
東邦電力 電燈番號章
Wikipediaに拠るとこれは 東邦電力社のロゴのようです。関西電気が九州電燈鉄道を合併し、東邦電力に社名変更したのが1922(大正11)年、戦時
の配電統制で九州配電に事業譲渡したのが1942(昭和17)年4月1日のことらしいので、その間の戦前(最も遅くて戦中)に貼られたもので間違いない
でしょう。
東邦電力の電燈番號章は最初の頃は目に入っておらず、すでに歩いた地域でもかなり見落としている可能性があります。現に西門橋通は九電バッジ
の写真の撮りなおしに再訪した際に、それまでに何度も見たであろうお宅の玄関から見つけました。
ちなみに 総務省の福岡大空襲の被害略図を見ると、警固本町などはかなり被害に遭っており、戦前の東邦電力バッジが貼ってある家が残っているの
は奇跡かもしれません。
尚、私の中にも戦前は右書きという先入観があり、左書きの電燈番號章は戦前(戦中)のものではないのではないかという疑問があったのですが、 こ
ちらのサイトを見ると必ずしも左書きは戦後とは言えないようです。
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西門橋通
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西門橋通は博多区千代2丁目から 単独で |
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下比恵
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下比恵は博多区博多駅東1丁目5−14に(解体済み)。 |
2022/10/15 解体を確認したので、住所を記載します。
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櫛田前町
2020/03/01追加
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櫛田前町は博多区冷泉町から 単独で |
15年地図8−ト・チ。櫛田神社の表参道は、大博通りに一の鳥居がある博多町屋ふるさと館の通りですが、 15年地図に於ける櫛田前町はその一本北の通りを指しており、事実その通りから櫛田前町が出てきました。
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薬院原ノ町
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薬院原ノ町は中央区警固1丁目から 単独で |
347中溝町の欄にも書きましたが、15年地図には大正通りと上人橋通りの間の現在は警固1丁目にも、北に薬院原町、その南側に東から薬院本町中溝通・薬院本町塩入通と薬院の地名が見えます(8−ル)。上部が剥離しており東邦電力のロゴや電燈番號の文字はありませんが、東邦電力の電燈番號章であることは間違いないでしょう。
東邦電力の電燈番號章が貼られたのはまさに15年地図当時です。地図上は「薬院原町」、番號章には「薬院原ノ町」と記されていますので、口語では「はるのまち」だったのでしょう。(追記 明治13<1880>年改正福博詳見全図に「ハルノマチ」と記載あり。) |
東薬院
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東薬院は中央区薬院4丁目から |
15年地図では現在の浄水通の南側から県立高女(現福岡中央高校)の間に東薬院があります(9−ル・ヲ)。このお宅はモルタル造りで、屋根は瓦ではなく軽量の今風に仕上がっていて、とても戦前の住宅には見えません。リフォームの結果、この柱だけが往時のまま残っているのでしょうか。 |
警固本町
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警固本町は中央区警固2丁目から 単独で |
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草ヶ江
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草ヶ江は中央区草香江2丁目から |
草香江町として15年地図7−カ、西新127草ヶ江の九電バッジと一緒に。
15年地図にある女子師範(6−カ)(現在の南当仁小学校)は福岡大空襲で全焼したそうですが、1Kmも離れていないこのお宅には戦前の東邦電力の電燈番號章が貼られており、戦火を免れたことになります。 |
鳥飼浜田町
2021/10/15追加
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鳥飼浜田町は中央区草香江1丁目から |
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このお宅には西新108浜田も貼られています。私は浜田と草香江の関係がよくわからず曖昧でしたが、鳥飼浜田町という名義や15年地図を見ると、草香江と浜田はどちらも鳥飼町(村)の字で、現在の草香江の、草香江1114号線沿いに浜田町一丁目(現在の城南区草香江1丁目)・城南線(大濠東油山線)沿い(西側は草香江二丁目交差点よりも北)に浜田町二丁目(現在の草香江1丁目及び2丁目)・鳥飼1丁目交差点と草香江西交差点を結ぶ東油山唐人線の沿いに浜田町三丁目(現在の草香江2丁目の北部分)でしょうか。 |
平尾市崎町
2020/06/01追加
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平尾市崎町は南区市崎1丁目から |
東邦電力の電燈番號章が、南区から出てくるならば高宮だろうと考えていましたが、隣の市崎から見つかりました。市崎と平和1・2・4丁目は大字平尾(平尾村)域ですが、現在は中央区の平尾から離れ南区となっています。平尾市崎町と書かれた銘を見ると、市崎が平尾域だったことをあらためて感じます。
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