前原営業所

 西新営業所の西には前原営業所があります。前原営業所ですから糸島市が中心になるのでしょうが、HPタイトルが「福岡市」の地名ですから、まずは
福岡市部から始めます。

 この地域は福岡県立図書館の近代福岡市街地図群(昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡
市地図)の域外となってしまいますので、今昔マップを利用します。

女原
(前原004)

2023/10/15追加
女原は西区女原から 同じく西区女原
 江戸時代の女原は志摩郡域になります。福岡県立図書館デジタルライブラリから江戸時代の志摩郡絵図を見ると、女原村・谷村・青木村・谷村ノ内今宿村が、間に怡土郡を挟み飛び地になっているのがわかります。

明治22年の町村制により女原村は、怡土郡域の周船寺村・徳永村・千里村・飯氏村・宇田川原村(いずれも福岡市西区)と越境合併し、怡土郡周船寺村になります。 

なお、女原・谷・青木が志摩郡の飛び地となっていることに関しては、筑前國續風土記に「昔は夷魔山(今山)の後ろから前原まで入海だった(今津干潟から瑞梅寺川沿岸)。その後新田開発して間が陸地になったので、島(志摩)の方には続かざれども、入海のほとりに近ければ、志摩郡に属しけれや。」という説と、「昔は怡土郡なりしを、乱世の時にみだりに領地を分かち取りて、志摩郡域になった。」との二説が並記されています。

また、糸島郡志(糸島郡教育委員会編/昭和2年)の(町村制)周船寺村欄には「(越境合併したことに関し)したがって地勢土質を異にし人情風情やや異なれり」となっています。現代の私からは想像もできませんが、怡土と志摩にはそれぞれの風土・気風があったのでしょう。

同じく續風土記には、その時代からすでに「怡土志摩(後の糸島)と称され」ているとなっています。
筑前國續風土記拾遺には、「上原村祇園社(八雲神社/西区今宿上原)を産神とする。」とされており、また、「十六天神社 村南にあり。産神に比へ(よそえ)祭る。」となっていますが、村の南側ですので一宮神社(西区女原288−1)を指すのでしょう。


(前原004)

2023/10/15追加
谷は西区今宿町から 同じく今宿町
 筑前國續風土記拾遺の志摩郡谷村には、「民居は本村谷村 今宿上町横町松原」と記されています。

明治22年の町村制により、今宿を含む谷村と志摩郡青木村(西区今宿青木)、怡土郡上原村(西区今宿上ノ原)・同郡徳永村の横濱浦(西区横浜)で越境合併し、志摩郡今宿村となります。その後、昭和16(1941)年に今宿村が福岡市に合併した際に、今宿村大字谷から福岡市大字今宿町に町名変更されています。

九電バッジが貼られたのは昭和30〜35年と考えていますので、谷ではなく今宿町のはずですが、「今宿」はJR筑肥線 今宿駅を中心とした旧202号線沿いの街を指すイメージのようで、令和となった現代の道路標識でも「今宿町」は町名として存在しない「谷」と表記されています。
「産神は怡土郡上原村の祇園社(八雲神社)なり。」(拾遺)



(006)

2023/11/15追加
木は西区今宿青木から
 筑前國續風土記拾遺の志摩郡青木村欄には、「民居(は)本村四郎丸 久保 杉崎 上下園 大谷 松原今宿東畔」と記されています。本村である久保は今昔マップから福岡西南部昭和25年三修 S27.8.30発行で見た地図には記載がありませんが、現代の地理院地図には字として記載されています。杉崎が鋤崎、上下園が城外園にそれぞれ該当するのでしょう。松原は009東松原欄に。
拾遺には「産神は怡土郡上原村祇園社 この社この村の内にも係れり」とされており、青木村と上原村の境に建つ八雲神社が産土神になります。ちなみに八雲神社には、このホームページのもう一つの主役である、白水 淡が揮毫したシベリア出兵記念碑が建っています。

北原
(きたばる)
(007)

2023/12/15追加
北原は西区北原2丁目から 同じく北原2丁目
 「大字徳永」部から徳永名義を見つけられていませんので、徳永村についてもここにまとめて書きます。

筑前國續風土記拾遺には怡土郡徳永村の民居として「本村 若宮 北原 井樋堰等にあり」とされています。寶珠寺(西区徳永722)が「本村にあり」、若宮八幡宮(若八幡宮<西区徳永307>)が「若宮にあり」とされています。今昔マップから福岡西南部 大正15年測図 昭和4.3.30発行で見るとこのような位置関係になり、現在の大字徳永部が該当します。

また、稲荷社(宇賀神社<西区北原2丁目21>と善覚寺(同2丁目20)が「北原にあり」とされており、今昔マップから福岡西南部 大正15年測図 昭和4.3.30発行で見ると、現在の北原2丁目が北原の民居域です。井樋堰は「谷村から西に流れた川が、井樋堰に至って海に入る」となっていますので、この川は江の口川を指し、その河口部(西区横浜1丁目)ではないかと思いますが、詳細はわかりません。

大字徳永部から九電バッジを見つけられていないと書きましたが、湯溜池(西区大字周船寺)の南側で、大字徳永がほんのわずかに唐津街道に接しているのですが、この場所からは「038周船寺東」で出てきています。



ここが周船寺東になったは九電の管理の都合で、徳永には「徳永」名義のバッジがあったのではないかと考えています。

徳永村横濱浦は014横浜で。
若宮八幡宮「本村 若宮両所の産神なり」、熊野権現社(熊野神社<横浜2丁目39>)「北原 井樋堰 横濱の産神なり」。

東松原
(009)

2023/11/15追加
東松原は西区今宿駅前1丁目から 同じく今宿駅前1丁目
 筑前国續風土記拾遺の志摩郡青木村欄には、「松原 今宿東畔なり」となっています。東松原は青木村域となり、西松原は谷村のうち今宿村(今宿駅)域となります。東松原は今宿駅前1丁目から出て来ました。今宿駅前は1丁目しかない不思議な街です(海を埋め立てるか長垂山を開発しない限り、2丁目以降ができるスペースがない)。今昔マップから福岡西南部昭和25年三修 S27.8.30発行で見た、マーク地点より東が東松原になります。

西松原
(009)

202/12/15追加
090西松原は西区今宿1丁目から
 筑前國續風土記拾遺の谷村欄には「今宿 上町 横町 松原」の記載があり、この3町で今宿を構成しています。今宿側の松原は西松原と呼ばれ、今宿1丁目から出て来ました。今昔マップから福岡西南部昭和25年三修 S27.8.30発行で見た、マーク地点より西が西松原になります。
上記マーク(西松原と東松原の境)の北に鳥居マークが見えますが、拾遺には「二宮天神社 (今宿)駅中にて産神に比へ(よそえ)祭る。」とされており、二宮神社(今宿1丁目10)が大切にされていたことがわかります。


西松原
(010)

202/12/15追加
010西松原も西区今宿1丁目から 同じく西区今宿1丁目から
 

上町
(012)

202/12/15追加
上町は西区今宿3丁目から 西区今宿3丁目14 上町天満宮拝殿に
 志摩郡谷村の、松原・横町・上町の3つの町で唐津街道 今宿駅を構成しました。上町公民館は今宿3丁目11に、上町天満宮は3丁目14に。

横町
(012)

2024/01/15追加
横町は西区今宿3丁目から 西区今宿2丁目から
 唐津街道沿いに現在の今宿2丁目と3丁目の北側が横町になります。今宿2丁目から見つかったものはサッシの下敷きになり頭番号・町名ともに見えませんが、間違いなく横町域になると思われます。

今昔マップから福岡西南部昭和25年三修 S27.8.30発行で見たこちらが横町です。拾遺には「徳寺 今宿中町にあり」と書かれており、これが徳正寺(今宿3丁目4)を指すと思われますので、上町と横町の間には字として中町があったようです。

横浜
(014)

2024/01/15追加
横浜は西区横浜1丁目から
 筑前國續風土記拾遺の怡土郡徳永村(西区徳永)に横濱浦欄があり、横浜は徳永村の字ですが、明治22年の町村制発足時に、本村とは別に志摩郡今宿村として合併しています(徳永村は怡土郡周船寺村に)。福岡西南部昭和25年三修 S27.8.30発行で見たここになります。

前に横浜は「よこばま」と読むと聞いたことがあったのですが、現在は「よこはま」のようです。(なにかに「よこばまとも<呼ばれる>」と書かれているのを見た記憶がありますが、今となってはどこに書かれていたかも思い出せません。)
熊野権現社(熊野神社<横浜2丁目39>)「北原 井樋堰 横濱の産神なり」。

小田一
(こだ)
(015)

2024/02/15追加
小田一は西区小田から 同じく西区小田  2024/03/15追加
 筑前國續風土記拾遺の小田村欄には「民居拾所 本村 西園 團 田中 森 舩津 濱 木原 小膩蔵 正法寺これなり」となっており、かなり大きな村であることがわかります。今昔マップから 宮ノ浦 大正15年測図 昭和4.7.30発行で見ると、西から小田浜(濱)・舟(舩)津・木原・小膩倉(蔵)・森・田中・段(團)・西園は字を確認することができます。

左の02※は森と思われるところから見つかりました。2024/03/15追記 右の04※は川原と思われるところから出てきました。川原は拾遺に記載がありませんが、川原が本村域か?

現在小田にあるのは北崎小・中学校ですが、拾遺には「慶長田村帳に小田村 宮浦村 西浦村 玄海嶋はみな北崎村のうちと記せり」となっており、村人は拾遺の時点でも「今もこれ(北崎村)を称す」となっています。また、また明治22年の町村制によって発足した村は、上記の小田・宮浦・西浦・玄海島に加えて、小呂島・草場村を加え小田村として発足しましたが、明治29年に北崎村と名称を変更し、昭和36年に福岡市と合併するまで存続しています。

小田は糸島半島の、東(福岡市)側の角の根元を、東の博多湾から西の玄界灘(二見ヶ浦)側まで突っ切っており、角の先端の宮浦・西浦は、小田を通らないと町の外に出られません。
「産神は宮浦三所大明神(三所神社/宮浦1157)なり」。「熊野神社(小田2971) 光明寺山にあり。産神とひとしく崇め祀れり。」

小田二
(017)

2024/02/15追加
小田二は西区小田から 西区小田から
 左の08※は木原集会所のそばから、右の12※は小膩倉と思われる場所から。

  

北崎小学校・中学校の北側は宮ノ浦の小浜になりますが、同地区からも小田二を確認しています。これはたぶん九電の管理の都合でしょう。

唐泊
(019)

2024/03/15追加
西区宮浦の唐泊部から 西区宮浦の大歳宮の拝殿に
 唐泊は宮浦(前原022)の字ですが、筑前國續風土記の宮浦欄には「昔は唐泊に属して、一村なりしという。近きころ分かれて二村となる。」と記されており、續風土記の「近きころ」ですから、たぶん江戸初期には唐泊の方が主村だったのでしょう。

續風土記には唐泊の由来について、万葉集には「唐停(からどまり)」と書かれ、今津に停泊する異国船の宿泊所があったとされています。

一方、筑前國續風土記拾遺の唐泊浦欄には「和名抄に韓良郷あり。この辺り数村をいうなるべし。今は宮浦の内なり。」とされています。
拾遺には大歳大明神社(大歳宮/宮浦281−1)「人家の北にあり。産神なり。」とされています。續風土記には「社は西北に向かう」となっており、これは今も変わりません。

桑原
(くわばら)
(020)

2024/03/15追加
桑原は西区桑原から 西区桑原から
 筑前國續風土記拾遺には「民居本村 下ノ谷 井樋堰等なり」とされ、「老松四所の大明神社」(四所神社/桑原1108)が「本村にあり」、東泉寺(東泉禅寺/桑原888)が下ノ谷にあり」となっています。井樋堰は大原川沿いだと思いますが、場所はわかりませんでした。

引き続き拾遺からの引用になりますが、「天満領なりしゆえに古来より老松社を祭る」となっています。

四所神社の神社碑及び桑原の西側(当該地域の掲示板には西組と表示)にある個人の頌徳碑はいずれも白水淡の墨跡です。
上記の老松四所の大明神社(四所神社)が「産土なり」。

大原
(おおばる)
(021)

202/04/15追加
大原は西区今津から 西区今津から
 筑前續國風土記拾遺の今津村(前原027.028)欄に、民居として大原が揚げられています。
 拾遺には熊野権現社(白山<しらやま>神社/今津4491)が「柑子岳の東傍にあり。大原の産神なり。今は白山大明神という。」と記されています。



 現在の白山神社の由緒碑には「柑子岳廃城跡にあった権現社が、数度の移転の後で現在地に座られた旨、また呑山(前原027今津一欄に記載予定)の厳島神社が合祀されていることも記されています。

浜崎
(026)

202/04/15追加
浜崎は西区今津から 西区今津から
 筑前國續風土記拾遺の志摩郡今津村(前原027.028)欄には浜崎浦について「漁戸一所に住す。入海を隔てて横濱浦に相向かへり。渡船あり。海上八丁なり。」と記されています。現在の浜崎と横浜を直線距離で測るとほぼ8丁(872m)あります。(Yahoo!マップによる計測
熊野権現(熊野神社/今津29−4)「民家の後ろ高き所にあり。産神なり。」 寿福寺(今津303)と正覚寺(今津42)もそれぞれ「浦内にあり。」となっています。


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