟み興徳寺の前から名柄川までの南北筋が弥丸筋のようです。

現在の地名では名柄川の西側が小戸ですが、15年地図西町に該当する旧唐津街道上、また弥丸筋上からも、さらには弥丸筋を越えた東からも小戸名義で出て来ました。よって西町・弥丸のバッジはなかった(九電バッジが貼られた戦後は小戸の字だった)と判断しています。

15年地図3−ツの名柄川沿いに見える神社マークは、現在の地図(Yahoo!・Google・Mapion等)では掲載がありませんが、

 2021年の桜の季節に歩いてています。

小戸東公民館(姪の浜6丁目5)の敷地に彦神社がありました。拾遺には西町に龍王社があるとになっており、「石祠なり、大岩の上にあり」となっています。姪の浜6丁目4に今も龍王館としてあります。

魚町
(098)

2022/01/15追加
魚町は西区姪の浜6丁目から 姪の浜6丁目15−1光福寺から 黄色バッジ西福岡10
 15年地図3−ソに記載があります。上野間町から続く通りですので、県道560号線が該当し、現在は姪の浜3丁目と6丁目の境になります。福岡商家廿二町の魚町(15年地図6−ル)は福岡城下屋敷図(江戸後期)を見ると「ウヲノ町」と記載されていますが、姪浜の魚町の読みは確認できていません。

網屋
(099)

2022/02/15追加
網屋は西区姪の浜3丁目から 同じく姪の浜3丁目
 15年地図2−ソに姪浜港の記載があり、その港沿い3−ソに網屋町が見えます。筑前國續風土記拾遺には「浦分として東網屋 西網屋」と記されています。姪浜魚市場(姪の浜3丁目24−17)の前が若干コの字型になっていますが、15年地図と比べると凹が緩やかだなと感じていましたが、

  
宝台町(小戸1丁目)から姪浜港(姪の浜3丁目)                 姪浜港から丸隈山(小戸1丁目)

対岸の宝台町(西区小戸1丁目)から見ると、コンクリート擁壁を張り出していることがわかります。姪浜港から対岸の丸隈山(西区小戸1丁目)を望むと、河口に石積み堤防が見えます。これが15年地図2−ソに描かれた堤防でしょうか。

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

砲台
(100)

2022/02/15追加
100砲台は西区小戸1丁目から
 15年地図2−ソ・ツには宝台町が見えます。小戸山には江戸末期に、黒船来襲に備えた砲台(台場)が作られたそうで、現在もその石積みを見ることが出来ます。

   
     砲台の石積み跡(小戸公園)                 石積みの一段上は山頂で、能古島・博多湾を見渡せます

宝台町(砲台)の地名はこの台場にちなんだ地名でしょうが、砲台→宝台には野町→花野町のようなセンスを感じます。

砲台が作られた以降に砲台という字が付けられたのでしょうが、九電は戦後に発足した会社ですから、当然九電バッジは戦後に貼られたものです。砲台が15年地図当時では宝台になり、戦後にまた砲台に戻ったのかはちょっとわかりません。

砲台
(102)

2022/02/15追加
102砲台も西区小戸1丁目から
 099網屋のところで書きました丸隈山についてですが、筑前國續風土記拾遺には「(姪濱)村の四辺に東より西に連なりて小山あり。浦山すなわち愛宕山なり 興雲寺山(は)浦山の西に続く 丸隈山(は)道場山ともいう 中隈山 小戸山あり 以上海辺なり」と書かれています。

さらに「袙(あこめ)濱の名は丸隈山と中隈山の間にあり、今はアクマ濱という」となっています。袙は神功皇后が三韓遠征から帰還時この浜に着き、波濤に濡れた袙衣を干したという伝説から付けられた地名です。あこめをアクマですから、何か間違ってはいけない方向に訛ってしまっていますが、これは離岸流などを示唆しているのでしょうか。(単なる思いつきで書いています。)

15年地図2−ソには拍浜(あえて読むならば「うつはま」でしょうか)となっていますが、元年実測図ではアクマとなっています。拾遺の記載ではアクマは丸隈山と中隈山に挟まれていますので、東の名柄川河口が丸隈山、小戸ゴルフセンター(小戸2丁目1−2)の北の丘が中隈山で、その間にある元寇防塁跡あたりが該当します。筑前國續風土記では「丸隈山と中隈山の間の浜にいにしえより土手あり。これ蒙古を防ぎ石垣なり。」となっています。

また元年実測図には丸隈山に鳥居マークが見えますが、登ってみると毘沙門天がいらっしゃいました。098魚町で出て来た光福寺に所縁があるようで、その鳥居は文政10(1827)年の製でした。

ついでに書きますと、元年実測図には姪濱炭鉱からの運炭軌道が描かれています。起点の東に卍が見えますので、観音寺(姪の浜2丁目22−7)の西が起点のようです。姪濱炭鉱前に船着き場を作ればよさそうですが、水深が浅かったのでしょう。

明治通り 姪浜1丁目交差点を西に進み、姪浜北交差点で県道521号を渡り、南側の道(姪浜4丁目20と21の間)を通り、興徳寺ポンプ場(姪の浜5丁目23)の南で名柄川を渡り、小戸4丁目6と7の間を抜け、現在はそこで道は消えていますが、セブンイレブン小戸4丁目店(小戸4丁目2)あたりで明治通りを渡り、小戸大神宮参道に沿って北上するルートが該当するのではないかと考えていますが、どうでしょうか。

最終的に小戸山の東を通り積み出し堤防が海に張り出しています。小戸公園は妙見岬側は埋め立てられていませんが北側は埋め立てられており、この引き込み線が小戸公園と西部水処理センターの間の道になり、堤防は埋め立てられてしまっています。

神功
(102)

2022/03/15追加
神功は西区小戸5丁目から 同じく小戸5丁目から 黄色バッジ福岡西10と一緒に
 15年地図には記載なし。小戸5丁目は十郎川の西になりますが、15年地図2−ネに大學病院分院(現在は九大職員宿舎/小戸5丁目7)の記載があり、その西側に市町村境(―・・―)が走っています(壱岐村<下山門>が福岡市に編入するのは昭和16<1941>年)。

福岡中に神功皇后伝説がありますが、生の松原もまた神功皇后の三韓遠征にまつわる伝説の地です(リンク先は日本緑化センターのマツ再生プロジェクト<PDF>)。神功も神功皇后伝説にまつわる地名なのでしょうが、読みは「じんぐう」ではなく「じんこう」のようです。



十郎川東の西区小戸4丁目31に神功町公園が、十郎川西の小戸5丁目2に神功町西公園と神功町会館(公民館)があります。

神功
福岡西102)

2022/03/15追加
福岡西102神功も西区小戸5丁目から
         

福重
福岡西103)

2022/03/15追加
福重は西区福重2丁目から
 15年地図5−ネには福重の記載しかありませんが、元年実測図では上福重(本村)・下福重・鹿町など少し詳しい字名が載っています。若八幡宮(西区福重1丁目16)の西に上福重の町が広がっていますが、九電バッジは福重2丁目から見つかっており、福重1〜2丁目の南側部分が上福重に該当しそうです。

下福重は元年実測図で小田部の寶満神社と壱岐尋常小学校(壱岐小学校)の位置から考えると、ぎりぎり福重1・2丁目ではないかと考えていますが、ちょうど国道202号線バイパスに掛かって再開発されているようで、形跡を見つけられません。

鹿町公園は西区福重3丁目28にありますが、同公園は昭和に造成されたであろう戸建て団地内の公園です。すでに家が建っているところに、立ち退いてもらってまでは団地は作りませんから、元年実測図のいう鹿町はそれよりもう少し東になるのかもしれません。

尚、筑前國續風土記には元は上下光行村だったものが、三代藩主光之と同じ読みだったため福重村に改名したとなっています。光之は隣りの本村で生まれ(庶子)ており、何かと縁があったようです。
産土は上記若八幡宮。

石丸
福岡西103)

202/04/15追加
石丸は西区石丸3丁目18−3 寿宝寺跡の建物に
 15年地図には4・5ーネに石丸新家の記載までしかありませんが、元年実測図では石丸新家の西、名柄川と十郎川に挟まれて石丸の町(本村)も見えます。筑前港續風土記拾遺には「昔は新村があったが、人家を移して本村に併せる」と記されていますので、石丸新家はその後に再度できた新しい町なのでしょう。

15年地図で見ると、石丸新家の東際を市郡境(―・・―)境が走っています。石丸新町のバス停(上り)は姪浜大通り上石丸1丁目15の先にあり、道路を限りに区画整理されていますが、石丸・福重・姪浜(姪浜駅南2丁目)が境を接し、福重5丁目が北へ張り出す形は今も変わっていません。
拾遺には「産神は十六町村新宮大明神」と記載がありますが、御手洗神社(石丸3丁目17)についても「村内にあり」と記載されています。また、石丸の九電バッジが貼られた寿寶寺についても、「村内にあり」と記載があります。

生ノ松原
(104)

202/04/15追加
生ノ松原は西区生の松原1丁目から 同じく生の松原1丁目から
 15年地図には2−ネの小戸側に生ノ松原の記載。筑前國續風土記には下山門村の民居として「松原」と記載されており、生神社(壱岐神社/西区下山門1丁目9)や稲荷社(宇賀神社/西区生の松原1丁目7)の記載、また生の松原についても「名所にしてその名世に高し。東は十郎川姪濱境内より西は小濱に至る。東西十二町余(約1.3Km) 南北五町(約545m)」など詳しい説明が載っています。

明治22(1889)年下山門・拾六町・石丸・福重・野方・橋本・戸切の7村が合併して山門村が発足しますが、翌々年の明治24年には壹(壱)岐村に改称されています。経緯はわかりませんが、新村名の壱岐は壱岐直真値子を祀る壹岐神社より採られたのでしょう。(那珂郡八幡村も、村内に八幡宮が多かったことから名付けられた。)

十六丁
(105)

202/04/15追加
西区拾六町5丁目から
 15年地図では欄外ですので元年実測図で見ると、i、丸・與納・徳丸・高木の字が見えます。筑前國續風土記拾遺には「民居は本村 徳丸 与納 高木 浦などにあり」と記されています。

高木は十郎川に架かる高木橋(拾六町2丁目交差点際)に名を残していますが、元年実測図には高木に「文」が見え、壱岐尋常小学校(現在の壱岐小学校)のようです。高木橋より二本下に架かる橋が徳丸橋(徳丸橋交差点際)ですので、高木・徳丸はどちらも現在の西区拾六町3丁目域です。

拾遺には新宮大明神(熊野神社/拾六町5丁目4)は「与納というところの上にあり」となっています。元年実測図の與納の西には熊野神社であろう鳥居マークも見え、現在の拾六町5丁目が與納(与納)に該当しそうです。

i、丸は現在の拾六町2丁目にあたるのではないかと探しましたが、壱岐小学校が明治の初めの一時期に、福王丸小学校を名乗っていたとの記述くらいしか見つけられませんでした。

字広石に関しては163野方の欄で。
熊野神社(拾遺の記載は新宮大明神)が「十六町 石丸 下山門などの産神なり」。

大濠
(106)
大濠は中央区大濠2丁目から  同じく大濠2丁目
 15年地図6−ワ。      

浜田
(108)

108浜田は中央区草香江1丁目から
 108浜田が15年地図の浜田町一丁目(7−ワ)、109浜田は浜田町三丁目(7−カ)、110浜田が浜田町二丁目(6−ヨ)に該当するようです。108浜田域内からは鳥飼浜田町名義の東邦電力の電燈番號章も見つかっています。(鳥飼浜田町の欄に、浜田町域について少し詳しく書いています。)

浜田
(109)
109浜田は中央区草香江2丁目から 中央区鳥飼1丁目からも (鳥飼1〜3丁目は中央区)
    

浜田
(110)
110浜田は中央区草香江1丁目から 同じく草香江1丁目から
                                                                                     

城南町
福岡西111)

福岡西111城南町は中央区六本松2丁目から
 15年地図7−ワ。

このあたりがちょうど境目なので、「福岡営業所」と「西新営業所」のどちらが出てくるかと思ったら、そのどちらとも違う「福岡西」のバッジを目にし、我が目を疑うというか、一瞬事態を飲みこめませんでした。黄色バッジには「福岡西」がありますので、福岡西営業所が後に西新営業所に改称した可能性があります(追記 現在は福岡西の方が後だったのではないかと考えています)。

鳥飼1
(113)

2020/04/01追加
鳥飼1は中央区今川1丁目から
 15年地図で見ると、現在の明治通りの一本南(鳥飼神社参道前の道=西町の筋)から南に向かい鳥飼一丁目〜四丁目が広がっていますが、女子師範(現在の南当仁小学校)の西にはそれとは別に鳥飼本町が四丁目まであります。さらに女子師範の南に鳥飼五丁目が、城南線の南に六丁目が見えます(5・6−カ)。

筑前國續風土記拾遺には「民居は本村 別府(西新129) 大鋸谷茶圓谷福岡334) 荒戸(福岡302304319320) 地行(西新01101)等所々に散在する」となっていますので、今考えても大きな村です。また、伊崎浦(福岡313)も鳥飼村の地名として記載があります。
産神は鳥飼八幡宮(拾遺の記載は西町若八幡/中央区今川2丁目1)

鳥飼2
(113)

2020/04/01追加

鳥飼2も中央区今川1丁目
 頭番は鳥飼1と共通。現在の今川1丁目のより南(鳥飼1の南)側。                  

鳥飼3
(114)
鳥飼3は中央区今川2丁目から 同じく今川2丁目 2020/07/01追加
 新たに0*7を見つけたのですが、同じ街区符号(番)の東西の筋(西町筋)に019福岡西、樋井川沿いの南北の筋からは鳥飼3が出てきました。私の認識では明治通りの南に、北から西町・鳥飼一丁・二丁・三丁の順だと思っていましたので、福岡西(西町)と鳥飼3が同じ街区符号(番)にあることを不思議に思いながら帰宅しました。

帰宅後に15年地図5・6−カを検討しますと、西町の筋は菰川から樋井川までつながっていますが、鳥飼一丁目と二丁目の筋は鳥飼八幡宮までしかありません(それは今も変わりません)。そして鳥飼三丁目はまた、菰川から樋井川まで筋がつながっています。この時代は通りに囲まれたブロックではなく通りに町名(丁目)がついており、西町と鳥飼三丁目は現在の今川1〜2丁目いっぱいに広がり、鳥飼一丁目・同二丁目は今川1丁目域にとどまっていたようです。 

鳥飼3
福岡西114)

2020/04/01追加


福岡西114鳥飼3は中央区今川1丁目から
 111城南町でもあった福岡西営業所名義です。福岡西営業所が西新営業所になったと推測していますが、西新114鳥飼3と見比べても確実にどちらが古いとは言えません(追記 現在は福岡西の方が後だったのではないかと考えています)。

2020/06/01 中央区鳥飼1丁目からと誤記していました。正しくは今川1丁目からです。

鳥飼本
(118)

2020/07/01追加
118鳥飼本は中央区鳥飼3丁目から 黄色バッジ03とともに
 
同じく鳥飼3丁目から
 先に119鳥飼本を鳥飼2丁目から見つけていましたが、118鳥飼本が鳥飼3丁目から見つかりました。

15年地図では女子師範(現南当仁小学校)の西に鳥飼本町・二〜四丁と並んでいます(6−カ)。119は鳥飼2丁目の西端から見つかっていますので、鳥飼本町二丁に、118鳥飼本は現在の鳥飼3丁目からですが、左の0※9−1は城南線 鳥飼3丁目の交差点と今川2丁目の交差点を結ぶ南北の通りの東側から、右の1※7は同南北の通りと樋井川の間から見つかっていますので、それぞれ鳥飼本町三丁と同四丁に該当するのでしょう。

鳥飼本
(119)
119鳥飼本は中央区鳥飼2丁目から
                                                                                     

鳥飼5
(119)
119鳥飼5は中央区鳥飼1丁目から 同じく鳥飼1丁目
 鳥飼5は現在の鳥飼1丁目のより北(城南線)側。樋井川側は鳥飼6。                                  

鳥飼5
(120)
120鳥飼5は城南線の北側 中央区鳥飼3丁目から 同じく鳥飼3丁目
 現在は城南線で鳥飼3丁目(城南線の北)と鳥飼1丁目(城南線の南)が区切られていますが、この時代は通りに町名(丁目)が付いており、城南線のどちらからも鳥飼5が出てきます。

鳥飼6
(120)
120鳥飼6は中央区鳥飼1丁目から
 鳥飼6は現在の鳥飼1丁目のより南(樋井川)側。

シール跡があり数字は一部しか読めませんが、120で間違いないでしょう。ちなみにこのシールには九電のロゴがあり九電によって貼られたようですので、シールを貼った時期に管理方法が変わり、番号(契約章)が無効になったのでしょう。

 九電マークが入ったシールを貼られた鳥飼5。

塩屋
(121)
121塩屋は城南区鳥飼6丁目から 同じく城南区鳥飼6丁目
 15年地図では、現在の城南区鳥飼4〜7丁目は、大字鳥飼の塩屋や中浜という地名だったようです。(6・7−カ)

現在は南北で鳥飼4丁目・6丁目と別れていますが、この当時は東西で塩屋一丁目・二丁目だったようで、現在の鳥飼4丁目・6丁目共に、東側が塩屋一丁目で真ん中の縦列が塩屋二丁目となるようですが、その割には、鳥飼4丁目側が123・鳥飼6丁目側が121と頭番は東西ではなく南北で分かれています。同地区からは黄色バッジ 福岡西02が。

夕陽ヶ丘
(122)

2020/04/01追加
夕陽ヶ丘は中央区笹丘2丁目から
 夕陽ヶ丘は初めて聞く地名です。〇〇ヶ丘や××台は高度成長期に一山を切り開いて造成した時に付けられた地名でしょうから、15年地図には山があるばかりで地名の記載はありません。

大字鳥飼の121塩屋と123塩屋の間に、急に田島域である笹丘(城南区・早良区が分区する前の西区東田島)が割り込んだのは不思議ですが、単純に塩屋の発展を見越して122をキープしていたが、後に各地で開発が進み空いている番号を当てていったのでしょうか。

2021/05/15追記
中央区笹丘2丁目6に夕陽丘緑地を見つけました。夕陽ヶ丘(夕陽丘)という地名は確かに存在したようです。

塩屋
(123)

123塩屋は城南区鳥飼4丁目から
 123塩屋と123塩屋町は、単純に貼られた時期が違い、塩屋が後期には塩屋町と表記するようになったのでしょうか。数が少ないので確定的なことは言えませんが、123塩屋は2桁で、123塩屋町は両方とも200番台です。

塩屋町
(123)
123塩屋町も城南区鳥飼4丁目から 同じく鳥飼4丁目から
                                                                                          

梅光園
(124)
梅光園は中央区梅光園2丁目から 同じく中央区梅光園2丁目から
 梅光園は江戸時代の資料には聞かない地名ですので、戦後の造名かと思っていましたが、昭和9年最新福岡市街及郊外地図には記載がなく、翌年の昭和10年福岡市街地図名所案内に忽然にかつ整然と現れます。

梅光園の地名の由来について調べたところ、web上にもほとんど情報がありませんが、開発に携わった溝口梅太郎と光子夫人から一文字ずつ取ったという記述をどこかで見た記憶があります。(今その資料を見つけることが出来ません。)

溝口梅太郎が西南学院高等学校を退職(1933/昭和8年)して、福岡商業高等学校(現在の福岡大学)を創立したのが1934(昭和9)年と、まさに梅光園が地図に登場する時期です。梅太郎は私財をなげうち、個人で借金をして福岡商業高等学校を設立していますから、はたして宅地開発までしている余裕があったのでしょうか。

学校設立・運営資金の足しにするために、借金ついでに土地を買い開発したということもあるのかもしれませんが、それならば「さすが経済の先生、自ら資金の獲得を実践した」と逸話になっていそうな気もします。

草ヶ江
(126)
126草ヶ江は中央区草香江2丁目から
 現在は中央区草香江という地名表記ですし、15年地図でも草香江町と記されています。ただし同地図には「草ヶ江校」という表記もあり、この時からの伝統なのでしょう、現在も草ヶ江小学校と表記されます。(7−カ)

私の感覚でも現在の草香江1・2丁目が草香江ですが、15年地図では鳥飼駅の南(現在の別府3丁目あたりか)に草ヶ江本町が見えます(7・8−ヨ)。 2020/03/01追記 その後別府2丁目で131草ヶ江本を見つけています。

中央区草香江2丁目と城南区鳥飼5丁目は樋井川の東西岸になり現在では区も違いますが、この当時は当然区という考え方はありませんでしたので、草ヶ江と別府北が同じ頭番126で違和感はなかったのでしょう。

別府北
(126)

別府北は城南区鳥飼5丁目から 
 15年地図7−カ、頭番は126草ヶ江と共通。

         ここから回転させ切り出しています。見にくいのはご容赦ください。 

草ヶ江
(127)
127草ヶ江も中央区草香江2丁目から
 同じ草香江2丁目でも126草香江に比べてより南に位置するお宅から出て来ました。このお宅からは東邦電力の電燈番號章も出ており、戦前に建てられたより古い建物と考えられることから、126の番号枯渇で127を使ったわけではなく、126と127を場所(南北)で使い分けたのでしょう。

不明
(129)

2020/08/01追加
129不明は城南区別府1丁目から はす向かいのお宅には別府町2丁目の表札
 15年地図7・8−カ・ヨを見ますと、樋井川の西岸かつ筑肥線鳥飼駅(現城南区役所)の南側には、東から別府町一丁目・二丁目・三丁目、別府新町一丁目・二丁目・三丁目、草ヶ江本町一丁目・二丁目・(別府橋通りの北に三丁目以降)と並んでいます。

129はリフォームされて玄関枠の下敷きになっており町名を読むことができませんが、130別府新が別府2丁目から出てきていることから、またこのお宅のはす向かいのお宅には「別府町2丁目」の表札が貼られていることから、「別府」もしくは「別府2」と強く推測しています。

ちなみにこの表札は、福岡市内いたるところに同じものがありますので、郵便局のノベルティのようなものでしょうか。戦後、住宅が建て込みだしたときに、地番表示だったために住所が連続しておらずに郵便配達がスムーズに行かず、苦肉の策として表札を配ったのかもしれません(069西堅粕5でも同じ表札)。

別府新
(130)

2020/08/01追加
別府新は城南区別府2丁目から 城南区別府1丁目からも 2021/10/15追加
 15年地図8−カ・ヨ。130‐0※8は131−0※8草ヶ江本とは同じ街区符号(番)の、別府新が東の通りに、草ヶ江本が西の通りに貼られています。(この時代は、道路に区切られたブロックが一つの町や丁目ではなく、通りに町名・丁目が付いていた。)

草ヶ江本
(131)

2020/03/01追加
草ヶ江本は城南区別府2丁目から  同じく別府2丁目
 15年地図7・8−ヨ。                                                                    

草ヶ江本町
(131)

2020/08/01追加
草ヶ江本は城南区別府6丁目から
 城南学園通りの西、中村学園(15年地図 福岡學園8−ヨ)の南からも131草ヶ江本町が出てきましたが、別府2丁目の草ヶ江本とは違い草ヶ江本です。これは123塩屋と123塩屋町と同じく、貼られた時代で表記が違うのでしょう。塩屋・塩屋町と同じく、草ヶ江本は番号が2桁、草ヶ江本町は200番台です。

中浜
(132)
中浜は城南区鳥飼6丁目から 城南区鳥飼4丁目からも 2020/08/01追加
 15年地図7−カ。鳥飼6丁目は城西高小(現城西中学校)の東になりますので、15年地図の上中浜町一丁目に該当すると考えています。

2020/08/01 15年地図上中浜町一丁目域と思われる鳥飼6丁目から見つかった2枚を貼っていましたが、新たに鳥飼4丁目からも132中浜を見つけたので、一枚は貼り換えます。0※0−4は鳥飼小学校の東から見つかりましたので、下中浜町一丁目に該当するのではと考えています。

中浜
(134)

202/09/15追加
134中浜は城南区鳥飼7丁目から 同じく鳥飼7丁目から
 新たに134中浜を見つけました。それを踏まえて再度検討した結果、135ー1※1を15年地図の中浜町3丁目(7−ヨ)としていましたが、134中浜が上中浜町3丁目域で、135−1※1は龍王町2丁目(7−ヨ)域と訂正いたします。

中浜町
(135)

2020/08/01追加
135中浜町は城南区鳥飼7丁目から 同じく鳥飼7丁目から
 同じ中浜ですが132は中浜、135は中浜町です。これも123塩屋と塩屋町と同じように貼られた時代の違いかもしれませんが、それにしては頭番まで違ってきています。市営中浜住宅が15年地図の炭鉱跡(6・7−カ・ヨ)に該当するのでしょうが、左の0※8−1は市営中浜住宅の北から出てきていますので、下中浜町三丁目域と思われます。

一方、右の1※1−2は同じ鳥飼7丁目でも城西中学校(15年地図城西高小7−ヨ)の西から出てきていますので、上中浜町三丁目に該当すると考えています。

2011/07/15 補記
上記のように右の1※1−2は上中浜町三丁目に該当するのではと書いていましたが、新たに134中浜を見つけました。それを踏まえてもう一度5年地図を検討したところ、右の1※1−2は龍王町2丁目(7−ヨ)に該当しそうです。よって、以下も書き換えています。

九電バッジが貼られた時期には龍(竜)王町は中浜町に吸収されていた(九電の都合で便宜上中浜町のプレートを貼った可能性もあり)ようで、龍王町の痕跡は、七隈川に架かる竜王橋と下竜王橋、鳥飼7丁目6のアパート ラーナ竜王くらいにしか残っていません。



筑前國續風土記拾遺の鳥飼村欄には「龍王松 村の西南新川の堤にあり。(中略)古松の下に石神あり。龍神という。」となっており、これが字龍王(竜王)の起こりでしょう。また、「四辺は海なり。この所にして塩を焼きしという。」とも書かれており、塩屋もこれに関連する字名かもしれません。

田島
福岡西135)

2021/05/15追加
135田島は城南区田島2丁目から
 田島については137田島の欄に。

現地では頭番を135と読み、画像で確認してもそう疑わないのですが、135中浜町と整合しないと考えています。同じ頭番を違う町が共有することはありますが、その場合一方は2桁・もう片方は200番台等明確に使い分けることが多いと考えています。

1※1−2田島と1※1−2中浜町はモザイクで隠していますが番号が20番しか違いません。直線で1Km程度離れ、かつ間に別府を挟む田島2丁目と鳥飼7丁目でそのようなことはしないような気もしますが、136とはどうしても読めないので一応135としておきます。

田島
(136)

2021/05/15追加
136田島は城南区田島1丁目から 同じく田島1丁目から
 右側の西新136田島と福岡西136田島は、同じ敷地の別棟から見つけています。私はもともと福岡西が西新になったと、なんの根拠もなくただ今まで見てきた感で考えていましたが、箱崎035原田福岡東036原田の関係を見て、箱崎よりも福岡東が新しいのではないかと思い始めていました。しかし、西新136田島と福岡西136田島は同一敷地にあり、見るからに福岡西136田島を貼られた建物の方が歴史を感じます。またわからなくなっています。

田島
福岡西136)

2021/05/15追加
福岡西136田島も城南区田島1丁目から
                                                                                

田島
(137)

2021/05/15追加
137田島は城南区田島3丁目から 城南区田島4丁目からも
 15年地図9−カ・ヨ。筑前國續風土記拾遺には田嶋村として記載があり、八幡宮(田島八幡神社)が「本村にあり」となっています。同じく拾遺には友泉亭のについても「國君(藩主)の別荘なり」と書かれています。15年地図10−ヨには友泉の字も見えることから、友泉のバッジがあるのではないかと探しましたが、現在までに見つかっていません。

拾遺には田嶋村の民居として本村の他に「犬ノ馬場 井ノ浦」の記載があります。 犬ノ馬場は038弓ノ馬場欄に。

井ノ浦は、中央区輝国1丁目12に井ノ浦下池があります(上池がどこかにあるのではと探しましたが、元年実測図で見ると井ノ浦上池は井ノ浦下池と二連池だったようです)。15年地図には記載がありませんが、今昔マップの昭和25年(1948〜1956)を見ると、筑肥線の北 現在の輝国2丁目から小笹4丁目に掛けて井ノ浦が描かれています。

中央区笹丘(城南・早良が分区する前の西区東田島)は田島域ですし、詳しくどこまでとは把握できていませんが、輝国や梅光園の南部も一部田島域ですから、井ノ浦下池から笹丘2丁目を中心に井ノ浦の痕跡を探したところ、笹丘2丁目にあるギャラリーと筑肥新道(筑肥線跡)を挟んだ中央区小笹4丁目側のマンションに「井乃浦」の名が冠されているのを見ました。字は江戸時代からあり鉄道は後から出来、線路に沿って町分けされていますから、鉄道の北側だけではなく笹丘2丁目側を含めて井ノ浦だったのでしょう。

その他、笹丘からは夕陽ヶ丘(122)が見つかっています。茶山(038)も1〜4丁目は田島域です。
産神は田島八幡神社(田島4丁目7)


(137)

2020/04/01追加
隈は城南区長尾2丁目10−1から
 15年地図12−カ。隈は筑前國續風土記拾遺に、下長尾村の枝郷として小笹(尾笹)と共に記載があります。樋井川に架かる隈橋は、城南区長尾1丁目1・8と長尾2丁目9・18の間に。解体されたのを確認しましたので、住所を記載します。


(140)

2021/04/01追加
140堤は城南区堤1丁目から
 15年地図13−ヨ。筑前國續風土記拾遺には八幡宮が「本村の南にあり」となっており、15年地図14−タの神社マークの北に街が見えます。

同じく拾遺には堤の民居として、本村 八段田 丸尾等との記載があります。15年地図14−タに丸尾の字が見えますが、同地図では丸尾と八隈の間で一本松川が大きく蛇行しています。この川筋は今も変わらず、城南区堤2丁目22番あたりから東へ蛇行した一本松川は、都市高速環状線を越えたあたりでまた北へと向かいます。15年地図が指す丸尾はちょうど現在の堤団地の南端あたりに思えますが、住居を立ち退かせてまで団地は建てないでしょうから、堤団地の南が該当するのでしょう。

元年実測図では、横内(大字上長尾)の記載がありますが、丸尾は横内と丘を挟んだ北西側に描かれています。これらから堤小学校の西側の堤2丁目あたりに該当するのではと探してみましたが、何も見つかりませんでした。

一方、一本松川が油山観光道路と交差する橋(堤2丁目7・9と21・22の間)に「はったんだばし」が架かっています。



ひらがなの橋名板しか掛かっていませんが、まず間違いなく八段田なのでしょう。
産神は堤八幡宮(堤1丁目20)。

八ノ隈
西福岡140)

2021/04/01追加
八ノ隈は城南区堤2丁目から
 15年地図14−タに八隈として記載されていますが、筑前國續風土記拾遺には、片江村の民居として八ノ隈の記載があります。

15年地図では、堤八満宮の鳥居マークと八隈の間に二連の池が見えますが、北が三尾池(現三尾池公園/城南区堤1丁目33)・南が難波池(城南区南片江1丁目2)です。現在は難波池の東側は堤2丁目・難波池を含み西は南片江1丁目・難波池の南は東油山2丁目とちょうど3町の境になっており、八ノ隈のバッジは現在の堤2丁目から出て来ましたが、堤2丁目の最南西部にも八ノ隈があった(両八ノ隈だった)のか、堤2丁目の最南西部は片江域だったのか判断が付きません。140堤に書いた「はったんだばし」の位置からすると、堤側の字は八段田のような気もします。(まとまっていなくてすみません。)

駄ヶ原
福岡西140)

2021/04/01追加
駄ヶ原は城南区東油山6丁目から
 本村(大字)である東油山のバッジは、現在までに見つけられていませんので、東油山全体についてこの欄に書きますが、筑前國續風土記拾遺の東油山村には「民居は本村 古野 鉢伏等にあり」と書かれており、元年実測図では(15年地図は域外)笹池(城南区東油山1丁目10)の南に東油山古野の字が見え、ちょうど駄ヶ原バス停(上りは東油山6丁目1番)あたりに思えます。歩いてみましたが何も見つかりませんでした。

鉢伏上池(南)と鉢伏下池(北)は東油山6丁目12にあります。元年実測図の駄ヶ原と東油山古野の間に描かれた2連の池が鉢伏上・下池のようですから、駄ヶ原と鉢伏はほぼ同じ場所を指すようです。

また同じく拾遺には「駄原 鳥越に諸士の園地あり」となっており、開墾されていたことがわかります。

駄ヶ原は元年実測図で見ると、駄ヶ原上池(牧内池上の池)・下池(牧内池下の池/どちらも南区大字桧原)の北に描かれています。リンク先は南区役所のため池紹介のページですが、そこには駄ヶ原上池・下池ともう一池の計3池あったことが書かれており、元年実測図と整合します。

江戸時代には集落としての鉢伏・園地(田畑)としての駄ヶ原だったものが、明治以降は駄ヶ原の字が勝ったのでしょうか。

鳥越は同じく元年実測図で見ると、永田池(城南区南片江4丁目2)の南、片江風致公園(南片江4丁目41)のあたりに思えます。現在は城南区南片江4丁目5と14の間の橋に「とりごえばし」(漢字の銘板なし)として名を残していますが、鳥越というのは峠を差すのでしょうから、



現在は林道が封鎖されておりこの道は使えませんが、こちらから油山観音に抜ける道があり、日々龍樹権現まで歩いて参拝に上がっていたのかもしれません。拾遺には片江村の民居としても鳥越の記載があり、両鳥越だったようです。
東油山の産神は海(わたつみ)神社(拾遺の記載は龍樹権現社/城南区大字東油山)

西油山からはバッジを見つけられていませんのでここに一緒に書きますが、西油山の産神も海神社(同じく拾遺の記載は龍樹権現社/早良区大字西油山)です。西油山 海神社の参道の石段を登り切ってふり返った時に、西油山の産神が海神である理由が理解できました。東油山の海神社は現在は雑木に覆われて眺望はありませんが、一段下の油山観音からは相島まで見渡せます。

筑前國續風土記には東油山村と西油山村の間は一里と書かれており、現代の私は自動車が通れる道を基本に考えるので、東油山と西油山は区も違う全然別の町ですが、たぶん頻繁に行き来があったのでしょう。

上長尾
(142)
上長尾は城南区樋井川3丁目から  同じく樋井川3丁目から 2020/07/01追加
 15年地図14−カ。

2021/02/01 15年地図13−ヨには野添の字が見えます。小笹から下長尾を経て堤に抜ける道は、現在の県道555号小笹2丁目の南で分岐して、(現在は大池通と交差する樋井川1丁目東交差点で一部連続していませんが)油山観光道路城南市民プール角に至る道ですが、これは曲淵ダムから平尾浄水場への導水管が埋められた福岡水道(15年地図13−レ)です。

野添の「添」のすぐ西を南北に走る黒の実線が一本松川になり、一本松川の東かつ福岡水道の南ですので、城南区樋井川1丁目になると思われますが、痕跡はなにも見つけられません。
産神は御子神社(拾遺の記載では御子大明神社/樋井川3丁目43)

練兵場

この敷地標は、たしか長住2丁目の長住北公園だったはず
 15年地図の上長尾と下長尾の間には練兵場が見えます。(13・14−カ/戦時の17年地図からは跡形もなく消えている。)

同地図では鹿助池(南区西長住2丁目)の北側にこじんまりと書かれていますが、実際は西長住2丁目の鹿助公園を始め、南区長住1丁目の長住東公園・同長住2丁目の長住北公園・同長住5丁目の長住中央公園・同長住6丁目の長住南公園と、長住中の公園に陸軍の敷地標が埋設してあります。多少の距離は曳いた(移動させた)のかもしれませんが、ほぼ長住中が練兵場だったのでしょう。そしてその一部が、戦後に長住団地を建てる一塊りの土地として使われたのでしょう。

後述します前牟田・奥牟田は下長尾の小字ですが、上長尾の小字としては筑前國續風土記拾遺に棚頭・横内と並んで牟田の記載があります。明治の小字略図や上長尾村の産神 御子神社に掲げられた碑には大牟田となっています。

現在の南区長住は大牟田と言われたようです。牟田は湿地の意味ですが、そうであればこそ未開の地で、広大な練兵場を作れたのでしょう。


大辰

2020/10/01
 元年実測図では、桧原と東油山の間に「太辰」らしき地名が見えます。「辰」ではなく中が「又」もしくは「文(の点がない)」のように見えますが、それはもう私には読めない漢字です。同地図に載る井手(桧原村)と横内(上長尾村)の字は、それぞれ筑前國續風土記拾遺に両村の民居として記載があり、現在もバス停に名を留めています。東油山古野の地名表示の上には、笹池(城南区東油山1丁目10)らしき池も見えます。太辰の場所は上長尾(樋井川)・東油山・桧原が境を接する、ぎりぎり上長尾側でしょうか。

その位置関係を元に探したところ、城南区樋井川7丁目5と南区桧原7丁目60の間の、駄ヶ原川に架かる橋にそれらしき名を見つけました。欄干に掛るプレートは「大辰」橋と読めます。反対側にはひらがなのプレートも掛かっていますが、石に傷があったからでしょう4文字目が上に寄っており、「つ」ではなく小さな「っ」に見えますが「おおたつ」なのでしょう。

元年実測図のみがこの地域を掲載しており、他の地図と見比べることが出来ません。「太辰(中が又もしくは文)」と書いて「おおたつ」と読んだのか、単に「大辰」を間違えたのか、今のところはわかりません。

小笹
(143)
小笹は中央区小笹2丁目から
 15年地図11−ワ。       

下長尾
(145)
下長尾は城南区長尾4丁目から 同じく長尾4丁目   2020/06/01追加
 15年地図12−カ・ヨ。下長尾は1枚しか見つけられていませんが、玄関をリフォームされたようで、左端が玄関枠の下になって読めません。

この状態では045なのか145なのか判断できませんが、小笹(143)は下長尾村の枝郷です(筑前國續風土記拾遺には尾笹と記載)から、下長尾と一連の番号を付されていたと考え、145としています。(とすると間の144は、同じく枝郷の隈もしくは前牟田でしょうか?)※その後、隈は137で発見。

2020/06/01 完品の下長尾を見つけることが出来ました。頭番はやはり145でした。

2021/02/01 15年地図12−ヨの下長尾の西には浦山の記載があります。上長尾で書きましたように、この浦山と神松寺の間の黒で描かれた実線が一本松川ですから、浦山は下長尾と一本松川の間かつ下長尾八幡宮よりも南にあったと思われます。該当の城南区長尾5丁目を歩いてみましたが、成果はありませんでした。
産神は下長尾八幡宮(長尾5丁目1) 下長尾八幡宮の注連縄掛柱は白水 淡の揮毫

前牟田

前牟田のNTT電柱表示は南区長丘4丁目から
 早良郡下長尾村のうち、前牟田と奥牟田(長丘域)は現在南区になっています。15年地図には13−カに前牟田の記載があります。該当地域からはNTTの電柱表示しか見つけられていません。

奥牟田

市営奥牟田住宅は南区長丘3丁目に
 15年地図には14−ワに奥牟田があります。記載の場所が現在の大池通り長住2丁目の交差点あたりに見え、下長尾域(南区長丘)なのか上長尾域(南区長住)か微妙ですが、明治の小字略図には前牟田と並んで大字下長尾の小字として奥牟田の記載があります。 

神松寺
(145)

2020/05/15追加
神松寺は城南区神松寺から
 15年地図12−ヨ。神松寺は片江村の枝郷ですが、独自の産神(老松神社)を持っており、江尾時代から発達した町だったのでしょう。

筑前國續風土記拾遺には、同地に「醫徳山神松寺があり地名も神松寺という」と書かれていますが、老松神社の欄に「この社いにしえ神松寺ありし時の鎮守なり」となっており、神松寺は早くに廃寺になっていたようです。
神松寺の産神は老松神社(城南区神松寺1丁目4)

片江
(146)

2020/05/15追加
片江は城南区片江3丁目から 片江1丁目からも
 15年地図14−タ。片江は大きな町だったようで、現在は片江・南片江・西片江と3町域に分かれています。片江1丁目はバス停や公園を見ると北片江(片江北)と呼ばれていたようですが、現在は片江の一部です。

筑前國續風土記拾遺には、片江村の民居として「本村 八ノ隈 神松寺 鳥越」などの記載があります。鳥越は東油山 駄原の欄に。

15年地図13−レには福岡水道が見えます。曲淵ダム(大正12<1923>年竣工)から平尾浄水場(南公園/中央区小笹5丁目1)まで送水するための導水管が埋められており、それに沿って道路が作られていました。

その経路は、曲淵ダムから野芥までは国道263号線の西側を送水管が走っており、道路に併用されていません。早良区野芥4丁目50と同6丁目4の間の斜めT字の交差点は、梅林方面から西進して来ると右折しにくい交差点ですが、南から水を流すためにこういう向きになっているようです。

その先は県道49号(二丈大野城線)に向かって行き、県道49号に沿って東に折れ、この区間は道路が連続していませんが、福岡大学国際交流会館(城南区西片江1丁目17)の前につながります。

そこからは道なりで、市立障がい者フレンドホーム(同区南片江2丁目32)の前を通り、国道202号外環状(福岡都市高速環状線)を南片江交差点と南片江小学校入口交差点の中間ほどで越え、城南市民プール(同区片江1丁目5)の南で油山観光道路と斜めに交差し、樋井川1丁目交差点で大池通りを渡り(ここも現在は連続していません)、境橋(同区長尾4丁目1と長尾3丁目21の間)で樋井川の下を潜り、中央区小笹2丁目交差点の南で県道555号線と合流しています。
産神は片江阿蘇神社(拾遺の記載は阿蘇大明神社) 拾遺には「肥後國阿蘇神社記に早良郡山門庄及び比伊(樋井)郷は阿蘇神領なりしという」と記されています。

片江
(147)

2024/01/15追加
片江は城南区片江5丁目ダリヤ幼稚園付属建物に
 146片江は片江1丁目と3丁目から見つけていましたが、新たに片江5丁目から147片江を見つけました。

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

桧原
(150)
桧原は南区桧原2丁目から
 15年地図域外。長丘(下長尾村)・長住・西長住(上長尾村)・桧原・柏原は現在は南区ですが、江戸時代からの早良郡域です。

現在の南区を構成するその他の町は旧那珂郡になりますが、那珂郡は那珂川水系の村々と考えていますので、樋井川水系となる上記の村や郷が早良郡に属すのは自然です。(柏原村の最東端の新池古池は、那珂郡屋形原村の箱の池と連携した那珂川水系。)

福岡市が政令都市となって区制が敷かれたのは1972(昭和47)年ですが、それまではこれらの町は早良郡という意識が強く、南区に編入されたことに驚きがあったかもしれません。そういう事情で桧原・柏原は西新営業所管内だったようです。今となっては、逆に早良郡だったといわれてもピンときませんが。

元年実測図には檜原の字として井手が載っていますが、大辰の欄でも書きましたように、井手はバス停(南区桧原7丁目)や井手公園(桧原7丁目49)・その横を流れる浦田川(樋井川水系)の前井手橋にその名を残しています。



また、元年実測図では檜原の町の西はずれに「文」が見えますが、南区桧原5丁目9番に桧原尋常小学校跡の記念碑が建っています。



ついでに私の覚書です。元年実測図では卍が道路の南にあります。現在の逍遥寺(桧原3丁目8)は県道49号(大野城二丈)線の北沿いにあり、これは道が付け変わったのか、寺が近接移転したのか?
産神は五社神社(拾遺の記載は五社大明神社/桧原2丁目24)

柏原
(150)
柏原は南区柏原4丁目から 同じく柏原4丁目   2020/06/01追加
  15年地図域外、頭番は桧原と一緒。

元年実測図には柏原の字として、柏原古野・中嶋・三十田・水谷の記載があります。古野は南区柏原1丁目10前に古野バス停として名を留めています。

中嶋は柏原1丁目52と同4丁目22の境に掛る橋に、中橋として名が残っています。同地図の柏原(=本村)と書かれた文字の下にある卍が照安寺(柏原4丁目16)で、本村の南には埴安神社(柏原4丁目20)の鳥居マークも見えます。古野(1丁目)と柏原(本村/4丁目)の間に中嶋(中島)があるのは元年実測図の位置関係と一致します。

 中島橋       三拾田橋

三十田は、駄ヶ原上池下池や萩ノ原(はぎのはる)峠へ至る道から、花畑園芸公園から柏原7丁目に下って来た樋井川沿いと見当をつけて探しましたが、実際はもう少し下流の、柏原6丁目7と同11の間に掛かる橋にその名を残していました。欄干のプレートには「さんじゅうだ」と刻まれています。水谷も三十田の東ですので同じく柏原6丁目でしょうか、明治の小字略図にはその字はなく、一帯は区画整理されていることから、痕跡を見つけられていません。

元年実測図には記載はありませんが、柏原6丁目15に柏原ゴソ公園という不思議な名前の公園があります。このような不思議な名の場合はたいがい字名なのですが、明治の樋井川村の小字図を見ると、確かに該当の地域(三拾田の東)に「ゴソ」の字が見えます。



柏原はこの他にも、拾遺の記載(産神以外の祠や白石<花崗岩>が採れること)や、明治の小字図の地名がよく残っているのですが、それはまた機会をあらためて。
産神は埴安神社(拾遺の記載は十六天神社/柏原4丁目20) 山田の産神は羽黒神社(羽黒大明神社/柏原6丁目の先<大字370−1>)

四ヶ小路
(151)

2022/05/15追加
四ヶ小路は早良区四箇3丁目7−39 明法寺の山門に 同じく四箇3丁目7−50 定禅寺に
 四箇は15年地図の域外ですので元年実測図で見ると、北の室見川沿いに都地河原が、四箇の町中に弥武・小路・警固・雁川の字が見えます。筑前國續風土記拾遺の四箇村欄には、民居は「本村 警固 都地 河原にあり」と書かれています。

元年実測図では老松宮(四箇3丁目13)らしき神社マークの北に小路の字が見えます。一方拾遺には、定禪(禅)寺は本村にあると書かれています。現在四箇にある明法寺(早良区四箇3丁目7)のホームページを見ると、定禅寺が転派して明法寺となったことが書かれていますが、現在の明法寺の隣りには、定禅寺の額が掛かった仏域が明法寺とは別にあり、その両者に四ヶ小路の九電バッジが貼られています。、今昔MAP 福岡市南部 昭和44年改測 昭和46.11.30発行(1967〜1972)で見ますと、明法寺・定禅寺らしき卍が見え、そこが小路となっています。

このことから、老松宮と明法寺・定禅寺の間に小路が広がり、小路=本村なのでしょう。

元年実測図では小路の北に弥武の字が見えます。拾遺には弥武に天神社があると書かれており、天神社(四箇3丁目2)の周りが弥武となるようです。都地川原は都地川原公園(早良区四箇1丁目16)などに名を残しています。

 

元年実測図では都地川原にも卍が見えますが、教徳寺は四箇1丁目13に。同じく元年実測図には雁川(151警固の欄に記載)の北に龜(亀)丸の字が見えます。現在の四箇田公民館(早良区四箇6丁目5)あたりの字のようですが、現在その痕跡を見つけることは出来ません。

四「箇」ではなく「ヶ」を使っているのは、単に箇の文字型がなかったからなのかと思いましたが、拾遺の飯盛村 飯盛神社の欄に「四ヶ村」との記載がありますので、「四箇」「四ヶ」どちらも使われていたのかもしれません。
拾遺には「此村に有久 新原 榊 菰田の四つの名あり。ゆえに村名とす。四つの名は今は村民の氏に称せり。また一説には産神四社あるによりて村名とする。」となっています。

本村の半分と都地川原は飯盛社(飯盛神社/西区飯盛609)、本村の半分は老松天神社(老松宮)、警固は警固大明神社(警固神社/四箇4丁目4)、雁川は雁川天神社がそれぞれ産神となっており、確かに四社です。

警固
(151)

2020/05/15追加
警固は早良区四箇4丁目から
 筑前國續風土記拾遺の四箇村欄には、警固に警固大明神社があることが書かれています。警固神社は早良区四箇4丁目4に。拾遺には、警固には警固田があったため勧進されたと書かれています。

雁川は警固の道を挟んだ北になりますので、四箇2丁目が該当するのでしょう。拾遺には雁川には雁川天神社があると書かれていますが、現在は該当するものは見つかりません。

飯盛
(152)

202/06/15追加
飯盛は西区大字飯盛から 同じく大字飯盛
 筑前國續風土記拾遺には飯盛の民居として「本村 戸井圃ならびに枝郷本名なり」と記載があります。

さらに「(早良)川の西岸に枝郷本名あり」と記されており、元年実測図で見ると室見川の西岸に本が見えますが、本明と室見川に間に市町村境<―・―>が走っています。室見川を越えて田村が張り出しており、現在の田村は早良区ですが、ここは西区大字田という地名になります。

戸井圃は正確な場所はわかりませんが、室見川水系日向(ひなた)川に架かる橋に戸井橋(飯盛450西)があり、このあたりではないかと考えています。

拾遺には水谷に正行寺があるとされており、水谷は元年実測図では飯盛の集落の北にその字が見えますが、卍はありません。いつも参考にさせてもらっているお寺巡りの友で見ると、「大正14年に鞍手郡小竹町勝野に移転した」旨が書かれています。
拾遺には飯盛神社が「当郡の惣社にして七村飯盛 吉武 金武 羽根戸 四ヶ村 田村 野方なり の産神なり」と記されています。

羽根戸
(152)

202/06/15追加
羽根戸は西区羽根戸から
 筑前國續風土記拾遺には「民居は本村 三軒屋にあり」となっています。一条寺(羽根戸377)が「本村にあり」となっており、元年実測図には一条寺の掲載はありませんが、現在の一条寺の周りが本村となるのでしょう。

元年実測図に三軒屋の掲載はありませんが、拾遺には「三軒屋のあたりより野方村の境にかけて広き野あり。(中略)このあたりの山野に石窟多し。」と記されています。このあたりは古墳の多い場所ですが、羽根戸と野方の境ですので、吉武高木遺跡や野方遺跡ではなく、羽根戸遺跡(現壱岐丘中学校/西区羽根戸303−1)のことでしょうか? そうであれば元年実測図の小路と近い場所といえるのかもしれません。
「産神は飯盛社なり」。拾遺には天神社(羽根戸549−1)の記載もあり「むかし平群郡に宰府天神草創以来の御神領あり。ゆえに本社をここに祀る。」となっています。


(153)

202/07/15追加
丸は西区金武から 同じく金武
 筑前國續風土記拾遺の金武村欄には「民居は本村丸ともいう 西山 妙見崎 合古森 乙石 都地 立野 山田 浦江」の記載がありますが、浦江は拾遺の時点で「今は人家絶え」となっています。

皿山あたりをを起点とした三瀬街道は、原 舟底 次郎丸 川原と過ぎ、金武中学校(早良区仕方3丁目1)前の松風橋で室見川を渡り、最初の宿である金武 丸に至ります。松風橋から緩やかに上ってくると、宿の入口に、また出口側にも鍵の手の名残を感じます。

この金武宿(本村)といえる場所からは丸名義で出てきました。

拾遺に金武村の民居として書かれている字の内、都地は元年実測図の室見川沿いに掲載があります。同地図の都地には「文」も見え、金武尋常小学校(現福岡市立金武小学校)の北に集落が広がっています。都地名義のバッジもあったはずですが、見つけることは出来ませんでした。

 都地城址の案内板は西区金武2056前に(現在は民家)

金武村都地は室見川を挟んで、田村都地川原と両都地です。

同じく拾遺に書かれた立野は、建野として元年実測図の都地と丸の間あたりに描かれています。拾遺には「大日堂立野」となっていますが、大日如来のお堂は金武1061にあり、建野名義のバッジもあったはずですが見つかりません。

拾遺に「今は人家絶え」と書かれている浦江は、「山王社 浦江(にあり)西入部の民よりもっぱらに祭祀す」となっており、浦江は西入部に近い場所にあったことが想像できます。また「薬師堂 浦江」となっており、金武52にある薬師堂が該当するようですが、その薬師堂は現在、荘厳すぎる民家の敷地内にあるようです。地理院地図にはそのあたりに浦江の字が描かれています

金武で153を共有していますので、普段は下2桁目をモザイク処理していますが、一桁目にモザイクを掛けています。丸は20〜40番台で見つかりました。

拾遺の金武村欄には多くのことが書かれていますが、金武村は山際ですので山越の各道について「この間(前段階で山について書かれている)に山越道四條通れり」となっており、

「日向峠金武吉武高祖三村堺
県道56号大野城二丈線 日向(ひなた)峠はほぼ往時のままのルートなのでしょう。

「早良谷越王丸山堺川原村に通う道なり
県道56号線日向峠へ向かう道から分かれて、王丸山の東を通り糸島市川原に向かう道がありますが、今も歩けるのか。筑前国郡絵図 早良郡怡土郡を見ると、金武村内乙石・西山両村と西堂村内川原村の間に早良谷が見えるのですが、果たしてどこを指すやら。その上(北)にはヒナタ峠も掲載されています。

「龍峠曲淵石原山堺
曲淵の石原に通じる道は飯場峠で、これが三瀬街道となります。

「宇土峠」
拾遺の曲淵村の記載では、「宇土嶺あり。金武村に越える道なり。」 県道562号字西山の上から西山の東を通り曲淵に至る山道があります。
「戸栗(へぐり)郷の内にて飯盛社を産神とす」

古々盛
(153)

202/07/15追加
古々盛は西区金武から
 元年実測図には丸と乙石の間に古々森が見えます。一方筑前國續風土記拾遺の金武村欄には民居として合々森の記載があります。現在は古々森と乙石の間に、すっぽりとかなたけの里公園がはまっています。

古々森は元年実測図で見ても軒数が多くなさそうですので、丸に引き続き40番台が使われています。

乙石
(153)

202/08/15追加
乙石は西区金武から
 元年実測図には乙石(おといし)の字は掲載がありますが、その集落自体は残念ながら地図からは見切れてしまっていますが、乙石はかなり大きな町です。同地図の乙石の南に見えるのは浦田下池でしょう。

筑前國續風土記には「山神 乙石にあり」「観音堂 乙石」の記載があります。大山祇神社は乙石の町の西外れ西区大字金武1541に、観音堂は乙石の東の入口にあるお堂でしょう(金武1608前)。同じく拾遺には乙石の山神と観音堂は、天文(1532〜1555)年間に阿波国より当地に流れ着いた結城兵部少輔が開いたと書かれており、結城兵部少輔の墓所は観音堂と向き合うように金武1632−6に。

九電バッジを探すということは玄関を覗くということですが、乙石では結城氏の末裔となるのでしょう、結城姓の表札をたくさん見ました。乙石からは1枚しか見つけられませんでしたが50番台でした。

妙見崎
(153)

202/08/15追加
妙見崎は西区金武から 同じく西区金武
 元年実測図には妙見崎は掲載がありませんが、筑前國續風土記拾遺には「妙見神社妙見崎」と記載されており、同地図では古々森から妙見池を挟んだ南に、妙見神社の鳥居マークとその東に妙見崎の集落が見えます。実際に歩いてみますと両集落は離れておらず、妙見崎に続いて古々森があるイメージです。

妙見崎は70〜90番台で見つかっています。

西山
(153)

202/08/15追加
西山は西区金武から
 元年実測図ではぎりぎり欄外となってしまっていますが、筑前國續風土記拾遺には西山は金武村の民居として記載があり(筑前国郡絵図 早良では乙石と並んで金武村の枝村として掲載)、妙見崎の集落から龍谷川を挟んだ南、旧三瀬街道(県道562号)沿いに西山の集落があります。金武宿を発った三瀬街道は、西山を過ぎていよいよ山道になり、龍峠(飯場峠)を越え、次の宿 飯場を目指します。

次郎丸
(154)

2022/09/15追加
次郎丸は早良区次郎丸3丁目から 同じく次郎丸3丁目
 15年地図9−ネにぎりぎり次郎丸の町が載っています。同じく9−ネには立屋敷の字が、9・10−ネには高石も見えます。また15年地図では域外ですが、元年実測図では次郎丸の町の西、三瀬街道沿いに河原の字も見えます。

筑前國續風土記拾遺には「民居は本村 立屋敷 高石 新村等」と書かれています。

元年実測図ではお宮(埴安神社/次郎丸5丁目4)の北に本村があるようですから、まずはそこ(次郎丸5丁目)を中心に探しました九電バッジは見つかりません。日を改めて、高石 立屋敷を歩いてみました。

 

高石は次郎丸高石公園(早良区次郎丸6丁目9)に、立屋敷は立屋敷橋(早良区次郎丸1丁目17と19の間)に名を残していますが、それ以上のものは見つかりません。

次郎丸からは九電バッジを見つけられないかもと思いながら、さらに日を改めて河原に該当するであろう次郎丸3丁目を歩いたところ、歴史を感じる立派な家が通り沿いにたくさん残っていました。3丁目は三瀬街道沿いでもあり、本町とは別に繁栄があったのでしょうか。

 次郎丸河原公園は早良区次郎丸3丁目26に

この河原と言える地域から次郎丸名義で出て来ましたので、大字次郎丸全域が次郎丸名義で、河原や高石・立屋敷等名義のバッジはなかったと、今のところは考えています。

田村・次郎丸から賀茂・有田・原を歩くと水郷だと感じます。室見川やその支流からクリークを引いてあり、現在は三面護岸ですが、農業用水のために掘削されたのでしょう。
産神は埴安神社(拾遺の記載は十六天神社)。


(156)

2022/09/15追加
田は早良区田村3丁目から 同じく田村3丁目から
 田村は15年地図では域外ですので元年実測図で見ますと、田村(本村)の北に田村泉・南に貞嶋の字が見えます。

筑前國續風土記拾遺には「民居は本村 貞嶋 新村(城角という)にあり」と書かれています。貞嶋は貞島として早良区田村7丁目あたりに名を残しています。

 貞島公園は田村7丁目6に

地名の田に村を付けて田村ですが、現在の地名も田村となっており、それで地名になっています。しかし、福岡田町郵便局や福岡銀行田町支店(どちらも早良区田村1丁目1)等、現在の田村1丁目(田村の最北)は、田町と呼ばれていたようです。城角は重留(西新175/未編集)の欄で。

さらには室見川を渡った金武側にも田(西区大字田)が存在しています。
田村3丁目に須賀神社の立派な社がありますが、拾遺による産神は飯盛社(飯盛神社/西区飯盛609)。

梅林
(158)

2022/10/15追加
梅林は早良区梅林6丁目から
 15年地図12−ツ。梅林は1〜5丁目及び油山山中の大字部が城南区、6・7丁目が早良区と、原・飯倉・野芥(未編集)と同じく、区割り時に城南区と早良区の股裂きになっています。
 産神は梅林八幡宮(早良区梅林6丁目7)。

駄原
(158)

2022/10/15追加
駄原は早良区梅林7丁目から
 15年地図12・13−ツ。駄原の南に中尾池(早良区梅林7丁目25)らしき形をした池があります。中尾池ならばその横に梅林第3溜池もあるはずと思ったのですが、こちらは番号で呼ばれる池なので、少し時代が新しいのかもしれません。

その中尾池の北に、駄原の町がかなり大きな規模であります。現在の早良区梅林7丁目には立派な家が並んでおり、ここが駄原の町だったようです。一方、筑前國續風土記拾遺の梅林村の欄には駄原は記載がなく、民居として本村(梅林6丁目)の他に檀原と平原が載っています。また、福岡県立図書館が公開している筑前國郡絵図 早良郡には「檀原村 梅林村の内」(檀は異字体ですが、私のパソコンでは出せない文字でした)が描かれています。

梅林村との位置からしてもこれが駄原で間違いないでしょう。となると、駄原と書いて「だんばら」「だんばる」と読むのでしょうか。(読み方は確認できていません。)

東油山(駄ヶ原)にもあった駄の付く字名は、平地ではなく山(丘陵部)で見かけることが多いのですが、江戸時代の農村は米が価値観の中心ですので、駄というのは単に他の字と比べて米の獲れ高の問題なのでしょうしか? そして、それでも町があったということは、林業等それぞれの生業があり、そこに集落が出来る必然があったのでしょう。 (東油山 駄ヶ原と梅林 駄原は、近隣ではあるが連続はしていない模様。)

西脇
(159)

2022/12/15追加
西脇は早良区野芥2丁目から
 15年地図11−ツ・ネ。現在の国道263号となる道は多少は修正はされているようですが、イメージ的には現在とさほど変わらない場所を通っています。ただし、県道49号線はまだなく、梅林から野芥の街中を貫く道は、梅林八幡宮の南を通り国道263号野芥小学校入口あたりに至る道のようです。

15年地図には地禄天神(早良区野芥2丁目37)の掲載はありませんが、元年実測図を見ると西脇の街中に鳥居マークが見えます。

筑前國續風土記拾遺の西脇村の欄には、西脇 竹花の両所に居住するとなっています。15年地図には10−ツに竹ノ花の掲載がありますが、現在は早良区干隈6丁目18に市立竹ノ花集会所(公民館)があり、確かにその周りに古くから発達した町を感じます。さらにその北に無田の地名が見えますが(9・10−ソ)、無田は早良区干隈4・5丁目あたりのNTTの電柱表示でしか確認できませんでした。



干隈について書きましたが、干隈も1・2丁目が城南区、3丁目以降が早良区ですが、15年地図では熊本池(11−ソ)の西に町が見え、確かに現在の城南区干隈2丁目に古町があるのですが、干隈のバッジも見つけられていません。


都町
福岡西160)

202/11/15追加
都町は西区内浜2丁目から
 元年実測図には姪濱町と下山門の間の名柄川西岸沿いに曾根原の町が見え、その西側を町村境(―・―)が走っています。姪浜町は1933(昭和8)年に、壹岐村よりも先に福岡市と合併しますので、15年地図ではその境は郡市境(―・・―)となっています。

この曾根原(元年実測図にはバルとルビが振ってあり「そねばる」)が都町となり、現在の内浜2丁目が該当すると推測しています。

山門
福岡西160)

202/11/15追加
160山門は西区下山門3丁目から 西区下山門4丁目からも
 15年地図3・4−ネ。同地図でも十郎川を挟んで両岸に下山門の町域が見えますが、元年実測図で見るとかなり大きな町であり、二宮神社(下山門3丁目16)の鳥居マークと要心寺(同19)の卍と思しきマークも描かれています。

筑前國續風土記拾遺には「民居は本村 松原(生の松原) 城原(城ノ原)などなり。村中に小川流れる。」となっており、また、「この村をあえて下山門と呼ぶことは、十六町(拾六町 以下同)を上山門としてそれに封ぜる名なり。」となっています。筑前國續風土記には山門村の記載がありますが、「昔は石丸村、十六町村、光行村(福重村)、山門村すべて一村なりしを、長政公入国後に四村に分けたる。今は上山門という村はなし」と書かれています。尚、續風土記には山門(ど)とわざわざルビが振ってあり、「しもやまと」は濁りませんが、「やまど」だったようです。

現在の西区上山門は、下山門村城ノ原を中心とした新しい地名です。よって、九電バッジが貼られた時期には上山門はなく、下を付ける必要がなかったのでしょう。

元年実測図で見ると、姪の浜から現在の都橋を渡り、曾根原の町を抜け下山門へ至る道があります。曾根原と下山門の間に町村境(―・―)が引かれています(わざわざ赤鉛筆で線が引かれています)。この曾根原と道続きの南西 下山門側にも若干の町が見えます。ここは春添という字になるはずですが、九電バッジは見つかりませんでした。春添集会所(公民館)は西区下山門1丁目4に。
拾遺の拾六町 新宮大明神(熊野神社)欄に、同神社が下山門の産神であることが書かれています。下山門の欄には、生神社(壱岐神社/西区下山門1丁目9)と稲荷社(宇賀神社/西区生の松原1丁目7)及び要心寺(「小園にあり」/下山門3丁目19)の記載はありますが、近世以前は埴安神社であっただろうと推測できる二の宮神社は載っていません。

西脇
(161)

2022/12/15追加
161西脇は早良区野芥3丁目から 同じく野芥3丁目
 西脇については159西脇で。

野芥
(162)

2022/12/15追加
野芥は早良区野芥4丁目から 同じく野芥4丁目から
 15年地図12−ツ・ネ。15年地図当時の野芥の町は、櫛田神社の北に広がっています。櫛田神社南の12−ツ・ネに描かれた池は七田池(早良区野芥5丁目4)でしょう。梅林の南から野芥の街中を通る道は、現在の県道49号線ではなく、梅林八幡宮の南を通り国道263号野芥小学校入口辺りに至る道のようです。

元年実測図には野芥の南西に土井の字が見えます。田隈土井公園が早良区野芥7丁目36にありますが、



その周りに消防団車庫や納骨堂など古くから発達した町を感じます。その西に西ノ坪の字があるというのは私の覚書。

野芥と田村の間に田隈1〜3丁目がありますが、田隈は明治22(1889)年に、西油山()・野芥・梅林・干()・西脇・免(/現在の賀茂)・次郎丸・村の各村が合併した時に名付けられた合成地名です。よって、現在の田隈1〜3丁目は野芥・田村のどちらかの域になるのでしょう。
)は九電バッジ未発見。

野芥は早良区と信じて疑わなかったのですが、妙見山の北尾根に城南区大字野芥が存在しています。
産神は野芥櫛田神社(早良区野芥4丁目24) 拾遺には干隈も「もと野芥村の枝郷なり。ゆえに本村の櫛田社を産神とする。」と書かれています。

橋本
(163)
橋本は西区橋本2丁目から 同じく橋本2丁目
 (以下、2022/05/15の記載) 15年地図域外ですので元年実測図で見ますと、室見川の西岸に大きな橋本の町が見えます。町の北に鳥居マークが見えるのですが、橋本八幡宮(橋本2丁目19)は橋本の町の南にあり、筑前國續風土記拾遺にも「八幡宮 村南の松林の中にあり」となっています。

また、現在は室見川の東岸は早良区有田(8丁目)・同区室住団地ですが、元年実測図ではわざわざ郡市境に赤鉛筆で線が引かれており、室見川東岸も橋本(同地図当時は早良郡壱岐村大字橋本)だったことがわかります。拾遺には「村の東に室見川流る。その東岸にも当村の田んぼ多くあり。」と書かれており、前河原との字だったようです。有田小学校グランドの東横から室住団地の東を流れる川の西側までが橋本域でしょうか? 橋本東公園は早良区有田8丁目13に。

なお、拾遺の橋本村 八幡宮欄には「寛永五(1628)年 江龍公(黒田 光之)この村にて誕生給う」と記されています(橋本1丁目3の橋本公民館に「黒田光之公の誕生し給う地なり」の碑あり)。

江戸時代 正室は江戸で人質生活ですから、国許で生まれるのは庶子です。なぜ橋本村で生まれたかについては、Wikipediaをはじめいくつかの資料で「(父)忠之が(生母)養照院を嫌って、筆頭家老 黒田一貫に預けた」と書かれていますが、寛永11(1634)年には同父母弟の之勝(第2代東連寺藩主)が生まれています。

兄の妊娠中に嫌って遠ざけたならば、弟が出来ることは考えづらいでしょう。忠之の正室 久姫(梅渓院)は寛永5年7月に若くして亡くなっています。光之が生まれたのは同年5月(いずれも旧暦)です。久姫の死因はわかりませんが、以前から患っていたならば、子のなかった久姫に対し、(生まれるまで男女はわかりませんが)将来嫡男となるかも知れぬ非嫡出子が生まれることが露見するのは、病に障りそうです。久姫だけではなく、ほとぼりが冷めるまでは家中にも秘匿するしかなかったでしょう。

野方
(163)

2023/01/15追加
野方は西区野方1丁目から 西区野方6丁目からも
 筑前國續風土記拾遺には野方村の民居として「本村(中城戸 東西) 舘屋敷 平原 廣石 勧進 道隈など」と書かれています。また八幡宮については「本村の北にあり」となっていますので、野方天満神社(野方1丁目4)の南側に町が広がっていたようです。

元年実測図で見ると、野方天満宮の鳥居マークと本願寺(同じく1丁目4)の卍が並んでおり、確かにその南の東西筋沿いに町が見えます。付近を歩いてみますと、この筋に該当するのは現在の県道561号の一本南 旧道のようです。この筋を西にたどって行くと、「これより西の山間を経て、志摩郡の青木村に通う道を、廣石越という」と拾遺に書かれた「廣石越え」で、福岡市立西陵高校の住所が西区拾六町字広石となっており、現在の県道561号線がこれに該当するのでしょう。

余計なことですが、西陵高校に隣接する西部清掃工場は、拾六町1191と地番を持っていますが、西陵高校の住所は、西区拾六町字広石がすべてで、いわゆる無番地です。

野方の話に戻り、元年実測図では平原は十郎川の西ですから、野方6丁目が該当しそうです。十郎川に架かる平原橋は、野方天満神社の際 野方1丁目4と6丁目31の間に。道隈(どうぐま)は西区野方2丁目に、道隈公園(2丁目11)や道隈集会所(公民館/2丁目13)などよく名を残しています。

同じく野方2丁目22に勧進原池が、勧進原公園は2丁目36にありますので、道隈の西に勧進があったのでしょう。

元年実測図には野方の町の南に、産神の天満宮よりも大きな鳥居マークが見えます。場所的に野方公園(野方1丁目9)の周りとあたりを付け歩いたところ、野方公園の南に祠が建っています。

  

拾遺には「八龍社 村南森」の記載があります。野方1丁目48と野方5丁目9の間で十郎川に架かる橋は、八龍橋となっています。祠から橋までは170mほどですので、この祠が八龍社で周辺が字八龍なのでしょう。八龍神は水神で、各地で雨ごい・雨止めに御利益があると言われていますが、この八龍社も拾遺には「旱魃(かんばつ)に雨請いするとかならず験ありという」と記されています。
産神は天満宮(野方天満神社)

戸切
(164)

2023/01/15追加
戸切は西区戸切1丁目から 西区戸切3丁目からも
 現在の読みは「とぎれ」ですが、筑前國續風土記拾遺には「トキリ」とカナが振ってあります。「この村を戸切(トキリ)というは戸栗(ヘグリ)の誤りなるべし。このあたりの郷名はむかし平群(ヘグリ)といえり。」となっており、平群郷がなまったものと書かれています。

ついでに拾遺の飯盛村の欄に平群郷についての記載があります。「和妙抄に当郡の郷の名に平群あり。これ当代の飯盛 羽根戸 田村(中略)のほかに吉武 金武四ヶ村 橋本のあたりまでも一郷なりしなるべし。
 

谷口
(168)

2023/03/15追加
谷口は早良区大字脇山2262 十二社宮の拝殿に 同じく大字脇山から
 脇山全体については西新170城ノ原に。

筑前國續風土記拾遺には十二所権現社(十二所宮)は「谷口にあり。谷口と西村の内 上原 原田 寺地の産神なり。」と書かれています。その十二所宮(大字脇山2262)の拝殿に168−001−1谷口の九電バッジが貼られています。谷口公民館は大字脇山2474−4に。

脇山は大字部から168・脇山1丁目からは170で見つかっていますが、細かく枝番を使い分けていますので、通常は下2桁目をモザイクで隠していますが、下1桁を隠します。谷口が椎原川の一番上流部、上の椎原と接する地域ですから若い枝番になり、十二社宮の168−001−1から始まって、20番台までで見つかっています。
上記のように十二社宮が谷口と西村の一部の産神。

門戸口
(168)

2023/03/15追加
門戸口は早良区大字脇山から 同じく大字脇山
 筑前國續風土記拾遺には萬徳寺(万徳寺/早良区大字脇山1810)は「門戸口にあり」となっています。拾遺の記載通り万徳寺の周りから門戸口(もどぐち)名義のバッジが見つかります。

現在は、門戸口梅木田公民館が大字脇山1745にあります。



拾遺には脇山村の民居の一つとして「梅木谷」と書かれていますが、これが梅木田のことでしょう。拾遺の底本は江戸時代ですから活字ではなく、達筆な文字を手書きで書き写していきますので読み違い写し間違いも多く、私は活字に組んだ拾遺しか見ていないので断言は出来ませんが、はじめから谷ではなくて田なのかもしれません。また、現地でお話を聞いた時には「た・だ」は発音されず、「うめのき」と言われていたようでした。

門戸口梅木田公民館よりも西、かつ谷口よりも東が梅木田となるようです。門戸口は枝番60〜80番台で見つかっていますので、もし梅木田から見つかれば30〜50番台なのでしょう。 

池田
(168)

202/04/15追加
池田は早良区大字脇山から 同じく大字脇山
 筑前國續風土記拾遺には、大日堂が「池田にあり」となっています。大日堂は早良区大字脇山1393−2に。

この大日如来像は拾遺の時点ですでに「古作なり」となっています。また「躰中に銘あり」とその銘が記されていますが、天文7年(1538)年の日付となっています。

池田は枝番90番台〜100まで。
池田 大日堂には明治14年建立の鳥居があります。



古来神仏は習合していましたので、寺院・仏堂に鳥居があっても不思議ではないのですが、この池田の大日堂には、明治の神仏分離令の後にあえて鳥居が掛けられています。神仏分離によりいったん神道要素を排除したものの、廃仏毀釈の嵐が過ぎてみたら、やはり大日様には鳥居が必要だったということでしょうか。

栗尾
(168)

202/05/15追加
栗尾は早良区大字小笠木から
 栗尾集会所(公民館)は小笠木1209−1に。栗尾は本村(志ノ水)とは早良高校を挟んで離れており、脇山池田と隣接しています。そのせいでしょうか、志ノ水の169ではなく、脇山池田に続き168の100番台を使用しています。

地理院地図では「くんの」となっていますが、この九電バッジが貼られたお宅の方、また169野田のお宅で話を聞いた時も「くりお」と言われていました。

志ノ水
(189)

202/05/15追加
志ノ水は早良区大字小笠木から 同じく大字小笠木から
 脇山に引き続き戦前の福岡市地図の欄外ですが、筑前國續風土記拾遺には「民居は本村 船引(※) 戸井(※) 栗尾にあり」と記されています。(※)同じ拾遺の脇山村横山三所権現社の欄にはそれぞれ舟引 土井と記載。

また「東南の山嶺を限りて、那珂郡南面里村西畑村に隣れり。那珂郡に行く山越道あり。小笠木峠また西畑峠という。」となっており、小笠木峠が那珂川水系(那珂郡)と室見川水系(早良郡)の分水嶺になっています。

拾遺には志ノ水の記載はありませんが、大山祗社が「本村の東 竹杉の林中にあり」と書かれており、大山祗神社の西の集落から志ノ水が出てきましたので、本村=志ノ水で間違いないでしょう。志水公民館は大字小笠木555に。また、小笠木川に掛かる志水橋には「しみずばし」となっていますので、現代は「しみず」ですが、なぜ九電バッジに「ノ」が入っているのか、当時は「しのみず」だったのか、調べきれていません。

同じく拾遺には船引稲荷社が「この社の上の山に船石とてあり。ゆえに地名とする。那珂郡に通う道のそばなり。」となっており、宇賀神社(大字小笠木838)のある小笠木川の北側が舟引に該当し、舟引公民館は大字967−5にありますが、該当地区からは九電バッジは見つかりません。

また、同じく拾遺には「村南に狸穴とて茂山あり。狸穴(他2ヶ所)の三所より、渓水出て脇山村大門の前に流る。」となっていますが、狸穴は今昔Mマップから南畑 昭和13年測図 昭和15.6.30発行に掲載があります。
拾遺には、大山祗社(大山祗神社/大字小笠木520)が「本村の産神なり」と記されています。舟引 戸井 栗尾は169野田 横山神社の欄に。

野田
(169)

202/04/15追加
野田は早良区大字脇山から
 169志ノ水に書く予定ですが、舟引(大字小笠木)の西、小笠木川の下流が大字脇山の野田になります。野田公民館は大字脇山303に。

以下は大門の話ですが、筑前國續風土記拾遺には横山三所権現社(横山神社 早良区大字脇山559−1)が「大門にあり」となっています。また同社の祭神は脊振山神と同じで、大門はこの脊振の山門のことであると書かれています。野田の西には大門名義の九電バッジもあったはずですが、見つけることは出来ませんでした。
拾遺には横山三所権現社が「脇山小笠木内栗尾舟引土井の産神なり」と記されています。

城ノ原
じょうのはる
(170)

2023/02/15追加
城ノ原は早良区脇山1丁目から 同じく脇山1丁目から
 筑前國續風土記拾遺には脇山村の民居として「本村 城原 野田池 田門 戸口 梅木谷 谷口 仙道 谷など」と記載されていますが、同じく拾遺に「萬徳寺が門戸口に、大日堂が池田に」あると書かれていますから、正しくは「本村 城原 野田 池田 門戸口 梅木谷 谷口 仙道 」です。「本村 城原 野田・・・」と並列で書かれていますが、たぶん「本村(は)城原」ということなのでしょう。

脇山は戦前の福岡市地図では域外になっていますが、現代の地理院地図で見てもそれらの字がよく残っています。

城之原公民館は脇山1丁目7に、城の原バス停は大字脇山615先にあり、拾遺の城原・九電バッジの城ノ原・公民館の城之原・バス停の城の原と、「の」一つでこれだけ表記がバラバラなのも珍しい。
横山三所権現社(横山神社)が「横山郷八村の宗社にて、脇山、小笠木栗尾 舟引 土井の産土なり」 
横山郷八村=椎原・板屋・小笠木・西村・脇山・内野・石釜・曲淵


(170)

2023/02/15追加
谷は早良区脇山1丁目から 同じく脇山1丁目から
 谷も筑前國續風土記拾遺の脇山村の欄に記載があります。谷バス停は脇山1丁目15(下り)・16(上り)に。

中通
(172)

202/06/15追加
中通は早良区東入部6丁目25−9 早良森林事務所に
 筑前國續風土記拾遺には東入部村の民居として、「本村 三郎丸 隈本 平尾 一ッ家 仙道 長岑 田石 袈裟丸 清末などにあり」と記載があります。同じく拾遺には老松天神社は「中通にあり」と記されていますが、国道263号西側の東入部6丁目に老松神社があり、その前に中通公民館(東入部6丁目19)があります。

早良区役所のHPでは脇山街道(板屋道)は国道263号線西側の中通は通らず、三郎丸・隈本・平尾を通る国道263号線の東側の道が指定されています。

元年実測図には東入部のうち三郎丸までしか記載がありませんので、今昔マップから福岡南西部 昭和25年三修 S27.8.30発行で見ますと中通の字があり、これが拾遺に言う本村であろうと考えています。その南に田石の字が見え、現在の東入部7丁目に該当するのでしょうが、痕跡は見つけられません。同じく清末は東入部4丁目の西入部との境に描かれています

一ツ家・仙道も今昔マップから福岡南西部 昭和25年三修 S27.8.30発行に記載がありますが、該当の場所から九電バッジは見つかりませんでした。一ツ家バス停は東入部8丁目31先に、また一仙道集会所(公民館)が同じく8丁目26にありますが、一仙道はたぶん「一ツ家仙道」のことでしょう。その先の早良区内野との境にもう一つ荒平集会所(東入部8丁目33)があります。

同じく拾遺には「長岑は川の西にあり」と記されており、長峰として早良区内野4丁目の長峰公園・長峰公民館があります。現在は内野ですが、その西にまた大字東入部が飛び地として存在しますので、内野3〜4丁目には東入部域があったことがわかります。


 室見川の東西に東入部の大字部
東西入部村の産神は老松神社(早良区東入部6丁目20)。拾遺には「慶長の田村帳に入部村ありて東西の別なし。両村に別れたるは近年のことなるべし。」と記されており、筑前國續風土記にも同様の記載があります。

平尾
(172)

202/06/15追加
平尾は早良区東入部8丁目から 同じく東入部8丁目から
 筑前國續風土記拾遺には「西教寺 平尾にあり」と記載があり、西教寺は東入部8丁目11に。

早良平尾公民館(早良区東入部8丁目11−11)にも九電バッジが貼られているのですが、そもそも向きがおかしい上にリフォームの結果か窓枠の下になっており、まず間違いなく平尾でしょうが町名を読むことが出来ません。

 早良平尾の良平です。

箱崎065平尾(博多区東平尾)で書きましたように、平尾は逆から見れば山口ですから、地名として付きやすい(地名から場所を特定しやすい)と言えます。

西入部
(173)

2023/07/15追加
西入部は早良区西入部4丁目から 同じく西入部4丁目
 筑前國續風土記拾遺には、西入部の民居として「本村 和田 清末 鷺陸(サキリク) 黒塔 白塔 白塔原 河原などにあり」と記されています。同じく拾遺には「大圓寺 黒塔にあり」、「西音寺 本村にあり」となっています。

元年実測図の欄外になりますので、今昔マップから福岡西南部 大正15年測図 昭和4.10.30発行で見ますと、北から山城陸(さきりく)・中村・黒塔・和田・白塔の字が見えます。室見川を挟んで東には清末の字も見えますが、ここは早良区東入部4丁目域になり、拾遺の東入部村欄にも清末の字が見えますので、東入部と西入部で両清末になっていたのでしょう。

山城陸は現在の早良区室見が丘1丁目に該当しそうです。黒塔にありとされる大円寺は西入部5丁目12にあり、福岡西南部 大正15年測図 昭和4.10.30発行では大円寺は見えず、同じく西入部5丁目12にある保食神社の鳥居が、捨ヶ坪池の北に描かれています。

黒塔と中村(=本村でしょう)の間に、本村にありとされる西音寺(西入部4丁目3)と思しき卍が見え、その南に和田が描かれています。今回九電バッジが見つかったのは、白塔といえる西入部4丁目の南部、室見川沿いの隣り合った2軒のお宅からでしたが、白塔ではなく西入部名義、かつ東入部の平尾(172)と熊本(174)の間の173で出てきましたので、字ごとの名義だった東入部と違い、西入部全体が西入部名義だったと考えています。
「産神は東入部村老松社なり」

熊本
(174)

2023/07/15追加
熊本は早良区東入部2丁目から 同じく東入部2丁目
 筑前國續風土記拾遺には「徳勝寺 隈本にあり」と記載があり、徳勝寺は東入部2丁目18に

熊本の北には三郎丸があるはずですが、九電バッジは見つけられません。三郎丸公民館は早良区東入部2丁目22、三郎丸バス停は東入部2丁目10の先に。

重留
(175)

2023/08/15追加
重留は早良区重留4丁目から
 15年地図は域外ですが元年実測図で見ると、重留には神社は一社ですが寺院が三山も見えます。西から浄覚寺(早良区重留5丁目3)、妙福寺(5丁目8)、真正寺(現在は5丁目17/元年実測図ではもう少し北に描かれていますが、昭和55年豪雨で被害受けて近接移設)ですが、この寺の数を見るだけでも重留村の繁栄をうかがい知ることが出来ます。

ちなみに筑前國續風土記拾遺には、石山合戦の折に、妙福寺の門徒が顕如の呼びかけに呼応して石山本願寺にはせ参じたと書かれており、私の専門外のことながら、いや専門外だからこそかもしれませんが、信長とか石山合戦とか教科書の歴史が、遠く筑前の重留村にまで及んでいたのかとびっくりします。(顕如の激を各地の本願寺派のお寺に伝え歩く役目の人がいたようですが、当時は人が歩く速度でしか情報が伝わりませんから、重留村から本願寺に駆けつけたのは10年戦争の末期のようです。)

元年実測図には重留のはるか北、土井と田村の間に城角の字が見えますが、よく見ると城角の周りだけ北に町村境(―・―)が張り出しており、周りは田隈村(東は大字野芥の土井・西は大字田村)ですが、この一角は入部村の大字重留域であることがわかります。

土井の位置(田隈土井公園は早良区野芥7丁目36)や、重留側の城角は現在の国道263号野芥小学校入口交差点と(野芥小学校西交差点を経て)田村団地南交差点を結ぶ通りを北限としていることから、早良区田村5丁目が該当するのではないかと散々探しましたが、痕跡が見つからず諦めかけた頃に目の前に、

 元 城角米穀店は早良区田村5丁目18に

城角の文字が飛び込んできました。もうここしか手掛かりがないと厚かましくもお話を聞かせていただき、「じょうがく」という読みであること、野芥8丁目と田村5丁目のそれぞれ一部は重留域であったことなどを教えていただきました。「裏(西側)の川の向こうはもう田村」とのことでしたが、この川というのは田村5丁目2と3の間あたりを流れるクリークのことでしょう。尚、筑前國續風土記拾遺には田村の民居としても「新村(城角という)」の記載があり、両村域にまたがり城角だったのでしょう。

また、元年実測図では重留村内に「文」が見え、たぶん重留尋常小学校ではないかと考えていますが、同校に関する資料に行き当たっていません。
産神は寶満宮(早良区重留4丁目5)

新村
(175)
2023/08/15追加
新村は早良区重留1丁目から 同じく重留1丁目から
 筑前國續風土記拾遺の重留村の欄には「民居は本村 新村にあり」と記されており、元年実測図で見ると重留の北に新村が見えます。

新村や新屋は住居が数戸建ち始めた頃こそはそう呼ばれても、町が形成されると字が付くというイメージでしたが(そうでないと、村内が新村・新屋だらけになる)、19世紀(拾遺の完成が天保8<1837>年頃)の新村が20世紀の元年実測図(1926年)でも新村と呼ばれ、21世紀の今は新町(新町バス停は早良区重留1丁目5/重留2丁目6)です。

飯場
いいば
(177)

2023/09/15追加
飯場は早良区曲渕から 早良区飯場143 大山祇神社に
 左の01※は飯場川沿いの、住所としては曲渕(の字石原になると思われる)域に貼られていました。飯場川の両岸で飯場と曲渕に分かれており、飯場名義になったのは、単に九電の管理の都合かもしれません。

私のメインテーマである国境石のホームページに掲載していますが、三瀬峠の筑前国境石の横銘には「怡土郡飯場村抱」となっています。このことから、江戸時代の飯場村は怡土郡(糸島郡を経て現在は消滅)であることがわかります。筑前國續風土記拾遺の怡土郡飯場村欄にも「むかしは井原村のうちなりて」と井原村(糸島市井原)の枝郷だったことが記されています。しかし、明治22(1889)年の早良郡内野村発足時から内野村に参加しています。糸島峠を越えて王丸・川原と行き来するよりも、地続きともいえる曲渕村との結びつきが強かったのでしょう。

引き続き拾遺には「民居は本村 口ノ原 下飯場 野河内等にあり」となっており、「山神社 下飯場にあり」、「真教寺 本村にあり」と書かれています。真教寺(飯場225)が本村・山神社(大山祇神社/飯場143)は下飯場ですから、現在はほぼ一帯化しているようです。拾遺には「口ノ原より出る谷水は本村の前を過て、曲淵村に出で」となっていますので、口ノ原は本村の飯場川上流域になるのでしょう。現在は真教寺の上流にはまとまった民家は見えません。

また、同じく拾遺には「山神社 野河内にあり」と記されており、(野河内)大山祇神社(飯場904)についての記載もあります。(怡土郡絵図の時代には、飯場村の内 野河内村と掲載。)

同じく拾遺には「金武村より龍嶺(飯場峠)を越え、この村一里十二町に来る。肥前國神崎郡三瀬宿に通路す。この間杖立峠を以って筑前の境とする。国境小名四所あり。杖立嶺文政元年十一月彊石新たに立つ。この所飯場村より一里 三瀬よりは一里に近し。道の東は曲淵村に属す。」と書かれており、三瀬峠が杖立嶺と呼ばれていたことがわかります。

177番台を飯場・曲渕・石釜の半域で共用していますので、下一桁をモザイク処理しています。
拾遺には「山神社(下飯場 大山祇神社) 本村 口原 下飯場の産神なり」また、「山神社(野河内 大山祇神社) この所(野河内)の産神なり」と記載があります。


大山祇神社(下飯場)

曲渕
(177)

2023/09/15追加
曲渕は早良区大字曲渕から
 筑前國續風土記拾遺には曲淵(ママ)村の民居として「本村 原又(は)作波呂 石原にあり」と記されています。

一方、地理院地図で見ると、西から石原 原 大谷 そして曲渕ダムの下に一ノ瀬の字が見えます。

拾遺には「國境小名三所、あご坂峠東石釜隣(東は石釜村) 西鬼鼻杖立峠西飯場村隣 これなり」と書かれています。私のメインページ国境石散歩には、筑前國續風土記に載っている「国境之小名」一覧を掲載していますが、その一番下「肥前境」に「・・・あこ坂谷頭 あこ坂峠 西鬼が鼻 以上早良郡 杖立峠 以下怡土郡 なか谷・・・」となっています。(赤字が曲渕域と思われる。)

上石釜
(177)

202/10/15追加
上石釜は早良区大字石釜 同じく早良区石釜
 筑前國續風土記拾遺には石釜村の民居として「本村 上石釜 新飼 北 東 大畑 下畑 中原 田多良 唐原等にあり」と記されています。

地理院地図で見ると、室見川を挟んで南側に西(上流)から、上石釜 新飼 小原 唐ノ原が、室見川の北側に北と下ノ畑が描かれています。もう少し細かな字図で見ますと、各字が上下に分かれており、上石釜は上(上の上)と上の下に、北は上の北・下の北に、東は上の東と下の東の字が見えます。

中石釜
(177)

202/10/15追加
中石釜は早良区石釜から 熊野神社(石釜732−1)に
 上石釜欄に書きましたように、石釜には多くの字がありますが、九電バッジの銘は今のところ上石釜・中石釜・下石釜の3種類しか見つけられていません。その結果から、上石釜はそのまま字上石釜を指していますが、中石釜は特定の字ではなく中部石釜を指すようです。

筑前國續風土記拾遺には「三所大権現社 本村にあり」となっていますが、その熊野神社の拝殿にも中石釜のバッジが貼ってあります。また、「光明寺(石釜700−1) 田多良にあり」、「明光寺(石釜193) 小原にあり」とだいたいの字がわかります。
拾遺には「三所大権現社 産神なり」と記されています。

 神額は「熊堅神社」。

下石釜
(178)

202/10/15追加
下石釜は早良区石釜から
 中石釜と同じように、下石釜も特定の字ではなく、東部(室見川下流部)を指すようです。

広瀬
(178)

2023/11/15追加
広瀬は早良区大字西から 同じく大字西から
 西村全体については178西ノ中山欄に(未編集)。

地理院地図で見ると室見川を挟んで東に広瀬が、西に古賀が見えますが、筑前國續風土記の西村欄には、「廣瀬上下古賀、柳瀬」の記載があり、(広瀬)三所権現社(三社宮/早良区大字西2118−1)が「上廣瀬にあり」・光源寺(大字西1784)は「廣瀬にあり」と記されています。三社宮の周りが上広瀬・光源寺の周りが下広瀬になるのでしょう。

光源寺のすぐ北に、室見川に架かる柳瀬橋があり、広瀬から室見川を渡った西側 柳瀬橋よりも下流が柳瀬となるそうです。一方、古賀のバス停は国道263号線上大字西1978−1の先にあり、同じく室見川の西側 柳瀬の上流が古賀となります。古賀柳瀬集会所が大字西1962に。

広瀬のバッジは上下広瀬では見つけられず、古賀から見つかりましたので、西村の西部一帯に広瀬が貼られたのではないかと考えています。
(広瀬)三社権現社(三社宮/上記)は「上下廣瀬の産神」、山神社(大山祇神社/大字西1913)は「古賀 柳瀬及び本城内野村より祭る」。

西ノ峰
(178)

2023/11/15追加
西ノ峰は早良区大字西から 同じく大字西から
 地理院地図で見ると広瀬と中山の間に峰の集落が見えます。筑前國續風土記拾遺には十六天神社(埴安神社/早良区大字西1614)が「峯にあり。峯仁田原の産神なり」と記されています。よって仁田原は峰に隣接しているはずですが、私が峰でお聞きした時には「峰の上はひらばる(平原?)で、田地となっており民家はない。」とのことでした。結局、拾遺に書かれた西村の民居(字)の内、仁田原だけは未確認になってしまいました。

峰集会所は大字西1636に。
上記の通り、埴安神社が「峯 仁田原の産神なり」。

西ノ中山
(178)

2023/12/15追加
西ノ中山は早良区大字西の(中山)三所宮拝殿に 同じく大字西から
 西は地理院地図で見ると現在も字が良く残っています。筑前國續風土記拾遺の西村欄には「民居は本村 上原 寺地 原田上下 山田上下 峯 仁田原 廣瀬上下 古賀 柳瀬にあり」と記されています。「民居は本村」となっていますが、(中山)三所権現社(三社宮/早良区大字西1387)が「中山にあり」と書かれており、その他の表記からも本村=中山のようです。

その他拾遺には「村南に高山あり。前峯尾という。石釜 椎原両村の山峯がこの外を包めり。」と書かれています。中山で見た昭和28年水害復興記念碑には「未明の集中豪雨は一瞬にして前峯尾の容相を一変し、中山に壊滅的な被害をもたらした」と記されていました。拾遺には「(前峯尾の)ふもとに瀧あり。村南半里 通天と名づく。(中略)紅葉瀧ともいう。」となっており、これは坊主川の坊主ヶ滝のことのようです。これらから、前尾根は地形図で見たこの339.1mのピークあたりではないかと思います。

「村の東西に川石釜川 椎原川あり」となっていますが、石釜川が現在の坊主川でしょう。また「その間に五流瀧窪 佛石 船石 惣座谷 胡麻木谷あり。いづれも内野村に流れる。」となっています。長尾川 山田川 山谷川(山田で大谷川と合流) 大谷川 原田川でしょうか?

わざわざ「西ノ」と書かれていますので、西新営業所管内に他にも中山(及び峰)があったのではないかと考えましたが、今のところ思いつく場所はありません。中山に西中山公園があり、初めは「西方の中山公園」の意かと思いましたが、どちらかというと北ですので、字の前に大字の西を付けるのが標準なのかもしれません。

西村内で頭番178を使い分けていますので、通常は枝番の下二桁目にモザイクを掛けていますが、下一桁目を隠しています。
(中山)三所権現社(三社宮/上記)が「中山 山田の産神なり」。

原田
(178)

2023/12/15追加
原田は早良区大字西から 同じく早良区西から
 地理院地図で見ると原田は脇山村との境である椎原川の西に描かれています。原田集会所(公民館)は大字西275。現地で「はるだ」と読まれることなどをお聞きしましたが、拾遺に書かれた原田の上下についてはご存じではありませんでした。ただ、「むかし水害があり、元の原田より上に移転しているらしい」旨お聞きすることが出来ました。移転について直接お知りではないということは、中山欄に書いた昭和28年水害よりも前のことでしょう。もしかすると拾遺に書かれた原田上下と現在の原田は、若干場所が違うのかもしれません。

神原
(178)

2024/01/15追加
神原は早良区大字西から 同じく大字西から
 筑前國續風土記には上原と記されていますが、「神原」(かみのはる)で見つかりました。地理院地図で見ると西村の一番南東 椎原村との境に神ノ原が描かれています。神の原集会所(公民館)は早良区大字西698−2に。

山田
(178)

2024/01/15追加
山田は早良区大字西から 同じく大字西から
 地理院地図で見ると神ノ原の西に寺地が、そのまた西に(上)山田が描かれています。山田寺地自治集会所(公民館)は早良区大字西877−5の上山田に。左は寺地から右は上山田から見つかっており、寺地は山田名義のバッジが貼られたようです。

上山田と中山の中間ほど、山田川沿いに下山田の集落があります。
(中山)三所権現社(三社宮/早良区大字西1387)が「中山 山田の産神なり」。

第一区
(179)

2024/02/15追加
第一区は早良区内野3丁目16−15内野集会所(公民館)に
 筑前國續風土記拾遺には、内野村の民居として「本村 野中原 本城 熊崎等」の記載があります。同じく拾遺には天満宮・志自岐大明神・西光寺がそれぞれ「本村にあり」となっています。西光寺は早良区内野2丁目7に、志々岐神社は同23にありますが、その一の鳥居は天満宮・二の鳥居が志自岐宮となっていますので、天満宮も志々岐神社に合祀となっているのでしょう。拾遺には「昔は天満宮御供料所なり」と記されていますので、その縁で天満宮が勧進されたようです。

県道56号線上大谷川に架かる橋が野中原橋となっています。また、今昔マップから 福岡西南部 昭和44年改測 昭和46.11.30発行で見ると、国道263号の西沿い 現在の早良区早良2丁目あたりに本城の字が見えます
産神は天満宮。(現在は志々岐神社に相殿か?)

第二区
(179)

2024/02/15追加
179第二区は早良区内野1丁目から 同じく内野1丁目
 

第二区
(180)

2024/02/15追加
180第二区は早良区内野2丁目から
 内野だけが「内野1・2」名義ではなく、第一区・第二区になったのかを考えているのですが、(西新管内に他に内野はなく)いまのところこれと言った理由を思いつきません。

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