福岡営業所

 最初に目にしたバッジが417堂ノ原(南区三宅)だったので南区から探し始めましたが、旧曰佐村(五十川・井尻・横手・上下曰佐・上警固・弥永・東郷
<警弥郷>)域からはどれだけ探しても出て来ません。はじめは理由がわからずに、私の探し方が悪いのだろうと思っていましたが、ある日はたと気づ
きました。旧曰佐村が福岡市に合併(編入)されたのは遅く、1954(昭和29)年のことです。

 九電バッジが貼られたのは昭和30年代と推測していますが、九電側にも人員配置などの事情があるでしょうから、福岡市と合併してもすぐには福岡営
業所には移管されずにいて、旧曰佐村域が福岡営業所に移管される前に福岡市内の九電バッジが貼られたのでしょう。そして旧曰佐村を管轄した営業
所では九電バッジが貼られることはなかったようで、旧曰佐村域と隣接する春日市・那珂川市からも見つかりません。

 その後、博多区竹下・東光寺を歩きましたがやはり見つかりません。筑紫郡那珂町(那珂・麦野・東光寺・板付・諸岡・竹下・井相田)が福岡市と合併し
たのはさらに遅く、翌1955(昭和30)年のことです。曰佐村での経験があったので、この地域は竹下・東光寺の一部しか歩いていませんから、まずない
でしょうが他の町から出てくる可能性はあります。

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千代1
(009)
千代1は博多区千代1丁目から
 15年地図7−ホ。いきなりスタートがペンキ上塗りで申し訳ないですが、上からペンキを塗られているものは結構あります。ペンキが塗られていても、これだけしっかり残っていれば十分です。しかしこれは、探し始めた初期の頃ならば見落としていたでしょう。

千代2
(010)
千代2も博多区千代1丁目から 
 15年地図7−ホ。千代町は1・2・3丁目とも現在の千代1丁目16〜31に収まるようで、現在からするととても狭く感じます。 

東水茶屋
(012)
東水茶屋は博多区千代2丁目から 同じく千代2丁目
 15年地図には東西水茶屋町の記載はありませんが、水茶屋停車場の記載(7−ヘ)があります。 

西水茶屋
(013)
西水茶屋は博多区千代3丁目から 同じく千代3丁目
 水茶屋停車場については東水茶屋(012)欄に記載。 

旭小路
(015)
旭小路は博多区千代4丁目から  同じく千代4丁目
 15年地図6−ホ。   

八幡町
(016)
八幡町は東区馬出5丁目から
  15年地図5−ニ。15年地図では八幡町の東 箱崎宮の参道を郡市境の地図記号が走っており、昭和15年時には福岡市の最東端となります(糟屋郡箱崎町が福岡市に編入したのがまさに昭和15年)。

馬出1
(018)
馬出1は東区馬出5丁目34−11 黒田黒板製作所に
 15年地図は時々わかりづらいのですが、技藝女學(6−ニ)の南(左)に並ぶ一丁目・二丁目・三丁目が馬出の1〜3丁目になるのでしょうか。(それ以外には馬出本町・西本町以外の馬出に該当する記載がありません。)

新旧の地図を見比べると、この一丁目は現馬出5丁目に該当し、確かに現在の馬出5丁目から馬出1のバッジが見つかりました。


馬出本
(019)
馬出本は東区馬出2丁目21−27 お茶の箱嶋に
 15年地図では馬出の停車場のすぐ西に本町が記載されています(5−ニ)。これが馬出本町に該当するようです。  


巴町
(020)
巴町は東区馬出1丁目から  博多区馬出5丁目からも
 15年地図記載なし。九電バッジが貼られた時期には巴町はかなり大きく、現在でも巴町の九電バッジは御所の西からザクザク出て来ます。また巴町は西鉄・JRのバス停としても地名を残しています。 


西堂町
西堂町2丁目の石碑は東区馬出5丁目から(昭和39年建立)
 15年地図では巴町の記載はなく、西堂町(5−ニ)の西に御所(6−ニ)があります。

この西堂町二丁目の石碑には、正面に寄贈者の名前・右に西堂町二丁目の銘・左に昭和39年建立である旨が書かれたものです。
昭和39年当時は現役の地名だったでしょうか、モニュメント状のものかもしれませんが西堂町から九電バッジは見つからず、他に西堂町を示すものを見つけられていませんので、とりあえずこの碑を掲載しておきます。


御所内
(021)
御所内も東区馬出5丁目から
 15年地図では、御所と記載されています(6−ニ)。御所内の読みは「ごしょのうち」。 


万世東部
(024)
万世東部は東区馬出1丁目から
 15年地図では、萬世町として記載があります。(6−ニ)

街区符号(番)まで公開していませんので伝わりませんが、万世東部と万世西部の位置関係が微妙です。どちらかというと万世西部の方が東にあるような気がします。(それぞれ1枚ずつしか見つかっておらず、町の広がりを見通せないからかもしれません。) 


万世西部
(025)
万世西部も東区馬出1丁目から
 15年地図では、萬世町として記載があります。(6−ニ)               
                                         


三角本
(025)
三角本も東区馬出1丁目から 頭番は万世西部と共通
東区馬出1丁目19番に三隅神社あり、ここから来た地名でしょう。詳しくは026三角町に統合しました。


三角町
(026)
2023/12/15追加
三角町も馬出1丁目から
 三隅神社の南際から新たに三角町を見つけました。15年地図6−ニを見ますと、三角町と三角本町が道を挟み東西の関係ですが、実際は三隅神社を挟み南から三角町が、北から三角本が見つかりました。

なお、15年地図では馬出小学校は三角本町と大正町の間にありますが、現在は動植物園跡(6−ホ)へ西に一ブロック移動しています。馬出小学校の西側には動植物園の入口門が保存されていますが、現在の福岡市動植物園の正門にもこのレプリカがあります。

西御門
(028)

西御門は東区箱崎1丁目から  同じく箱崎1丁目
 15年地図6−ニ。  

三軒屋
(031)

三軒屋は中央区春吉2丁目から 昭和12年の三軒屋通路面舗装記念碑は春吉2丁目13番に
 15年地図9−リ。                    
                                                          


六軒屋
六軒屋公園は中央区春吉2丁目3番に
 15年地図の三軒屋・袋町の南には六軒屋の地名が見えます(9−リ)。   
                                          

住吉新屋
(032)
住吉新屋は中央区春吉1丁目から 同じく春吉1丁目
 15年地図10・11−リ。                  
                                                         

下四十川
(035)

下四十川は渡辺通3丁目から 同じく渡辺通3丁目
 筑前國續風土記拾遺の庄村の欄に、四十川について書かれています。「四十川というのは清水・塩原の二村の内より流れて一本木稲荷神社の後ろを流れて新川に会いする。」

現在は西鉄平尾駅の東側以南は暗渠されており、その流れがどこから来ているのかはわかりません(清水・塩原からならば、若久川の洪水対策の深い堀を越えなければならない)が、知事公舎の裏を流れる初冬には銀杏並木が美しい川です。

 中央区白金あたり

今は(15年地図当時も)薬院新川と城東橋(中央区薬院1丁目1番先)の手前で合流し、そこからは薬院川となりますし、拾遺の記述もそう取れますが、四十川と薬院新川が合流した1Km弱のここに上・中・下四十川の地名がありました。 

吉塚平和
(037)

吉塚平和は博多区吉塚1丁目から 同じく吉塚1丁目  2020/06/01追加
 15年地図には吉塚平和・吉塚祝(040)・吉塚明(051)等の記載はなく、またヒントになるような地名もありません。

 吉塚商店街

戦後この辺りが急速に発展していったことが伺えます。

2021/11/15追記
うかつにも吉塚商店街に平和蒲鉾店(博多区吉塚1丁目14)があるのを見落としていました。確認してはいませんが、この平和は間違いなく地名の平和なのでしょう。 

吉塚3
(039)

2021/11/15追加

吉塚3は博多区吉塚1丁目から
 15年地図7−ホには吉塚三丁目が見えますが、現在の鹿児島本線とパピヨン通りの間に描かれています(県道550号妙見通りはまだ鹿児島本線の沿道程度の規模)。15年地図当時の鹿児島本線博多駅は祇園にありましたが、その線路は博多駅から若八幡宮の前を通り、緑橋と御笠橋の間で御笠川を渡っていますので、三笠新橋から堅粕802号線が旧鹿児島本線に該当するのでしょう。

電車通り(パピヨン通りから妙見の交差点を経て妙見通り)は道筋がほぼ変わっていませんので、15年地図が指す吉塚三丁目は、現在のロイヤルホスト吉塚店から妙見通りを挟み鹿児島本線までと、全域が千代1丁目域になります。今回吉塚3のバッジを見つけたのは、鹿児島本線よりも東側の現在の吉塚1丁目からですから、15年地図でいうと吉塚四丁目(7−ニ・ホ)あたりになりますでしょうか。

時代により町丁境が変わったのか、鹿児島本線の両側に掛けて吉塚三丁目があったのかは今後の課題ということで。 

吉塚4
(039)

吉塚4は博多区吉塚2丁目から 同じく吉塚2丁目
 15年地図7−ニ・ホ。        
                                                                    

吉塚祝
(040)

吉塚祝は博多区吉塚2丁目から  同じく吉塚2丁目
 15年地図記載なし。近隣に祝の名を冠された月極め駐車場があります。 

吉塚砂
(040)
2022/12/15追加
吉塚砂も博多区吉塚2丁目から 
 15年地図8−ニに高砂町として。15年地図の高砂町は横筋として描かれていますが、縦筋(現在の吉塚2000年通り)と横筋(高砂町)の角のお宅に貼られていました。15年地図にも吉塚2000年通りとなる道は掲載されているのですが、町名(通り名)は付されていません。

吉塚祝と福岡040を共有していますが、吉塚祝は吉塚2000年通りの西側から2桁台の番号で、吉塚砂は2000年通りの東側から100番台で出て来ました。

仕事のため60分100円のコインパーキングに車を停めたのですが、早目に仕事が終わったので、30分だけ街を歩いたところ簡単に見つけました。吉塚はもう散々歩いたつもりでしたが、その吉塚で簡単に見つかるということは、福岡市内にはたぶんまだまだ見つけていないものがあるのでしょう。

吉塚5
(041)

吉塚5は博多区吉塚2丁目から  同じく吉塚2丁目
 15年地図7−ニ。

二股瀬
(045)

2021/05/15追加
二股瀬は博多区吉塚8丁目から
 15年地図8−ハ。当たり前のように二又瀬の地名を使っていましたが、宇美川と吉塚新川の二股が交わる瀬の意味なんですね。

県道607号線吉塚通りはほぼ道筋を変えていないように見えますので、同地図が示す二股瀬は、堅田橋公園(博多区吉塚8丁目10)やジョリーパスタ二又瀬店(同11)がある一角のようですが、同地域は空港騒音対策と百年橋通りの開通で現在は民家がありません。二股瀬のバッジが見つかったのは、同じ吉塚8丁目でも吉塚新川に架かる堅田橋の西側からでした。

筑前國續風土記拾遺には、席田郡下臼井村の民居6ヶ所の一つとして二股瀬の記載があり、「二股瀬の人家の前に橋あり。これが博多より篠栗・宇美などに至る街道なり。」と記されており、現在の二又瀬橋の元となった橋でしょう。15年地図7・8−ロ・ハには宇美川の東側に下臼井の記載がありますが、ここが現在の東区二又瀬で、拾遺に書かれた下臼井村の二股瀬になります。

下臼井村の話になりますがついでに書きますと、15年地図9−ロには大浦が見えます(同じく拾遺には下臼井村の民居として大浦も記載)。ここは現在大井という地名ですが、大浦・臼井で大井になったのでしょう。

さらについでに。15年地図8−ニの吉塚小学校の北を通り、現在の吉塚通り上 吉塚十一丁目と十三丁目の間の稲吉町(7−ハ)に至る道があります(15年地図では一文字目が潰れていますが、昭和11年最新調査福岡市地図で見るとどうやら稲のようです)。この斜めT字の交差点が現在の道頓堀交差点になるのでしょうが、そこから県道68号箱崎橋あたりに接続する道路が計画されていたようです(17年地図ではすでに完成しているように描かれている)。

北側はたぶん筥松小学校(東区郷口町16)の東から社領1丁目の交差点を過ぎ、東区社領1丁目1と同2丁目1の間で宇美川に突き当たる、交通量の割には道幅が広い道路が該当するのでしょう。結局、宇美川に架かる橋と吉塚7丁目側の道路は計画中止になったのでしょうが、博多駅の移設や百年橋通りの計画等の要素があったのかもしれません。 

露切町
(046)

露切町は中央区平尾1丁目から
 15年地図には東薬院町露切として記載があります(9−ル)。露切橋(及び露切橋交差点)は中央区薬院1丁目10番と同区平尾1丁目3番の間、薬院新川に掛かる橋として名を残しています。



同地図で東薬院露切(昭和17年最新福岡市地図では東薬院町露切)の掲載もある通り、露切は薬院の地名だと思っていたのですが、平尾側から露切町のバッジが見つかったことに驚いています。

薬院大通2
(047)

薬院大通2は中央区薬院3丁目11−18に貼られていました。
 15年地図には薬院大通として記載があります(9−ル)。当該住宅は取り壊されたため、所在地を記載しました。

上出口
(048)

上出口は中央区今泉2丁目から 中央区警固1丁目からも
 15年地図8−ル。筑前國續風土記拾遺には、出口は薬院村の枝郷として記載があります。上人橋通りの東(現今泉)からも西(現警固)からも出てきますので、現在の上人橋通りが北(国体道路側)から岩戸町・中出口町・上出口町だったのでしょう。(この時代は道路で囲まれたブロックではなく、通りに地名・丁目が付いていて、通りの両側が同じ地名。) 

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眞砂町
(050)

眞砂町は博多区千代1丁目から 
 15年地図には眞砂町の記載はありませんが、眞砂町二丁目の停車場は記載(7−ホ)があります。東邦電力電燈番號章と一緒に。

眞砂町二丁目南(下)に専賣局の記載が見えますが、専売公社(JT)の福岡工場跡地がパピヨンプラザになり、さらにもうすぐブランチ博多パピヨンガーデン(仮)になります。パピヨンプラザの時代には専売公社福岡工場の記念碑がありました。

2020/07/01 遅ればせながらブランチ博多パピヨンガーデンに行ってみましたが、専売公社福岡工場跡のモニュメントは撤去されていました。 


宝来町
宝来のNTT電柱表示は博多区千代1丁目から
 15年地図の眞砂町二丁目の停車場の南には宝来町の記載(7・8-ホ)があります。宝来町の痕跡は、今のところNTTの電柱表示以外には見つけられていません。 

吉塚明
(051)

吉塚明は博多区吉塚1丁目から  15年地図記載なし
 15年地図の市立第一病院のあたりに該当するのでしょう(8−ホ)。福岡市民病院は現在は博多区吉塚本町にあり、さほど大きく動いていないことに驚きます。 


長崎町
長崎のNTT電柱表示は博多区吉塚一丁目から
 15年地図の市立第一病院の東側、西林寺との間に長崎町が載っています(8−ホ)。が、その痕跡はNTT電柱表示しか見つけられていません。

吉塚新
(052)

吉塚新は博多区吉塚1丁目から
 15年地図記載なし。  

堅粕仲
(052)

堅粕仲は博多区吉塚1丁目から
 15年地図には堅粕仲も記載がありませんが、同地図の西林寺(8−ホ)のすぐ南は堅粕新町(8−ニ)になっています。

堅粕村は福岡有数の大邑で、筑前國續風土記拾遺には堅粕村の字として本村のほかに、吉塚口・水茶屋下口・百軒開の記載があり、その他に枝郷として辻村(さらに辻村の枝郷の堀口村)・西堅粕村が記載されています。 

堅粕東新
(057)

堅粕東新も博多区千代1丁目から 同じく千代1丁目
 15年地図では8−ホに東新町一丁目が見えます。その(現在の)妙見通りを挟んだ対角(西)に「二丁目」の表記が見えますが、これが堅粕東新町二丁目で該当地域となるようです。15年地図には専賣局の南に点線が走っており、どうやらこれが大字千代と大字堅粕の境になるのでしょう(7・8−ヘ)。現在は福岡高校までが堅粕でその敷地の北は千代1丁目ですが、本来は福岡高校の北を流れる小川の南側は堅粕域だったようで、まさにその場所から堅粕東新が出ています。 

上牟田
(061)

2020/03/01追加

上牟田は博多区上牟田2丁目から
 15年地図11−ホ。筑前國續風土記拾遺みは、上牟田は西堅粕村の民居として記載があります。一方、元年実測図を見ると、上牟田と隣接する半道橋は東光寺域です。

雀居は箱崎営業所管内に移設しました。

西堅粕6
(064)

西堅粕6は博多区堅粕4丁目から 同じく堅粕4丁目
 現在の博多区堅粕4・5丁目が西堅粕町だったようです。15年地図では西から(町名の表記なし)「二丁目」(9−ヘ)・西堅粕三丁目(9−ホ)と記載されています。

同地図では三丁目だけに「西」が冠されており、四丁目以降は「堅粕」と表記されていますが、同地図の堅粕七丁目(9−ホ)までと、西堅粕7までの九電バッジの分布は一致していますので、同地図の「二丁目・堅粕四〜7丁目」はすべて西堅粕だったと判断しています。 
西堅粕の産神は地禄神社(博多区堅粕4丁目13)

西堅粕7
(066)

堅粕7も博多区堅粕4丁目から 同じく堅粕4丁目から
  
 066−1*1が貼られたお宅の隣りには、西堅粕七丁目の銘が入った旗竿立台。     

西堅粕2
(068)

西堅粕2は博多区堅粕5丁目から
 

西堅粕4
(069)

西堅粕4も博多区堅粕4丁目から 同じく堅粕4丁目
  

西堅粕5
(069)

西堅粕5も博多区堅粕4丁目から このお宅には、西堅粕5丁目と記載された表札が
 15年地図17年地図には西堅粕一丁目が見当たりません。昭和9年福岡市街図まで遡ってやっと、西堅粕二丁目の西(北が上ではなく海が上)に一丁目を見つけました。現在の堅粕5丁目の堅粕橋よりも下流部が西堅粕一丁目に該当するようですが、歩いても痕跡は見つけられません。

15年地図に唯一「西」堅粕三丁目と記載されている西堅粕3のバッジも見つけられていませんが、新旧の地図を見比べると、西堅粕3は国道3号線とその沿道の開発に飲みこまれてしまったのかもしれません。国道3号のすぐ東、耕月庵(博多区堅粕4丁目13−6)はすでに西堅粕4です。 

古小路町

古小路荘は博多区吉塚3丁目11番に
 現在の堅粕4丁目の東端からは西堅粕7が出て来ます。そして通りを挟んだ、現在の吉塚3丁目の西端 博多堅粕郵便局の並びにアパート古小路荘があります。(博多堅粕郵便局は現在の吉塚にある。)

15年地図に古小路町の記載があります。(9−ニ) 同地図の郵便局は東光院と明光寺の門前の通りに書かれていますが、現在はもう一本西に移動しています。

堅粕郵便局に「博多」と付いているのは、他の地域にも堅粕という珍しい地名があるのかと思い検索してみましたが、ダイレクトに堅粕は引っ掛かりませんでした。福井県や高知県に片粕が見られますが、郵便局は確認できませんでした。 

東堅粕1
(071)

東堅粕1は博多区吉塚3丁目から 同じく吉塚3丁目
 15年地図の古小路町の東、東光院の南(下)に東堅粕本町の記載があります(9−ニ)。1があるということは2以降もあるのでしょうが、頭番は埋まっており(072は天満町・大黒通)、7丁目まであった西堅粕と比べると大きくはなさそうです。その後、073で東堅粕2を発見しています。 
堅粕の産神は筥崎宮(東区箱崎1丁目22)

天満町
(071)

2020/03/01 追加

071天満町は博多区吉塚5丁目から 頭番は東堅粕と共通
 先に072天満町を見つけていましたが、新たに071天満町も見つけました。

071が現吉塚3丁目の東堅粕と吉塚5丁目の天満町に、072が現吉塚2丁目の天満町と吉塚1丁目の大黒通にと書くと混とんとしているようですが、それぞれそれほど離れてはいなくて、歩いてみると違和感はありません。 

天満町
(072)

072天満町は博多区吉塚2丁目から
 天満町も15年地図には記載がない地名です。博多区吉塚2丁目19番には天満ハウスというアパートがあります。 

大黒通
(072)

大黒通は博多区吉塚1丁目から
 大黒通は15年地図に2筋記載があります。(8−ニ) 

東堅粕2
(073)

2020/06/01 追加

東堅粕2は博多区吉塚3丁目から 
 071東堅粕1で書きましたように、15年地図9−ニの東光院の南(下)に東堅粕本町の記載があり、まさにそこから東堅粕2は出てきましたが、同地図では明光寺の北(上)8−ニに堅粕東町の記載も見えます。その他に057の堅粕東新町もあり、かなりややこしい状況です。 

東堅粕
(074)

2023/08/15
074東堅粕は博多区吉塚3丁目 東光院山門に
 東堅粕1(071)、東堅粕2(073)、東堅粕(074)はいずれも現在の吉塚3丁目の西側から出てきています。東堅粕1・2よりも東堅粕の方が頭番が大きいので、東堅粕から東堅粕1・2が分かれたのではなく、東堅粕が本町で、本町の他に1町・2町があったということでしょう。(昭和40年代の福岡市は、本町があり、それ以外に1・2.3町となっていました。)

15年地図9−ニの、東光院の南(下)に東堅粕町本町の記載がありますが、西にも本町の記載があります。明光寺・東光院前の南北の通りを挟み、東が東堅粕の本町、通りの西に北から東堅粕1町・2町だったようです。

千年町
(078)

2020/03/01追加

千年町は博多区対馬小路から
 千町として15年地図5・6−チ。  

大浜新3
(082)

2020/03/01追加

大浜新3は博多区大博町のより西側から 博多区神屋町からも大浜新3で
 15年地図では6−ト・チに、縦の筋として大浜1丁目から4丁目が大きく書かれていますが、それと交差する横の筋として北に同新町・南に同本町も見えます。現在は道路に囲まれた1ブロックが街区符号(番)になりますが、この当時は通りの両側が一つの町になっています。

九電バッジの分布を見ますと、大浜新・大浜本共に東(北東)から西(南西)へ、大浜1丁目と2丁目の間が1・2丁目と3丁目の間が2・3丁目と4丁目の間が3となるようです。

2020/12/01
新たに大博通りを挟んだ南西側の神屋町からも大浜新3が見つかりました。15年地図では現在の大博通りに大浜3丁目があり(6−ト)、さらにその西の現在西町筋となる通りが大浜4丁目だったようです。15年地図では大浜新町は大博通りの東側に止まっているように見えますが、大正5(1916)年福岡博多市街地図を見ると、確かに大博通りを越えてその西側に大濱新町三丁目・四丁目があります。(ただし同地図では、大博通りの北東側、現在の大博町は大濱新町二丁目域となっている。)

奈良屋校(現博多小)・豊国神社(どちらも博多区奈良屋町1)と万四郎神社(博多区下呉服町1)の位置関係を見ても、大博通り自体は当時とずれていません。 

大浜本1
(084)

2020/03/01追加

大浜本1は博多区下呉服町から
 15年地図6−ト、黄色バッジ08と一緒に。同本町の上に描かれた神社マークは沖浜恵比寿神社になるのでしょう。(ただし、現在の沖浜恵比寿神社は道路南側にある。) 

大浜新1
(089)

2020/03/01追加

大浜新1は博多区大博町のより東から
 

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上竪町
(100)

2020/03/01追加
上竪町は博多区中呉服町から 
 15年地図7−ト。昭和通りで分断されていてわかりにくいのですが、現在は万四郎神社(15年地図7−ト)が昭和通りのすぐ北にありますので、上竪町(かみだてまち)と中竪町の間に昭和通りが出来たイメージでしょうか。

中竪町は未発見、下竪町は315

下蓮池
(101)

2020/03/01追加


下蓮池は博多区中呉服町9番12 妙典寺に 
 蓮池町として15年地図7−ト。                                                                         
同地図には蓮池町の道路東側(現在の博多区市中呉服町9番)に3寺が見えますが、現在はここに4寺が並んでいます。

妙典寺 (慶応8年 リンク先は寺院ホームページ)
本長寺 (慶応年間 以下、リンク先はお寺めぐりの友
選擇寺 (天正2年)
一行寺 (寛永年間)

いずれも江戸時代から当地にあったようです。選擇寺が記載されていないのかな?

中小路
(103)
中小路は博多区上呉服町から 
 15年地図7−ト。 

普賢堂
(104)
普賢堂も博多区上呉服町から  同じく上呉服町
 15年地図7−トに上・下の普賢堂町として。普賢堂があったことによる地名ですが、普賢堂は筑前國續風土記拾遺の時点ですでに廃されています。

上赤間
(106)

2020/03/01追加
上赤間は博多区冷泉町から 
 15年地図8−ト。 

西門橋通
(114)
西門橋通も博多区千代2丁目から  同じく千代2丁目
 15年地図7−ヘ。同町内からは東邦電力番號章も。 

御供所
(117)

2020/09/01追加
御供所は博多区御供所町13番6 妙楽寺から 博多区御供所町11番10号 順心寺から 2022/03/15追加
 15年地図8−ト。現在の御供所町からは135辻堂119福山町を見つけていましたが、肝心な御供所を見つけられずにいました。今回、妙楽寺の敷地内で御供所が見つかりました。現在の御供所町は幻住庵(博多区御供所町7−1)・西光寺(御供所町6−16)よりも南の一角ですので、15年地図で見ると御供所町のほかに、下辻堂町の一部・馬場新町・上小山町・奥堂町の一部・上桶屋町・金屋小路町・寺中町の一部等で構成されているようです。

福山町
(119)
福山町は博多区御供所町から  黄色バッジ11と一緒に 同じく御供所町から 
 福山町は15年地図記載なし。  

厨子町
(123)

2020/04/01追加

厨子町は博多区店屋町3−14 福岡製粉會館に
 15年地図8−チを見ると、冷泉小學の北に妙行寺が見えます。妙行寺は現在南区野間4丁目にありますが、そのホームページを見ると福岡大空襲で焼かれ現在地に移転し、その跡は冷泉公園になっていることが書かれています。

同地図では作人橋(現在の博多橋)から東に延びる冷泉通りはまだなく(冷泉公園通りはある)、下厨子町と上厨子町の記載がありますが、福岡製粉會館は下厨子町域のようです。

ペンキ上塗りされており、頭番は123と読んでいますが、下一桁が9など他の数字の可能性もあります。120番台は他に見つかっていませんので、他が見つかればそれを踏まえて再検討します。

筑前國續風土記拾遺には、厨子町は元の名を瓦堂だったと記されています。

下瓦町
(131)

2020/08/01追加
下瓦町は博多区祇園町から
 瓦町として15年地図8−チ。瓦町筋は今でも瓦町通りとして北半分が残っていますが、下照姫神社以南(上瓦町)は、はかた駅前通りに吸収さ
れてしまったようです。
 博多の各村は筥崎宮か櫛田宮を産神にしていますので、それぞれは記載していませんが、瓦町はさすがに町内に鎮座する吉祥天女(下照姫神
社/博多区祇園町8−21)を産神としています。

矢倉門
(132)

2021/04/01追加
矢倉門は博多区祇園町から
 15年地図8・9−ト。同地図を見ると善照寺・順正寺・万(萬)行寺を挟んで東に矢倉町筋・西に瓦町筋が描かれています。当たり前ですがまさにその付近(ただし矢倉門筋からではない)から出て来ました。この通りは何十回も歩いているのに、玄関ではない見づらい場所に貼られており見落としていました。

臼杵安房守が元亀元(1570)年頃に築いたとされる矢倉門についてはこちらが詳しい。

辻堂
(135)
辻堂も博多区御供所町から 
 15年地図8−ト。 

出来町
 出来町公園(博多区博多駅前1丁目10番)には九州鉄道発祥の地と博多駅の記念碑があります。15年地図を見ると旧博多駅は出来町の西、現在の大博通り商工会議所入口交差点に、東は東町筋から西は当時万行寺前通りとなっている博多区役所から北に延びている通りに掛けてあったようです。

九州鉄道は門司から西進してきたのかと思っていましたが、明治22年に最初に開通したのは旧博多駅〜千歳川仮停車場区間だそうです。ルートがよくわかりませんが、仮に現在の鹿児島本線と同じルートならば、千歳川(筑後川)北岸は佐賀県(現鳥栖市)になります。

比惠本
(138)
138比惠本は博多区比恵町から   同じく比恵町から
 15年地図11−ヘ。同地域からは黄色バッジ14も。  
 産神は日吉神社(博多区山王1丁目9)

比惠本
(139)
139比惠本も博多区比恵町から
 比恵町は現在は丁目のない小さな街ですが、東の御笠川沿いの138比惠本と、西の筑紫通りに近いところからも139比惠本が出て来ました。比惠「本」に対する他の町が、297下比恵なのでしょう。

15年地図当時は百年橋通りはまだありませんので、御笠川には比恵大橋は掛かってなく、現在の比恵交番前に掛かる比恵橋しかありません。

百年橋通り
について
 15年地図の急行電車ひらを駅の北から比恵の街中に向かって東西に走る道が、後の百年橋通りかと思いましたがどうも違います。現在の百年橋通りを平尾交差点から東に行くと、大宮2丁目の交差点(ロイヤルホスト前)で二股に別れ、百年橋通りは若干南にずれています。

この二股の北の通り、消防団高宮分団車庫の前・日赤通り高砂2丁目の交差点・簑島橋・簑島商店街・こくてつ通り簑島北交差点から(JR鹿児島本線の高架で現在は連続していませんが)東住吉小学校(15年地図東住吉校)の南に至る道が、同地図に書かれている東西の通りのようで、百年橋通りはまだありません。

ただし、電信電話中継所(10・11−ト・ヘ/現NTT西日本)までは現在も全く同じ場所にありますが、15年地図は最終的に比恵橋(百年橋通りの比恵大橋ではない比恵交番前の橋)につながっています。百年橋通りの北を走っていた道が、最終的に百年橋通りの南になりますので、ここに至る道筋は少し変わっています。

以上を踏まえて、該当する各欄は2020/03/01付で若干修正しています。
 

花野町
(142)

2020/03/01追加


花野町は博多区博多駅南3丁目から
 15年地図では大字犬飼 野町の地名が見えます(11−ト)。

元年実測図では同じ場所に野入の地名があり(15年地図での野入は野町の南)、集落の南外れに鳥居マークが見えますが、現在の花野公園(犬飼大神宮)の場所と矛盾しないと考えます。殺風景な野町に一文字加えて華やかな「花の町」にしたとすると、考えた人はセンスがありすぎる。
犬飼の産神は若八幡宮(博多区博多駅前1丁目29)

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

春住町
(163)
春住町は博多区博多駅南5丁目から  同じく博多駅南5丁目  2020/03/01追加
 15年地図記載なし。春吉小学校・住吉小学校がすでにあるところに、さらに小学校を新設(昭和30<1955>年)するにあたり、2つの地名を合わせて作られた新校名でしょうが(同じ例に飯倉・原で飯原小等)、校区名が町名になり、今はまた小学校名くらいにしか名を残していません。

現在の春吉は中央区、春住町があった博多駅南は博多区と行政区も違い、若干離れているように感じますが、筑前國續風土記拾遺の春吉村欄には「民居は本村 東中洲 西中洲 寺町口 高畠 宮嶋 六郷 寺町(15年地図には上下寺町として8・9−リ)など」と記されており、宮島(15年地図11・12−チ/現在の竹下通りを中心に博多区博多駅南3・5丁目)・六郷(15年地図12−ト・チ)は春吉村域です。

以下は私の覚書です。博多駅南4丁目17に福岡小林郵便局・小林町米穀店、同8に小林町第1住宅・10に小林町第2住宅・7に小林町第3住宅等小林町の名残りがあり。

さらについでに、このあたりに六郷のバス停があったはずですが、今検索しても痕跡が出て来ません。

沖部町
(165)
沖部町は博多区美野島1丁目から 同じく美野島1丁目 
 15年地図には沖町と記載(11−チ)。 

住田町
(165)

2020/10/01追加
住田町は博多区美野島1丁目から
 15年地図11−チ。住田町は見つからないとNTTの電柱表示を掲載していましたが、ちゃんと探せば見つかりました。同じ街区符号(番)の北の通りに沖部町が、背中合わせの南の通りに住田町が貼られており、なぜこの通りを歩いていなかったたのだろうと不思議です。

見つかったのは横筋からですが、15年地図で見ると現在の県道553号美野島通りと小柳通りの間の縦筋が住田町のようです。(この時代は道路に囲まれたブロックではなく、通りに町名・丁目が付いており、その間の路地はどちらかの町になります。)

木下町
(166)
木下町は博多区住吉5丁目から   同じく住吉5丁目 
 15年地図には木下町と記載(10−リ)。 

東住吉
(168)
168東住吉は博多区住吉3丁目から  住吉3丁目1 住吉神社別館に 2020/10/01追加
 15年地図10−チ。博多区住吉4丁目からは、頭番179の東住吉が見つかっています。

2020/10/01 住吉神社の境内から168東住吉と黄色バッジ13をセットで見つけました。15年地図10−チでは住吉神社の北、松月庵跡の周りに中住吉の字が見えます。地名の成り立ちを考えるならば、住吉神社こそが中住吉もしくは本住吉というべき場所なのでしょうが、そこに東住吉のバッジが貼られているのは、地割の結果たまたまそうなったのでしょうが、少し面白さを感じます。

上横田
(170)
上横田は博多区住吉4丁目から 同じく住吉4丁目
 15年地図及び17年地図には中横田町と下横田町は記載(10−リ)がありますが、上横田町はなく当該個所には打荒木との地名が見えます(10−リ)。 打荒木が上横田町に呼称統一された可能性もありますが、横田町・下横田町(もしくは横田町・中横田町)ならば上横田町はまだ成立していないと言えるかもしれませんが、下・中があるからには上もあったと考えるのが自然でしょう。そして、その中・下横田のバッジは現在までに見つけられていません。

新柳2
(173)
新柳2は中央区清川2丁目から
 新柳町として15年地図9・10−ヌ。新柳町の成り立ちについては多くのページが存在しますので、検索してください。 

新柳3
(173)
新柳3も中央区清川2丁目から 
                                                                                        

東住吉
(179)
179東住吉は博多区住吉4丁目から
 枚数が少ないので確定的なことは言えませんが、168東住吉が住吉3丁目で179東住吉は住吉4丁目のようです。

同じ東住吉ながら頭番が10も違うのは、15年地図では住吉通りはまだありませんが、九電バッジが貼られた時期(昭和30年代と思われる)には、現在の住吉3丁目と同4丁目は住吉通りで分断されていたのでしょう。

15年地図では、西住吉と東住吉の間に上・下の北住吉町が(9・10−チ)、さらにその東に中住吉(10−チ)があったようですが痕跡は見つけられていません。

西住吉

西住吉米穀販売店は博多区住吉2丁目13番3に
 15年地図では、妙円寺(博多区住吉2丁目17番)の西あたりに西住吉が見えます(9−チ)。米屋さんも昔は一つの町に一軒の専売だったのでしょう、よく町名を残しています。ただし店名はそのままに、別の町に移転しているケースも多々見られます。

15年地図には西住吉の北に鐘紡工場が見えます。キャナルシティがカネボウプールの跡に建てられていることに、同地図を見て気がついたというか、カネボウプールがあったことを思い出しました。また、鐘紡工場の対岸には清流荘が見えます。現在ここに清流公園があるのは、那珂川を清流にしたいという意味ではなく、(たぶん料亭の)清流荘の跡地なのでしょう。

宮崎町


宮崎のNTT電柱表示は博多区住吉3丁目から
 15年地図には東住吉の西側、住吉橋の東詰に宮崎町の記載があります(9・10−リ)。 現在の住吉3丁目14・17番あたりでしょうか。住吉2丁目の20番あたりに宮崎口との記載も見えます(9−リ)。宮崎町の痕跡は、今のところNTTの電柱表示以外には見つけられていません。

小柳町
(180)
小柳町は博多区住吉5丁目から  同じく住吉5丁目
 15年地図10・11−チ。小柳公園は博多区美野島1丁目7番に。 

南小路1
(181)

南小路1は博多区美野島4丁目から 
 黄色バッジ17と一緒に。南小路1(博多区美野島4丁目)と天代町(南区大楠1丁目)は同じ頭番181ですが、隣り合っているとはいえ間に那珂川を挟みます。

南小路は15年地図では11−リに見えますが、南小路1は簑島駅(同地図12−チ・リ)の東側から出て来ました。

天代町
(181)
天代町は南区大楠1丁目から  同じく大楠1丁目  
 15年地図12−リ。天代公園は大楠1丁目2番に。 

南小路3
(182)
南小路3は博多区美野島3丁目から 
 15年地図11−リ。小路は道が突き抜けていない(行き止まりやT字路等)ことを指します。15年地図で見ると簑島橋(百年橋ではない)の南詰めから川沿いの道が川端通となっていますが、美野島2丁目28・29・30と32の間の南北筋が該当しそうです。

そうすると、同27と28・29あたりの筋が南小路に該当するのかと考えましたが(文字の向きが筋の向きを表している)、南小路3は美野島3丁目から、南小路1は美野島4丁目からと、小路という割には広範囲かつ百年橋通りの南側から出てきています。(すでに移転しましたが、福岡南小路郵便局も美野島4丁目3にありました。)

日ノ出町


日の出のNTT電柱表示は博多区美野島3丁目から
 15年地図では筑肥線簑島駅の北に日ノ出町の記載があります(12−リ)。現在の百年橋通りの南が該当しそうですが、今のところNTTの電柱表示以外の物は見つけられていません。

簑島東本?
(185)
簑島東本?は博多区美野島2丁目から 
 玄関がリフォームされたのでしょう、文字が玄関枠の下に隠れてしまっています。現在の美野島2丁目ですが、「186簑島本」とは簑島通りを挟んだ東から出てきています。


一文字目は竹冠ですから「簑」で間違いないのでしょう。3文字目が「−」の下に来ており、「186簑島本」に比べると文字数が多そうかつ最後の文字は数字の2か3に見えます。

2020/03/01追記 その後何度も現地を歩き地図を検討した結果、15年地図11−リに記載される「簑島東本」町の2丁or3丁ではないかと推測しています。

簑島本
(186)
簑島本は博多区美野島2丁目から  文字不明ですが場所(美野島2丁目)的に簑島本かと
 15年地図11−リ。百年橋通りはまだなく、後に15年地図(簑島)本町・同東本町(11−リ)の南(下)側を走ることになります。 

簑島橋通
(189)
簑島橋通は博多区美野島1丁目から 
 15年地図11−リ。現在のみのしま連合商店街通りの、美野島通りより西側が該当します。ただし同バッジを見つけたのはその一本裏通りから。 

新簑島2
(189)

新簑島2も博多区美野島1丁目から 
 新簑島として15年地図11−リ。

2020/05/01 前の画像は許可を受けたうえで敷地内に入らせてもらい撮影していたのですが、あまりにもピンボケがひどかったので再撮影に行きました。

新簑島3
(190)
新簑島3も博多区美野島1丁目から   同じく美野島1丁目
 新簑島として15年地図11−リ。                                                                   

南新町
(190)
190南新町は博多区住吉5丁目から 同じく住吉5丁目 
 15年地図10・11−リ。                                                                        

南新町
(191)
191南新町は博多区住吉4丁目から 同じく住吉4丁目
   

花園本
(194)


花園本は中央区春吉1丁目から
 15年地図には花園として10−リ。 

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西職人
(203)

202/06/15追加
西職人は中央区舞鶴2丁目から
 15年地図6−ル。

筑前國續風土記拾遺には「この町は東横丁(ママ)は風呂屋丁、西横町(ママ)は黒茶町」となってり、明治23(1890)年福岡市明細図で見ると、現在の明治通り 赤坂の交差点から那の津通り 長浜の交差点までの南北筋が字黒茶町、同じく明治通り 舞鶴2丁目交差点から那の津通り 舞鶴小学校の南北筋が風呂屋横丁に該当し、その間の東西筋が西職人町になります。

ただし、この西職人のバッジは、実際には風呂屋横丁と言える場所から出てきています。

明治23(1890)年福岡市明細図を見ると、大長寺(中央区舞鶴1丁目3)・少林寺(中央区天神3丁目6)・安国寺(同14)・円正寺(同12)の裏(北)はもう砂浜です。ちなみに私の母系の菩提寺がその圓正寺になり、家付きの祖母はこのあたりの生まれで、若き日の広田弘毅を見知っていたそうです。
産神は警固宮(警固神社/中央区天神2丁目20)

東職人
(205)

202/06/15追加
東職人町は中央区舞鶴1丁目から 同じく舞鶴1丁目
 15年地図6−ヌ・ル。筑前國續風土記拾遺には「慶長年間にこの町を建てた時に、諸職人に宅地を賜る」となっています。拾遺には「この町の諸職人」に関しては續風土記の土産考(巻29/リンク先は中村学園大学図書館 貝原益軒アーカイブ PDF)に書かれているとなっており、刀剣等の武具から織物、食品・酒などなど書ききれないほどの多くの物が挙げられています。

また「この町は東は萬町、西は風呂屋横丁に限る」となっており、萬町筋が現在の親不孝通りです(風呂屋横丁は203西職人で触れています)。
産神は警固宮(警固神社/中央区天神2丁目20)

若宮町
(217)

2020/06/01追加
若宮町は中央区今泉1丁目から 
 15年地図8−ル。221今泉町欄に若宮町の発見は絶望だと書いていましたが、丹念に探せばちゃんと見つかりました。今回新たに見つけたこの217−0*8若宮町と221−1*8−3今泉町は同住所(中央区今泉1丁目〇番〇号)にある、間に一軒挟む先隣りの建物です。現在は道路で囲まれたブロックが町や街区符号(番)になりますが、この当時は通りに町名がついており、通りの両側が一つの町名になります。路地にある建物はどちらかの通り(町)に属しますので、隣り合った建物でも違う町名になるのでしょう。

中庄町
(218)
中庄町は中央区薬院1丁目から 
 15年地図8・9−ル。    

本庄町
(219)
219本庄町は中央区今泉2丁目から  中央区今泉1丁目からも
 219本庄町は児童会館通りの一本西の通り(今泉1丁目と今泉2丁目の境の通り)沿いに、今泉1丁目からも2丁目側からも見つかります。15年地図8−ルに見える、若宮神社西の筋の「本庄町」が219本庄町に該当すると思われます。
産神は四十川天満宮(所在不明/水鏡天神より勧進)

本庄町
(221)

2020/03/01追加
221本庄町は中央区今泉1丁目3番10 本庄湯に 
本庄湯
 221本庄は15年地図8・9−ルに見える、若宮神社東の筋の本庄2丁目・本庄3丁目が該当すると考えています。  

 今泉と庄、さらに薬院との境について

 以下は話がまとまっていない私の覚書です。現在は庄という地名はなくなり今泉の一部になっていますが、江戸時代の城下図から戦前の地図までを並べて見ると、今泉と庄の境があいまいです。特に明治以降の地図に於いて、盛(清)福寺の描かれた場所がまちまちで混乱しています。

まず、江戸時代の福岡御城下絵図 梁橋ヨリ中嶋橋ニ至ル(宝暦〜天明)を見ると、この地域(東は法泉寺から西は八反川に掛けて、南は安養院まで)はすでに町割りされています。

筑前國續風土記拾遺によると、今泉村は北に八反田川・南に新川が流れ、産土は枝郷八反田にある若宮大明神(若宮神社/中央区今泉1丁目19)で、同じく八反田に盛福寺(現在は今泉2丁目1)があるとなっています。庄村は四十川天満宮を産土とし、法泉寺(現在は今泉1丁目18)があるとなっています。ややこしいことに拾遺には、今泉村の枝郷八反田について「中庄・本庄ともいう」と書かれています。(今泉村の次に庄村の記載がある。)

福岡御城下絵図 梁橋ヨリ中嶋橋ニ至ルでは盛福寺・法泉寺が現在の場所で載っており、同絵図には若宮神社は記載がありませんが、福岡城下屋敷全図(寛政10年写)には「若宮」が載っており、さらには盛福寺の北、現在の今泉2丁目5番は八反田(今泉村)であると描かれています。

江戸時代の庄(後の大字庄)は町割りされた本庄と、農村である庄村(福岡御城下絵図 梁橋ヨリ中嶋橋ニ至ルには安養院の前に描かれる)に分けられるようですし、今泉村も北の字八反田に於いてはすでに町割りされていたようです。

一方15年地図で見ると、萬町筋から下ってきた筋(現在の天神西通り)と若宮町筋はまっすぐにつながっておらず、若宮通(現在の国体通り)で若干東にずれています。この西通りと児童館通りのずれは今も同じ形で、若宮神社は正徳3(1713)年以来当地にあり、多少の領域の加減はあったにしても動いていません。

明治13(1880)年改正改正福博詳見全図や明治29(1896)年福博たより附図福岡市全図を見ると、福寺は現在盛福寺がある今泉2丁目に描かれています。しかし大正5(1916)年福岡博多市街地図で見ると、福寺が若宮神社の南に描かれています。安養院の位置からすると今の
法泉寺(今泉1丁目18)辺りに描かれているように思えます。

ややこしくなるので触れたくないのですが、明治41(1908)年最新実測福岡市街全図や大正3(1914)年最新実測福岡市街全図で見ると、
福寺の上(北)に若宮八幡宮が、福寺の下(南)に安養院が描かれており、大字今泉の字八反田はその東のブロックとなっています。若宮八幡宮が描かれた場所は現在の今泉2丁目5番に該当し、福岡城下屋敷全図(寛政10年写)等で見ると確かにここも今泉の字八反田のようですが、若宮神社の場所を一ブロック間違えていると考えています。

私自身がわからなくなってしまったので表にしてみました。(単に卍マークだけのものは除き、福寺の名の記載があるもののみ。)

発行年
地図名
 編集・著作・発行 
 福寺の位置 
備考
 明治13年 
 1880年 
改正福博詳見全図
高須徳七(編)
今泉2丁目
明治23年
1890年
福岡市明細図
高須徳七(著)
今泉2丁目
明治29年
1896年
 福博たより附図福岡市全図 
森岡書店(発)
今泉2丁目
明治41年
1908年
最新実測福岡市街全図
地理研究会(編)
今泉2丁目
 若宮八幡宮が福寺の北にあり 
明治42年
1909年
福岡市街図里程附
 福岡警察署(発) 
 今泉1丁目 
大正3年
1914年
最新実測福岡市街全図
地理研究会(編)
今泉2丁目
 若宮八幡宮が福寺の北にあり 
大正5年
1916年
福岡博多市街地図
炭谷伝次郎(編)
今泉1丁目
大正8年
1919年
福岡博多市街地図
大淵伝次郎(編)
今泉1丁目

現在の盛福寺の場所(今泉2丁目)に福寺が描かれている地図には、法泉寺の場所(今泉1丁目)には何もありません。逆に現在法泉寺がある場所(今泉1丁目)に福寺の記載がある地図には、現在盛福寺がある場所(今泉2丁目)に卍はありません。2つの卍が同時に記載されることはないことから、これはどうも福寺と法泉寺が混同されてしまっているようです。どうやら実際に測量せずに前の地図を踏襲して地図を作った可能性が高く、元となる地図が2系統(+1)あるということかもしれません。

若宮神社と思われる鳥居マーク、盛福寺・法泉寺・安養院と思われる卍マークが、それぞれ現在の場所で載っているのは昭和2年福岡市及付近です。(だだし、名の記載はない。)

庄村の四十川天満宮は余香館(今泉1丁目5)にあったとされる容見天神かと思いましたが、拾遺の記載では四十川天満宮は延宝3(1675)年に橋口(天神)の水鏡天神を勧進したとなっています。水鏡天満宮は慶長17(1612)年に庄村にあった容見天神を天神橋口に遷座してとしたということですから、これはちょっと話が180度逆です。ただし15年地図には安養院の前の通りが天神通となっており、「元天神通」ではないところを見ると、容見天神があった場所に新たに四十川天満宮を勧進したのでしょうか。(江戸時代の絵図・明治以降の地図には記載がなく、現地を歩いても痕跡を見つけられない。)

法泉寺が建つ場所は、大字庄なのか大字今泉字八反田なのか、明治23(1890)年福岡市明細図に引いてある点線を大字(村)境と信じるならば、大字庄の字宇野添に該当しそうです。同地図をそのまま受け入れるならば、福寺も大字庄域です。これだけ地図が当てにならないと書いてきましたので、明治23(1890)年福岡市明細図だけを無条件に受け入れるのは危険で、盛福寺までは今泉の字八反田だった可能性もありますが、拾遺の記載以外にはあらゆる地図からその痕跡を認めることは出来ません。

神社や寺が村域から出ることは、明治以降の街の発展や空襲後の再開発で割とよくありますが、盛福寺は今泉の寺と言いながらそもそも庄域にあったのでしょうか。さらには江戸時代の絵図には盛福寺と載っているものが、明治以降の地図には一貫して福寺と記載されています。これだけ一貫していると誤記ではなく、明治以降戦前にかけて盛福寺が福寺と名乗っていた時代があったのでしょうか、それとも先に書きましたように、実際に測量せずに地図を作った結果でしょうか。(寺の公式HP等もなくこのあたりは判然としません。)

また、こちらを見ると(リンク先は個人のHPだが、出典元は『筑前博多』<福岡協和会編、1938>とのこと)鶴城女學(8・9−ヌ)は庄にあったとなっています。15年地図で見ると鶴城女學は、薬院六角から東に延びる現在の今泉薬院通りの、新開橋の西詰になりますので、凸版印刷がある中央区薬院1丁目17番になります。薬院1丁目の東側も庄域のようです。

 新開橋は中央区薬院1丁目17番と同区渡辺通4丁目2・5番の間に架かる。

こうして見てきますと、大字庄のうち現在の今泉2丁目1番及び今泉1丁目18番の法泉寺周りは、西隣りの薬院村と共に江戸時代にすでに町割りされていて、15年地図の若宮神社と盛福寺と思われる卍の間の筋として記された「本庄町」(219本庄町)となり、庄村が15年地図本庄1〜3丁目(221本庄町)に該当するのでしょう。

散々地図が信用できないと書いてきましたが、明治23(1890)年福岡市明細図(点線が引いてあり大字境がわかりやすい)や15年地図の地名を元に一応両村域を考えてみますと、

今泉村は、今泉1丁目11〜17番・18番の季離宮よりも北(現在は繋がってはいないが一応路地がある)・19〜23番、今泉2丁目5番、渡辺通4丁目8〜10番、渡辺通5丁目21〜24・27・28番。(渡辺通5丁目25・26番は春吉域。)

庄村は、今泉2丁目1番(2番・3番は薬院の字尾田・4番は同じく薬院の字岩戸口、5番は今泉の字八反田)、今泉1丁目1〜10番及び18番の季離宮南の路地よりも南、渡辺通4丁目7番、薬院1丁目1〜4番・15〜17番(凸版印刷)あたりでしょうか。(薬院1丁目5・6・14番以西は薬院域か?)

いずれにしても両村は城下のすぐそばにあり、農村ではなかった(農地があったとしても村外)ので村域は非常に狭い印象です。


今泉町
(221)
今泉町は中央区今泉1丁目から   同じく今泉1丁目  2020/06/01追加
 15年地図8−ヌ。九電バッジの「今」の字は「ラ」が「テ」になる異字体。

2020/06/01 新たに1*8を見つけたのですが、営業所名が入っていない珍品です。単にプレス忘れなのでしょうか。尚、この欄に若宮の発
見は絶望的だと書いていましたが、217で見つかりましたので当該記述は削除しました。
産神は若宮神社(中央区今泉1丁目19)

大学通3
(223)
大学通3は博多区千代3丁目から 
左(東) 西水茶屋    右(西) 大学通3
 15年地図7−ヘ。           

西中洲
(227)

2020/03/01追加


西中洲は中央区西中洲から 
 15年地図8−リ。西中洲も中洲と一緒に2020/01/01に歩いています。西中洲は春吉村域。   

春吉5
(230)
春吉5は中央区春吉2丁目から 
 15年地図8−リ。筑前國續風土記拾遺の春吉村欄には「民居は本村 東中洲 西中洲 寺町口 高畠(高畑) 宮嶋(宮島として15年地図11・12−チ) 六郷(15年地図12−ト・チ) 寺町(15年地図上・下寺町として8・9−リ)など」と記されています。

春吉8
(232)
春吉8は中央区春吉2丁目から 
 15年地図では春吉は7番町までしか見えません(9−リ)が、17年地図では15年地図の袋町あたり(9−リ)に8番町が見えます。    

三光町
(233)

三光町は中央区渡辺通5丁目から
 三光町は15年地図には記載がありませんが、17年地図では赤文字で記載があります(8−ヌあたり)。薬院新川の国体道路に架かる橋とその東詰交差点(中央区渡辺通5丁目2番先)に名を残しています。

春吉6
(234)
春吉6は中央区春吉3丁目から 
 15年地図8−リ。  

東福寺
(235)
東福寺は博多区千代4丁目から 同じく博多区千代4丁目
 17年地図には、崇n宸ニ崇n寳V町の間あたりに東が見えます。場所的にも東福寺≒東福町で間違いないのでしょうが、福岡市に、さらに千代近辺に東福寺という名の寺があった形跡はなく、崇n宸フ東の意味かとも思いましたが西ですし、謎の地名です。

千代新
(237)
千代新は博多区千代4丁目から  同じく博多区千代4丁目
 15年地図記載なし。  

新開町
(241)

2020/03/01追加
新開町は中央区渡辺通2丁目から
 15年地図9−ヌ、黄色バッジ21と一緒に。

           新開町婦人會が昭和15(1940)年に建てた旗竿立台は、中央区渡辺通4丁目2番2の先に。       

昭和通
(243)

2020/03/01追加
昭和通は中央区渡辺通2丁目 三角市場内に   同じく渡辺通2丁目 三角市場内
 15年地図には地名としての昭和通は記載がありませんが、該当の場所に昭和通の停留所があります(9−ヌ)。

現在は石堂大橋から西に延びる、明治通りの一本北の道を昭和通りと呼んでいますが、その昭和通りは戦後に作られたもので、15年地図当時
にはまだ存在していません。

それとは別の、地名としての昭和通がここにありました。



ちなみに三角市場の画像に因幡うどんが写っていますが、因幡うどんの発祥は因幡町(15年地図7−ヌ/中央区天神1丁目)になるようです。

畑新
(246)
畑新は中央区高砂1丁目から 
 15年地図9−ヌ。高畑は春吉村域。  

大門通
(249)

大門通は中央区清川1丁目から 
 15年地図9−ヌ、黄色バッジ20と共に。     

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

渡辺通4
(250)


渡辺通4は中央区渡辺通5丁目から
 15年地図8・9−ヌ。渡辺通は現在、住吉通りと交差する渡辺通1丁目点と国体道路と交差する渡辺通4丁目交差点の間に、渡辺通りを挟んで東に南から渡辺通1・3・5丁目が、西に同じく南から2・4丁目がありますが、15年地図で見ると、現在の渡辺通1丁目交差点に1丁目の停車場が、現在の渡辺通4丁目交差点に5丁目の停車場が、さらに国体道路を越えて現在の中央警察署入口交差点あたりに6丁目の停車場と、町域が北に広い上に通りに丁目が付いているため、現在の渡辺通5丁目の一部が同時代には渡辺通4丁目だったようです。

居住されている方の許可を得て撮影したのですが、門外から暗い軒下を撮影したたためピンボケしてしまいました。

白金町
(256)
白金町は中央区白金1丁目から 同じく白金1丁目  2022/05/15追加
 15年地図10−ル。                                                                   

向田町
(257)
向田町も中央区白金1丁目から  同じく白金1丁目
 15年地図10−ヌ。向田は江戸時代からの平尾村の枝郷として、筑前國續風土記拾遺に記載があります。                    

西露町
(260)
西露町は中央区平尾1丁目から 同じく中央区平尾1丁目
 15年地図では急行電車の線路の東に「露町」の記載があります(10−ル)。 17年地図では急行電車の東に東露町、西に西露町と分かれており(10−ルあたり)、大宮1丁目に東露町があったはずですが、痕跡は見つけられていません。

余計なことですが、私の祖父母世代は西鉄福岡大牟田線を急行電車と言っていましたが、急行電車線が地図に掲載された正式な名称だったとは(11・12−ヌ・ルに記載)。

八幡本3
(262)

八幡本3は中央区白金2丁目9−8(解体済み)
 1889(明治22)年、平尾・高宮・野間・若久・屋形原の各村が合併して那珂郡八幡(やはた)村が出来ます。八幡の名は平尾・高宮・野間(高宮から分祀)と八幡宮が多かったことから名付けられたとなにかで読んだ記憶がありますが、今その資料を思い出せません。(ちなみに若久は住吉神社社領があったため住吉宮・屋形原は老松宮。)

その八幡村の中心の意でしょう。15年地図では八幡本町は見えず、17年地図では向田と樋ノ口に挟まれて記載があります(10−ヌあたり)。

2021/04/01 解体されていましたので住所を記載します。

樋ノ口

樋口のNTT電柱表示は中央区白金2丁目 知事公舎前から
 筑前國續風土記拾遺では「樋ノ口」は高宮村の枝郷となっています。15年地図に見える樋ノ口は、盲學校(現知事公舎)の東側に記載がありますので、白金2丁目に該当するようです(10・11−ヌ・ル)。

拾遺にいう樋ノ口と昭和元年福岡市及び近郊実測図・15年地図・17年地図の樋ノ口(全て同じ位置にある)が同一のもなのか自信がありませんが、平尾校や八幡校ではなく高宮校(昭和7年福岡市街図から昭和14年最新福岡地図小形までは八幡尋常高等小学校)と名付けられたということは、このあたりまで高宮村域だったのでしょうか。

作人町
(269)

2020/03/01追加
作人町は博多区中洲3丁目1番18 川丈旅館に
 近頃の中州は昼から営業している店も多く、街を歩くことはまだしも、カメラを抱えて一軒一軒の玄関をのぞき込むことは躊躇していましたが、正月ならばと思い2020年1月1日に2〜4丁目を歩きました。1丁目は正月の昼から客引きが多数いたので、中まで入っていません。5丁目はいつでも歩けるのでいいかなと。

九電バッジが見つかるならば人形小路か博多川沿いのどちらかであろうと考えていましたが、飲食店はさすがに代が替わるごとに表構えをいじってあるのでしょう、よさげな建物はあってもなかなか見つからず、唯一博多川沿いの川丈旅館から見つかりました。川丈旅館は九電バッジが貼ってある建物では珍しく、鉄筋サッシ窓です。

15年地図には川丈座(川丈旅館経営のホール)の記載がありますが、中洲十丁目となっており、現在の博多橋が作人橋となっています(8−ト)。17年地図では東中洲十丁目の記載はそのままに、赤文字で作人町の記載も見えます。東中洲(現中洲)は春吉村域。

その後中洲5丁目を歩きましたが、地名の痕跡を見つけることはできません。15年地図には東中洲12〜14丁目・向川端や幸町の地名が、17年地図には國廣町や中ノ町の地名も見えます。

畑本
(271)


271畑本は中央区高砂2丁目から
 15年地図では畑本町は現在の日赤通りの東側に記載があります(10−ヌ)が、畑本の九電バッジは日赤通り西側の高砂2丁目から見つかりました。日赤通りを挟んで両側に畑本町域があったようです。高畑は春吉村域。

15年地図では渡辺通りは現在の住吉通りと連結されていたようで、日赤通りとはまっすぐにつながっていません。(10−ヌ) 

2021/04/01 その後273で清川2丁目からも高畑本を見つけています。

高砂町
(272)



272高砂町は中央区高砂2丁目から
 272の高砂町に該当するのは、17年地図の日赤通りの西側、現在の高砂2丁目あたりに赤文字で記載があります。   

畑本
(273)

2021/04/01追加


273畑本は中央区清川2丁目から 黄色バッジ20と一緒に
 271高畑本は日赤通りの西側 中央区高砂2丁目から見つかってしましたが、新たに日赤通りの東側 清川2丁目から273高畑本を見つけました。高砂も272が高砂2丁目・273が清川2丁目から出てきており、この時代は通りに町名が付いており、通りの両側が一つの町になります。

上記を踏まえると、15年地図の10・11−ヌに描かれた地名は若干わかりにくく、現在の日赤通りの東が高畑本町・西が高畑新町に見えますが、日赤通りに北から高畑町・高畑新町(246)・高畑本町・高砂町(272273)がそれぞれ通りを挟んで両側に続くのでしょうか。

15年地図10−ヌにはその北に桜木町・六月田の地名が見えますが、六月田ビルが高砂1丁目9−3に。

高砂町
(273)


273高砂町は中央区清川2丁目から
 273高砂町は15年地図の日赤通りの東側、たぶん現在の中央区清川3丁目の24番と25番の間であろう通りに記載があります(10−ヌ)。 

上桜町
(273)

2020/09/01追加
上桜町は中央区清川3丁目から
 15年地図11−ヌ。277住ノ江欄に上桜町は(西本町・住吉幸ノ町と共に)見つからないと書いていましたが、ちゃんと探せば見つかりました。当該地域はもう何も出てこないだろうというくらい歩いたのですが、いかにも九電バッジが貼ってありそうな家がこのお宅のはす向かいにあり、ついそちらに目を奪われて見落としていました。(結局、そちらのお宅には九電バッジは貼られていない。)

このお宅は本来九電バッジが貼られている家より少し新しいモルタル造りですが、家を建て替えた時に玄関に貼られがちの家屋調査票や水道の契約証等のもろもろを、木のプレートに貼り換えて玄関脇に設置されていました。



本来は家屋調査等は再度行われるでしょうからその必要はないのでしょうが、この例は割とよくありますので、年代が合わないと思われる新しいお宅でも必ず玄関を覗かなくてはなりません。

黒金1
(276)

黒金1は中央区大宮2丁目から
 白金(256白金町)は今も福岡市の町名としてありますが、15年地図の一本木町の南には黒金町の地名が見えます。(10−ル)

初めてこの地名に気づいた時には、シロガネーゼと対になるクロガネーゼがあったことに驚きました。四十川の西側から平尾交差点の周辺が該当するのではと探してみたら、西鉄大牟田線の東側からは「黒金1」が出て来ました。

黒金町
(276)

黒金町は中央区平尾2丁目から
 平尾交差点の北東からは「黒金1」が見つかりましたが、平尾交差点の西南からは頭番は黒金1と同じ276で「黒金町」が出て来ました。黒金1丁目・2丁目があって、さらに黒金町もあったのか、黒金町が1丁目・2丁目に発展したのか、そのうち昭和30年代の地図を探しましょう。

2023/03/15追記
他の例などを見ると、黒金町が本町で、本町の他に黒金1町があったということのようです。(昭和40年代までの福岡市は、本町<本村>があり、それ以外に1・2・3町となっていました。)

二見町

二見のNTT電柱表示は南区那の川2丁目から
 15年地図には記載がありませんが、17年地図の急行電車ひらを駅(西鉄福岡大牟田線平尾駅)の東に二見町が見えます。(11−ヌあたり)

堀川町
(277)
堀川町は南区大楠2丁目から  同じく大楠2丁目
 15年地図12−ヌ。                

住ノ江
(277)


住ノ江は大楠1丁目から
 15年地図には「住江町」と記載されていますが、住江町は現在の中央区清川3丁目15〜19番あたりに記載があるように見えます。(10−ヌ)(15年地図には百年橋通りはまだありません。)

同地図の西本町・住吉幸ノ町・上桜町を含めて、高砂2丁目の交差点と簑島橋を結ぶ通りよりも南の、清川3丁目から一部は百年橋通りの南側 那の川1丁目にまたがるのではと捜しましたが、痕跡を見つけることは出来ませんでしたが、最終的に住ノ江はそれよりもかなり南の、筑肥線の南側になる大楠域から見つかりました。(その後、上桜町は273で見つけました。)

永楽町
(278)
永楽町は南区那の川1丁目から  那の川1丁目4番には永楽公園があります
 15年地図11・12−リ。          

銀水町
(278)
銀水町は南区那の川1丁目から  同じく南区那の川1丁目  
 15年地図12−リ。                      

桜町1
(283)
桜町1は中央区清川3丁目から  同じく清川3丁目
 桜町として15年地図11−ヌ。      

城内町
(285)

2020/12/01追加
城内町は中央区城内から 同じく城内
 15年地図では城内には城内練兵場(6−ヲ)があり、城内町は戦後に出来た街です(戦後すぐに住宅化されたよう)。そして今は城内一帯を公園化するため市が土地の買い取りを進めていて、新しい家は建てることが出来ないようです。

西宮
(286)
西宮は南区高宮1丁目から  同じく高宮1丁目
 15年地図13−ル。                    

下宮
(287)


下宮は南区高宮2丁目から 
 15年地図には記載がなく17年地図13−ルあたり。15年地図を見ると、堀川町と八反町の間に東宮町が(12・13ーヌ)、西宮と南宮の間に北宮が見えます(12・13−ル)。欠番の288は北宮に該当するのではないかと考えていますが、今のところ見つけられていません。

南宮1
(289)
南宮1は南区高宮3丁目 
 南宮として15年地図14−ル。                  

南宮2
(289)
南宮2は南区高宮3丁目から 南区高宮4丁目からも南宮2が
                                                    

南宮本
(289)
南宮本は高宮4丁目から 
 南宮の頭番は1・2・本とも289で共通で、東の新川沿いから西の鴻巣山の東麓に向かって1・2・本の順番。ただし「291南宮1」もあり。  

八反町
(290)
八反町は南区大楠2丁目から 南区大楠3丁目からも八反町
 15年地図に見える下磐瀬(13−ヌ)域と思われる、磐瀬公園のすぐ西からも八反町のバッジが出てきており、上磐瀬町(390道目木)と共に、九電バッジが貼られた頃には下磐瀬町は消滅していたようです。

 磐瀬公園は南区大楠3丁目18番に。

宮本1
(291)

宮本1は南区高宮3丁目から  
 15年地図には記載がなく、17年地図12・13−ルあたり。

宮本1があるということは、少なくとも2丁まではあったはずです。宮本1の西側は薬院新川を挟んですぐに南宮1が出て来ますので、高宮通りを挟んだ東側でしょうが、再開発されてマンションが建っており民家はありません。

南宮1
(291)
南区宮3丁目から  黄色バッジ34と共に 同じく高宮3丁目     2020/06/01追加
 頭番は宮本1と共通。「289南宮」とは別に「291南宮1」も見つかりました。薬院新川のすぐ南側(川を渡れば宮本1域)から見つかっていますので、番号枯渇というより九電の管理の都合かもしれません。

多賀町
(292)
多賀町は南区多賀1丁目から 野間3丁目からも 黄色バッジ35と一緒に 2020/06/01追加
 多賀町も15年地図には記載がなく、17年地図に初めて見えます。(必ずしも昭和15年時に町が成立していなかったわけではなく、地図に載せるほど発展していなかったのかもしれません。)

2020/06/01 大池通り北に張り出した野間3丁目域からも多賀町で出てきました。多賀の大部分は野間村(大字野間)域のようですが、住居表示実施時に多賀と野間の間で若干区画整理があっているのかもしれません。

宮下町
(293)

2020/03/01追加
宮下町は南区高宮4丁目から 同じく高宮4丁目  2020/06/01追加
 15年地図13−ル。15年地図の記載や宮下池(ホンナン下池)から、宮下町は必ずあるはずと思いながら見つけられずにいました。

高宮は散々歩いて、もう新しい発見はないと思っていましたが、たまたま気が向いて歩いた行き止まりの路地から宮下町を見つけました。
右に気を取られれば通りの左側は疎かになるし、玄関周りではない思わぬところに貼ってあることもあり、同じ道を何度歩いても、ここは調べつくしたと言い切ることはできません。 2020/06/01 その後、もう一枚発見。
高宮の産神は高宮八幡宮(南区高宮4丁目9)

宮田2
(294)
294宮田2は南区大楠1丁目14−12(解体済み) 同じく大楠1丁目
 先に294「宮田2」を見つけ、次に295「筑紫町」を見つけましたが、さらにその後295「宮田2」が出て来て混乱しました。294と295の宮田は書体というか文字の大きさが違っていますので、294と295では貼られた時期が違い、番号枯渇等で宮田2丁の筑紫町寄りに295を使ったのではないかと推測しますが、後述しますように「筑紫町」も15年地図でいう「筑紫本町」と「筑紫新町」域の大きな街です(12−ヌ)。

さらに、「宮田2」はたくさん出てくるのに「宮田1」は1枚も見つけられていません。その結果を踏まえてもう一度15年地図を見ると、宮田町は筑紫本町を挟んで2ブロックに分かれているように見えます。「宮田2」の九電バッヂの分布から、同地図の天代町と筑紫本町に挟まれた宮田町(12−リ)が宮田2丁で、筑紫新町南側の宮田町(12−ヌ)が宮田1丁に該当するのではと推測しています。

尚、左の「294−077」のお宅は、すでに取り壊されこの世に存在しませんので、モザイクを掛けていません。

宮田2
(295)
295宮田2も南区大楠1丁目から 同じく大楠1丁目
 −5と−6は同じ長屋の隣りどうしのお宅。              

永田町


永田町のNTT電柱表示は南区大楠1丁目から
 この電柱表示を見て思い出しまたが、そういえば日赤通りに永田町のバス停がありました。あれは現在の日赤前のバス停でしたか、大楠でしたか、それともその間にもう一つバス停があったのか、記憶が定かではありません。

15年地図では現在の日赤通り、ちょうど福岡日赤病院の前あたりに永田町の記載があります。(12−ヌ)

筑紫町
(295)
筑紫町も南区大楠1丁目から 同じく大楠1丁目
 15年地図を見ると、当該地域には「筑紫本町」と「筑紫新町」があります(12−ヌ)。 

下比恵
(297)
下比恵は博多区博多駅東1丁目から 同じく博多駅東1丁目5−14に(解体済み)。
 15年地図の赤文字で書かれた下比恵(9・10−ヘ)のあたりに(正確にはわずかに東でしょうか)現在の博多駅があります。                 
022/10/15 右の0※0は解体を確認しましたので、住所を記載します。              

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

荒戸2
(302)

荒戸2は中央区荒戸 
  BとCの間のブロックから。

現在の荒戸は那の津通りの南北にまたがり、東から1丁目・2丁目・3丁目となっていますが、15年地図当時は明治通りから男子師範(現福岡教育大学付属小中学校)の前の通りまで北へ二番町・三番町・・・と続きます。(一番町はなく西通町が見える)4・5−ヲ・ワ。

よって、現在の荒戸何丁目から出て来たのかを書いても意味はなく、南北の位置こそが重要になります。そこで、
@明治通り
A明治通りの一本北の通り
B那の津通りの一本南の通り
C那の津通り
D那の津通りの一本北の通り
E男子師範(福岡教育大付属小中学校)南側の通りとし、それぞれどこから出てきたのかを記します(丁目は記載していません)。

荒戸町四番丁
同じく中央区荒戸 表札の下になり文字は不明
  荒戸町四番丁の表札はDから。右の表札で文字が読めないバッジはDとEの間のブロックから出てきており、304は間違いないようですが、まだ見ぬ荒戸4ならばうれしいなと。

荒戸5
(304)



荒戸5は中央区荒戸
 Eから。荒戸3は九電バッジを見つけられませんでしたが、団琢磨の住居跡が中央区荒戸3丁目2番36(B)にあり、ここが荒戸3番丁とされています。

荒戸5
(305)

2023/09/15追加
荒戸5は中央区西公園から 同じく西公園
 現在の中央区荒戸から304荒戸5を見つけていましたが、県道556号の東側の中央区西公園からも荒戸5が見つかりました。15年地図5−ヲで見ると、確かにこの通りは県道556号を挟んで東西どちらも五番町のようです。

西湊町
(307)
西湊町は中央区荒戸1丁目から 黄色バッジ24と一緒に 中央区港2丁目からも  2020/03/01追加
 15年地図には西町と記載(5−ヲ)。       
港町の産神は鳥飼八幡宮(中央区今川2丁目1)。

北湊本通
(308)

2020/03/01追加
北湊本通は中央区港2丁目から  同じく港2丁目 
 15年地図には北町として4・5−ヲ。        

南湊町
(不明)
南湊町は中央区荒戸1丁目から
 シールで番号が隠されて頭番がわかりませんが、15年地図では西町の南に南町が見えます(6−ヲ)。西湊町・北湊本通と連番・もしくは近い番号を付されていたと考えてここに貼っています。

西新営業所120鳥飼6の欄に書いていますが、このシールは九電が貼ったものだと考えています。

伊崎浦
(313)
伊崎浦は中央区伊崎から
 伊崎も丁目のない小さな町です。15年地図では荒津山(西公園)の北麓は海にすべり落ちており、伊崎浦は海沿いの町です(4・5−ヲ・ワ)。
現在の伊崎は海に面していませんが、車が通れないような細い路地が張りめぐらされており、漁村だなと感じます。

筑前國續風土記拾遺には、早良郡鳥飼村の民居として伊崎浦の記載があり、「長門国赤間関の西の海辺なる伊崎浦の漁人」が移り住んだことから、伊崎浦の名がついたと書かれています。現在の下関市伊崎のことでしょうか。

下竪町
(315)

2020/03/01追加
下竪(しもだて)町は博多区下呉服町から  同じく下呉服町 
 15年地図6−ト、上竪町は福岡100。       

大名4
(318)

2020/08/01追加
大名4は中央区大手門1丁目から
 15年地図7−ルには大名小學(大名小学校跡地)や大名町の停車場が見えますが、大名4の九電バッジが見つかったのはもっと西の、15年地の憲兵分隊(7−ル・ヲ)あたりからです。

この欄に本町職人町等は見つからないと書いていましたが、ちゃんと探せば見つかりました。

荒戸1.2
(319)
荒戸1.2は中央区荒戸 
 @とAの間のブロックから。九電バッジが貼られたのがいつのことか確定させていませんが、他の町に1・2・3と「丁目」はあっても街区符号(番)までは記載がなかった時代に、荒戸と薬院には街区符号(番)と思われる「1.2」「2.2」まで記載があります。当時の丁目は現在の街区符号(番)程度の大きさだったと感じていますが、城下のすぐそばにある荒戸や薬院は、後期には丁目を数ブロックに分けるほどの住居数あったのでしょう。(荒戸は鳥飼村の民居として筑前國續風土記拾遺に記載。)

302荒戸2があり、さらに320荒戸2.2がありますので、貼られた時期が違い、あっという間に住居が建て込んでしまったのでしょう。

荒戸一番町は、県立図書館のデジタルライブラリーで公開されている一番古い明治13年改正福博詳見全図まで遡ってみましたが、見つけられなかったのですが、実際に街を歩いてみると、明治通りのすぐ北から荒戸1.2を見つけました。

荒戸2.2
(320)
荒戸2.2は中央区荒戸 
 AとBの間のブロックから、黄色バッジ24と一緒に。    

大佛通
(326)

2020/12/01追加
大佛通は東区馬出4丁目1 宗玖寺の山門に
 15年地図では稱(称)名寺と宗玖寺がある場所は丸山町と記されており、同地図では大佛通一丁目は、馬出2丁目37と同4丁目13の間の南北筋に、二丁目・三丁目は稱名寺のすぐ南の東西筋を指しているように見えますが、九電バッジが貼られた時期には、宗玖寺の前の通りも大佛通だったようです。

町名となった銅製の大仏は稱名寺にあったものですが、戦時供出されてしまい、現在は称名寺にその台座だけが残っています。福岡市の文化財(福岡市経済観光文化局)を見ると、大仏は明治45(1912)年製造、称名寺は土居町にあったものが大正9(1920)年に現在地に移転したとなっていますが、福岡市立博物館によるこの大仏の型を作った仏師高田 又四郎に関する記事では、大仏はその前の大正7年には、土居町から馬出に移転したとなっており、大仏の引越という一大行事があったのでしょう。

大正8(1919)年福岡博多市街地図を見ると、現在の博多リバレイン・博多座辺りに称名寺が、その向かいには宗玖寺が見え、現在称名寺がある馬出には何も記載がありませんが、翌大正9(1920)年の福岡博多及郊外地図では、称名寺大佛は現在台座がある場所に描かれています。

ここまで書き進めて、一つ不思議な写真(絵葉書)を見つけました。(リンク先は福岡県立図書館所蔵の写真による 福岡百景)

この絵葉書は明治43年開催の、第十三回九州沖縄連合共進会(博覧会)のもので、「大佛及ビ正門」とのキャプションがついています。第十三回九州沖縄連合共進会は、福岡城の濠の一部だった佐賀堀を埋め立てて会場としたそうで、明治42(1909)年福岡市街図を見ると、すでに埋め立てが終わった共進会会場が描かれています。場所は旧県庁(現アクロス福岡)の南側、天神中央公園から市役所・イムズのあたり一帯のようです。

他の画像をいろいろ検索してみたところ、この建物は共進会の本館のようですが、本館前に大仏を建てたという記録を見つけられません。またこの時の共進会の絵葉書はたくさん残っていますが、大仏が写ったものは数葉しかありません。

はじめは単に名所と合成したのかと思いましたが、似た構図の絵葉書に「本館大佛通り」(該当HPは音が出るとともに重い)とキャプションが付いたものもあり、現代ならばバーチャルなモールやストリートは無数にありますが、この時代に架空の通りを作る必要があったとも考えづらく、会場前に実際大仏がいたのかもしれません。そもそも称名寺大仏は明治45年建立ですから、明治43年の共進会時に合成しようもありません。

さて、ここからが本題ですが、この大仏(仮に共進会大仏と呼びます)は称名寺大仏とは別の大仏なのでしょうか? 明治43年の共進会時にこれだけの規模の大仏が建てられたのならば、その大仏は共進会後に鋳つぶされてしまい、新たに共進会大仏に似た称名寺大仏が2年後に作られたと考えるよりも、共進会大仏が移設(座)したと考えるほうが自然です。

高田 又四郎に関する記事の大仏(称名寺大仏)と共進会大仏を見比べてみましたが、構図が違うのではっきりとしたことは言えません。

仮説としては、共進会大仏が称名寺大仏であり、明治45年建立というのは土居町称名寺に建った年で、明治43年の共進会時には完成していた。そしてこの大仏は分解可能であればこそ、共進会会場(天神)から土居町称名寺へ、さらには馬出へ引越しできたと考えています。

往時の新聞をめくればわかることもありそうで、本来は先にそれをしてから掲載するべきと公開を控えていましたが、一日中図書館にこもるという環境になかなかならず、アフターコロナの課題ということで。

2023/03/15追記

 2023/02現在、福岡市総合図書館には滞在2時間の規制がありますが、いつまでも放っておけないので図書館に行ってきました。

まずは当時の新聞をめくろうとしたのですが、明治大正期のものは東京朝日新聞しかなく、市内版には東京市内の記事しかありません。そこで福岡市史の第一巻 明治期を開いたのですが、2,000ページ弱の中に共進会大仏に関する記述は、私が目にした限りは一ヶ所しかなく、共進会の会場見取り図に「磯野七平釈迦仏銅像」の記載がありました。

稱名寺大仏は福岡市立博物館による記事では、高田又四郎が作ったとされており、共進会会場にあったとされる釈迦仏銅像の磯野七平とは名が違いますので、これは別物なのか?と思いながら、滞在規制時間の2時間いっぱいかけて手あたり次第資料を探ったところ、福岡市が発行する「ふくおか歴史散歩」(S.52.3,31)に「座高6メートルの博多大仏」という稿があり、正解が書かれていました。

結論として、共進会大仏は稱名寺大仏です。以下は「ふくおか歴史散歩」からの引用です。

神戸の能福寺に頭部だけの青銅製大仏があり、それを福岡の門徒衆がもらい受け福岡に運び込み、上土居町の鋳物師 磯野七平(第2代福岡市長)宅に仮置きし、首から下を造って繋ぎ合わせようと資金集めに奔走したが、思うように資金が集まらなかったようです。

それを見かねた稱名寺の智眼和尚が一切を引き受け、65,000円余の浄財と青銅製の鏡数万枚の寄進を受け、大仏師 高田又四郎に依頼し作製に取り掛かり、最終的に能福寺から譲り受けた頭部も併せて鋳つぶし、すべて新しい大仏を造ったようです。

大仏は明治42年には完成しており、明治43年の共進会時に会場にこの大仏を据え、『一般の観覧に供して人々をあっといわせた』となっています。同記事の「観覧に供して」等の書きぶりを見ると、この時はまだ開眼していなかったのかもしれません。

共進会終了後、明治45年6月に稱名寺(土居町時代)に据えられた時には、智眼和尚はすでに遷化されていたそうです。

共進会大仏が磯野七平仏像とされているのは、元福岡市長でもある磯野氏が、この大仏のプロジェクトに関わり続けていたのでしょうか。また、能福寺では明治24年に大仏が造られており(こちらも戦時供出)、この大仏は3丈8尺(約11.5m)とのことですから、稱名寺大仏の倍くらいの大きさがあります。能福寺からもらい受けた頭部だけの大仏が、どのくらいのサイズ(磯野宅に保管された時の、粗い白黒写真はあったのですが、サイズ感は掴めませんでした)で、どういう意図(見本やスペア等)で造られたものなのかはわかりません。

稱名寺大仏が分解可能だったのかとか、大仏の引っ越しがどのようなものだったのかは、調べきれませんでした。

これを調べて一番興味深かったのは、明治30年代の各家庭には銅鏡があったようで、それが数万枚も集まったということは、ちょうど銅鏡からガラス鏡に替わっていく時期だったのでしょう。

福岡本
(329)

2021/05/15追加
福岡本は中央区舞鶴3丁目から
 15年地図6−ル。福岡城下 廓の内にある福岡商家廿二町の本町ですから、まさに一丁目一番地です。

筑前國續風土記の土産考には、「福岡本町の鉄(よき)屋が作る饅頭がよい」「本町(や上名島町・中島などにも)に寒具(ひぐわし・干菓子)の良工がいる」となっており、どうやら街に甘い匂いが漂っています。西町を福岡西(西新019020)と表記してあるように、福岡営業所内の他の町との混同を避けるために、本町ではなく福岡本と表記したのかと思いましたが、續風土記の時代(土産物考 饅頭の欄)にすでに「福岡本町」と書かれています。

福岡城下絵図 梁橋ヨリ中島橋に至ル(安永6<177>年)を見ると、武家屋敷は城前一列だけです。現在でいうと赤坂1丁目13・16や大手門1丁目1・4・5等の東西列が武家屋敷で、その北側の本町・呉服町・名島町筋(現在の昭和通り)には、通りの両側とも町屋(民家・商家)が並んでいたようです。

拾遺に話を戻しますと、本町の小名(小字)として「新道中の横道なり 東横丁(ママ)は黒茶町 西横町(ママ)を八百屋町という」と記されています。新道は中の横道ですので、昭和通り 法務局前交差点と那の津通り 舞鶴3丁目交差点を結ぶ南北筋が該当しそうです。

本町と大工町の間の南北筋(本町の西横町)は魚町(15年地図6−ル/うおのまち・現在の平和台通)のはずで、江戸時代の城下絵図(福岡城下絵図 梁橋ヨリ中島橋に至ル)にもそう記されています。八百屋町=魚町なのか、魚町に続いてその南は八百屋町だったのか?

黒茶町は203西職人で触れています。
産神は警固宮(警固神社/中央区天神2丁目20)

福工新
(330)

2020/03/01追加
福工新は中央区港2丁目から 中央区大手門3丁目からも 2020/07/01追加
 現地では福と新は読めたのですが、真ん中が「工」・「江」なのか、または「王」や「玉」なのか判別できませんでした。画像で確認し、また15年地で検討してみると、該当の場所に工業學校が見えます(5・6−ヲ)。

よって、福岡工業高校にちなむ地名があったのだろうと推測しましたが、福工は福岡大空襲で焼かれ、当地で再開されることなく、現在福工がある早良区新江に移転しています。(15年地図時点ですでに、7−タに福工新用地と記載されている。)

15年地図17年地図には福工・福工新という地名は見えず、移転した後の戦後になって、福工にまつわる地名を新たに付けたのかは疑問です。

2020/07/01 新たに中央区大手門3丁目からも福工新で見つけました。現在の那の津通りを挟んで、北側の港2丁目からも南側の大手門3丁目からも福工新で見つかりましたので、15年地図5・6−ヲに見える工業學校の北の、後に那の津通りとなった筋が福工新という地名だったのでしょう。(この時代は道に囲まれたブロックではなく、通りに町名や丁目が付いていた。)

同地図で見ると該当の場所には、後に那の津通りとなった筋の北に舞鶴町、同筋の南に長倉町が見えますが、どちらも南北の筋のようです。簀子校(簀子小学校跡地)や円應寺は場所が変わっていませんが、この辺りではさすがに木板張りの古い建物を目にすることはほとんどなく、福岡港沿いの東西の筋である入船町、舞鶴町の一本東の筋になる福崎町等いずれの痕跡も見つけられていません。

桜ヶ峰
(331)
桜ヶ峰は中央区桜坂2丁目から 黄色バッジ30と共に 同じく桜坂2丁目から 
 15年地図7−ヲ・ワ。桜坂2丁目11番に櫻ヶ峰神社があります。普通に考えれば「さくらがみね」なのでしょうが、地元の方と話したときに別の読みをされていたような気もするのですが、他の話題の中で出て来たものですからその時は聞き流してしまいました。確認します。

駿ヶ谷1
(332)
駿ヶ谷1も中央区桜坂2丁目から
NTTの電柱は駿河谷と記載 
 15年地図には「駿河谷」との記載。(8−ワ)    

天狗松

 
 17年地図には、古小烏の停車場の二つ先に天狗松の停車場があります(15年地図には記載がない)。天狗松自体は地図には掲載がなく、その詳しい場所はわかりませんが、Wikipediaの中央区桜坂のページに拠ると、現在の桜坂3丁目になるようです。

天狗松のNTT電柱表示は、中央区薬院伊福町と古小烏の間から見つけていますので、天狗松域からは少し離れています。

茶園谷
(334)
茶園谷は中央区六本松3丁目から  同じく六本松3丁目
 15年地図7・8−ワ。筑前國續風土記拾遺の早良郡鳥飼村の欄には民居として「大鋸谷茶圓谷」の記載があります。また同じく拾遺には長榮寺(長栄寺中央区六本松3丁目10−60)が「茶圓谷にあり。はじめは風切谷にあり。寛永の初め今のところに移せり。」と記されています。寛永は1624〜1625年。

浪人谷
(335)
浪人谷は中央区谷2丁目から  同じく谷2丁目
 15年地図8−ワ。浪人谷とは別に唐人町には浪人町もありますが(西新営業所桝木屋町参照)、浪々の身とはいえいったん事が起これば(と言っても島原の乱の次はもう長州征伐でしょうか)一括して召し抱えられることもあるでしょうし、御家(藩)が求める人材ならばいつでも声が掛かったでしょうから、お城下近くに集団で居を構えていたのかもしれません。ということを想像させてくれる歴史を感じる地名です。

馬屋谷
(336)
馬屋谷は中央区谷1丁目から 同じく谷1丁目
 15年地図8−ワ。331桜ヶ峰から336馬屋谷に掛けて(353浦谷・同十軒谷も)は思ったとおり(15年地図どおり)の地名で出て来るのでうれしくなります。

柳原3
(340)
柳原3は中央区赤坂2丁目から  同じく赤坂2丁目
 柳原として15年地図7−ヲ。              

下赤坂
(340)
下赤坂は中央区赤坂3丁目から 
 15年地図には赤坂として記載(7−ヲ)。                                                   

護国町
(341)
護国町も中央区赤坂3丁目から 同じく赤坂3丁目
 護国町は15年地図には記載がなく、17年地図に記載されています(7−ヲあたり)。護国神社にちなむ地名なのでしょうが、362輝国町と同じく戦争の時代の地名なのでしょう。

大濠新
(342)

342大濠新は中央区六本松1丁目から 
 15年地図掲載なし。342大濠新が福岡営業所の西端になり、西新110浜田(中央区草香江1丁目)と境を接しています。15年地図で見ると城外練兵場跡の敷地が大きく、その南に市営団地があったとなっています。確かにそのような、区画された路地の街です。

大濠新
(344)
344大濠新も中央区六本松1丁目から 同じく六本松1丁目
                                               

大坪町
(346)


大坪町は中央区薬院2丁目から
15年地図には薬院本町大坪と記載があります(8−ル・ヲ)。

現在の薬院2丁目と薬院4丁目の浄水通りよりも北が薬院本町に該当するようですが、15年地図には「薬院本町○○」と書かれています。九電バッジが貼られた戦後には「薬院本町」は省略され、「○○」の部分だけで呼ばれたようです。

相割町
(346)
相割町も中央区薬院2丁目から 大坪町の1ブロック西
 15年地図では薬院本町相割となっており、現在の城南線を挟んだ南北に広がっています(8・9−ヲ)。             

古浜町

古浜のNTT電柱表示は中央区薬院2丁目から
 17年地図には薬院本町相割通の西に薬院本町浜田通があり、そのさらに西が薬院本町古浜町になるようです(15年地図には記載がない)。中央区薬院2丁目7番・同4丁目21番・15番あたりが該当するのでしょうか。

古浜町の存在は、NTTの電柱表示でしか確認できませんでした(古浜町域と思われる地域から)。

中溝町
(347)


中溝町は中央区警固1丁目から  黄色バッジ29と一緒に。
 現代の私は、上人橋通りと大正通りの間は警固1丁目と疑いませんが、15年地図には同地北に薬院原町、その南に東から薬院本町中溝通・薬院本町塩入通と薬院の地名が見えます(8−ル)。

大正8(1919)年の福岡博多市街地図を見ると、警固小学校の西を八反川が流れていますが、翌大正9年の福岡博多及び郊外地図ではすでに道路(後の大正通り)になっています。(大正9年時点では、後に国体道路となる東西の川はまだあり、こちらは昭和12<1937>年福岡市街案内まで、徐々に都市化しながら残っている。)

江戸時代の城下図「福岡御城下絵図「梁橋ヨリ中島橋ニ至ル」(安永6年)を見ると、八反川の東側はすでに町割りされています。同絵図の香正寺(中央区警固1丁目5番)と長圓寺(中央区今泉2丁目4番)の位置は変わっていないようように見えますので、その間の南北の筋が現在の上人橋通りとなり、その北で八反川に架かる橋が上人橋です。(「最新実測福岡市街全図」 明治41 <1908>年で上人橋の名が確認できる。)

筑前國續風土記拾遺によると「出口(岩戸口ともいう)」は薬院村の枝郷ですが、明治23年(1890)年福岡市明細図で見ると、現在は今泉2丁目となる長圓寺の北に岩戸口の字が見え、ここまでが旧薬院村域だったようです。

同地図では原町筋は東西筋ですので、警固1丁目6番と15番の間の通りが、字中溝は香正寺の南側にありますので、中溝通は警固1丁目3番と4番の間の南北筋が、塩入通は警固小学校東(警固1丁目6番と10番の間)の南北筋が該当するのでしょう。さらには長圓寺の北は大字薬院の字岩戸口(今泉2丁目4番)、同寺の南は同じく大字薬院の字尾田(今泉2丁目2番・3番)となるようです。

警固1丁目が薬院ではなく警固の町名をもらったのは、明治22(1889年)の合併で薬院村が新制警固村となり、薬院小学校が警固尋常小学校と改称され、同地にあったことが大きいのでしょう。(警固小学校が同地で地図に載るのは、明治42<1909>年の福岡市街図里程附からで、同地図には警固小学校の隣りに新制警固村の村役場があったと描かれています。)

ちなみに、筑前國續風土記の福岡商家廿二町薬院町や同拾遺の那珂郡薬院村を読むと、薬院村は福岡城築城による町割りのために移転し、その後が薬院町になったと書かれていますが、この薬院堀端・薬院町は15年地図7−ヌ・ルに記載されています。

薬院原ノ町
(東邦電力)





東邦電力電燈番號のページに掲載





 
                                                               

塩入町
塩入のNTT電柱表示は警固一丁目から
 15年地図の薬院原町の南、薬院本町中溝通(347中溝町)の西隣には薬院本町塩入通(塩入町)の表記が見えます。中溝町と同じく、今の警固1丁目から大正大通りを挟んで薬院2丁目が該当しそうです。当該地区からはNTTの電柱表示しか見つけられていません。

薬院3.1
(348)
薬院3.1は中央区警固3丁目から 同じく警固3丁目     2020/06/01追加
 15年地図には記載がありませんが、同地図でいう小烏神社(8−ヲ)の西側、浦谷と小烏通の間あたりになりますでしょうか。353薬院3.3とは同じ街区符号(番)内です。

薬院3.2
(348)
薬院3.2は中央区桜坂3丁目から
                                                                            

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

警固新
(351)

2021/12/15追加
警固新は中央区警固2丁目から
 15年地図7・8−ヲには警固本町一丁目・同二丁目と西警固の記載があります。17年地図では東警固町も見えますが、警固新町の地名はいずれの地図にも見えません。同地図で見ると、西警固町はけやき通り上からその北に掛けてなりそうですので現在の中央区赤坂1・2丁目・東警固町は国体道路になる道よりも北側ですので、現在の中央区大名1丁目になるのでしょうか。

警固本
(352)
警固本は中央区警固2丁目から  同じく警固2丁目
 15年地図7・8−ヲ。同町内からは東邦電力電燈番號章も見つかる。    
産神は警固神社(中央区天神2丁目2)

警固町
(352)

2021/12/15追加
警固町は中央区警固2丁目から
 352警固本と352警固町は貼られた時期による違いで、同じ場所を指すのではないかと考えています。   

浦谷
(353)

浦谷は中央区桜坂1丁目から 同じく桜坂1丁目    2020/03/01追加
 15年地図の浦谷の「浦」のすぐ左に卍マークが見えます(8−ヲ)が、該当するのは味噌喰地蔵尊のようです。   

十軒谷
(353)


十軒谷は中央区桜坂1丁目から
 15年地図には「十軒」として記載(8−ヲ)。九電バッジの下に見える割れたものは、たぶん東邦電力電燈番號証でしょう。

薬院3.3
(353)
薬院3.3は中央区警固3丁目から  同じく警固3丁目  2024/02/.15追加
 343薬院3.1と同じ街区符号(番)内。      

伊福町
(355)

伊福町は薬院伊福町から
 17年地図の伊福町(15年地図には記載がない)は、現在の城南線の北側にあるように見えます。                               
薬院伊福町は丁目のない一つの街区符号(番)に収まりそうな1ブロックだけの小さな町で、城南線の南側にあります。

古小烏
小烏神社は中央区警固3丁目に 小烏公園は薬院伊福町に
 現在の古小烏町は薬院伊福町の西に並ぶ2ブロックだけの小さな町ですが、小烏神社は城南線を挟んだ北側の警固3丁目にあります。伊福町と共に城南線で南北に分断され、いつしか北側を削られているのかもしれません。現在の古小烏町には民家はほとんど残っておらず、九電バッジは見つけることができません。15年地図には停留所として古小烏が載っています。(8−ヲ)
小烏神社は薬院の産神

御所ヶ谷
(355)
御所ヶ谷は中央区御所ヶ谷から 同じく御所ヶ谷  
 頭番は伊福町と同じ355、15年地図9−ヲ・ワ。

御所ヶ谷も丁目がない小さな町です。取材時に住民の方にお話しを聞くことができ、住居表示実施時に「町名変更について何度も市役所と話し合った末に御所ヶ谷の名を残せた」旨をお聞きしました。また「このあたりの総称として七谷と呼ばれていた」ともお聞きしました。

「このあたり」が合併後の警固村域(桜坂よりも東)を指すのか、城南線の南側を指すのか、残念ながらお聞きすることは出来ませんでしたが、大休山(南公園)北麓にあたるこのあたりは、確かに谷のつく地名が多いところです。

薬院2.1
(356)


薬院2.1も中央区警固3丁目から
 荒戸と同じように薬院もまた丁目(番丁)と共に街区符号(番)の記載があります。ただし、この当時の丁目(番丁)は今の街区符号(番)程度の大きさしかなかったと感じており、荒戸や薬院も丁目(番丁)が広がったわけではなく、住居が建て込んできたので、その中を数ブロックに分けたのでしょう。

また、356薬院2.1や353薬院3.3が警固3丁目から、348薬院3.2は桜坂3丁目から出てきており、私の考える今の薬院よりもかなり西に薬院が広がっていたことがわかります。

東薬院
(東邦電力)





東邦電力電燈番號のページに掲載





 
                          

警固本通3
(360)

202/05/15追加
警固本通3は中央区桜坂1丁目から
 城南線 桜坂駅前交差点とけやき通り 赤坂2丁目交差点を結ぶはなみずき通りが開通したのは、平成もかなり経ってからだったと記憶していますが、今昔マップ福岡南部平成10年部修正 平成11.4.1発行(1991〜2000年)を見ましても、はなみずき通りはまだありません(桜坂駅前交差点と動物園西門前交差点を結ぶ桜坂山手通りは、同地図の昭和44年改測 昭和47.2.28発行<1967〜1972年>にはすでにある)。

15年地図7・8-ヲ・ワに描かれた筑紫高女(筑紫女学園)前の道は、城南線 桜坂駅前交差点の一本西、桜坂(西)交差点と筑女を結ぶ通り(桜坂1丁目14−12先の押しボタン信号より北は、はなみずき通りに吸収)です。15年地図ではこの通り(警固本通)の一本西の通りに真光寺(桜坂2丁目5−64)が描かれており、この位置関係は現在も変わっていません。

警固本通は15年地図には掲載がありませんが、この桜坂(西)交差点と筑女を結ぶ旧道沿いから出て来ました。この道の福岡桜坂郵便局(桜坂1丁目4−11)に近いところからは332駿ヶ谷1が出てきていますので、15年地図警固本町二丁目(7−ヲ)の西から旧道の途中までが、警固本通で東から1〜3丁目だったのでしょう。

練塀町
(361)

2020/03/01追加

練塀町は中央区桜坂3丁目から 
 15年地図には練塀町停車場が8−ワに。

筑前國續風土記拾遺によると、練塀町は那珂郡下警固村の枝郷 大鋸谷村の字になりますので城下ではありませんが、練塀が廻らされていたということは、この辺りまで武家屋敷が広がっていたのでしょう。(家老 加藤司書屋敷跡は桜坂2丁目に。)

輝国町
(362)
輝国町は中央区輝国2丁目から 中央区輝国1丁目からも
 輝国が福岡営業所管轄・梅光園は西新営業所管轄ですので、ここが境となるようです。

輝国は15年地図には記載がありません。同地図には靖國町の記載(8−カ)がありますが、これは陸軍墓地(現在は谷公園)の正面にありますので、現在の中央区六本松4丁目に該当しそうです。(靖國町の痕跡は見つけられていません。)

17年地図では靖國町と浪人谷の間の、それ以前は赤坂山と呼ばれていた地域に輝國町の名が見えますが、逆に戦時の影響でしょう陸軍墓地が地図から消えています。城内の歩兵第十四連隊や小笹の射撃場は検閲に通らないにしても、墓地くらいはよさそうですが、これが忖度というものかもしれません。

陸軍墓地の周りに新たに靖国町(昭和14年最新福岡市地図小形に初見)と輝国町(341護国町も)ですから、戦争の時代の地名なのでしょう。

 現在の谷公園は戦役ごとの慰霊碑になっています。

淨水町
(363)
淨水町は中央区平尾浄水町から 同じく平尾浄水町から  2020/06/01追加
 現在は浄水通りと平尾浄水町が近接していて紛らわしいですが、15年地図には浄水通りは浄水池通として記載があります(9−ヲ)。平尾浄水町は記載がなく、平尾水町の記載があります(10−ヲ)。平尾水町は、県立高女(福岡中央高校)の一つ西のブロック、現在の平尾小学校あたりを指していますので、浄水通りとも平尾浄水町とも違うようです。

ちなみに平尾浄水場の給水開始が大正12年3月・閉鎖止水が昭和51年のようです。平尾浄水場と曲淵ダムを結んだ福岡水道については西新146片江に記載。

不明
(366)

366は中央区平尾3丁目から
 表札が上に被っており町名がわかりませんが、福岡中央高校(15年地図の県立高女<10−ヲ>)の東側のお宅から出てきており、「平尾新川」ではないかと期待しています。

「366−」の「6−」の下は「尾」の「尸」部に見えなくもないですが、367の「平尾本」は「尾」が「−」の下に来ていますので、少し左にずれている366は4文字だと推測しています。

平尾本
(367)
平尾本も中央区平尾3丁目から  平尾3丁目から  2021/08/15差し替え
 15年地図10・11−ヲ。平尾3丁目からは黄色バッジ33も。                                                     
番号部がシールで隠れているものを貼っていましたが、番号が見えるものを新たに見つけましたので、右の画像は差し替えました。
産神は平尾八幡宮(南区平尾4丁目10)

山莊通1
(368)

山莊通1は中央区平尾4丁目から
 17年地図10・11−ヲあたり(15年地図記載なし)。         

山莊通2
(368)
山莊通2は中央区平尾4丁目、山荘通1の西側から 中央区平尾5丁目からも   2020/06/01追加
 17年地図10・11−ヲ・ワあたり(15年地図記載なし)。

1*3は筑肥線線路(筑肥新道)の北側沿いから出てきました。17年地図で見ると山荘通1〜3丁は平尾山荘の周りに見えますが、実際は筑肥線のぎりぎりまでだったようです。373−*4中平和は同線路(筑肥新道)の南沿いにあり、この2つのバッジは筑肥線を挟んで向かい合っています。

山莊通3
(369)
山莊通3も中央区平尾5丁目から
 17年地図10−ワあたり(15年地図記載なし)。

現在の中央区山荘通には1丁目・2丁目がなく3丁目しかない上に、街区符号(番)もなく1ブロック(と道を挟んでマンション2棟)だけの小さな町です。「山荘通1」を平尾4丁目から見つけた時点で、「山荘通3」は山荘通3丁目から出てくるものと考えていましたが、平尾5丁目から出て来ました。

現在の山荘通3丁目は比較的新しい豪邸ばかりで、九電バッジは見つけられていません。平尾5丁目と平丘町は連続していませんが同じ頭番369ですので、その間の山荘通3丁目も369「山荘通3」だったのではと推測しています。

平丘町
(369)



平丘町は中央区平丘町から
 平丘町は15年地図は記載がなく、17年地図には記載があります(10−ヲあたり)。頭番は山荘通3と同じ369。平丘町も丁目のない小さな町です。  

西平和
(371)
西平和は中央区平和3丁目から
 平和町として17年地図11・12−ヲあたり。

現在は平和1・2・4丁目が南区で、平和3・5丁目は中央区になります。ただ、南区平和4丁目は街区符号が1番しかない街で、ほぼ全域が平尾霊園と鴻巣山の山頂部の平和南緑地になり、民家・マンションは3〜4棟しかありません。

平和と市崎(同じ大字平尾)の頭番が混とんとしているのは、町の発達の様子を表しているのでしょう。

北市崎
(372)
北市崎は南区市崎1丁目から 同じく市崎1丁目   2022/05/01追加
 市崎町として17年地図12−ルあたり。市崎1丁目からは東邦電力の電燈番號章「平尾市崎町」も。       

中平和
(373)
中平和は南区平和2丁目から 同じく平和2丁目   2020/06/01追加
  

南平和
(373)
南平和も南区平和2丁目(中平和の南側)から 平和1丁目からも   2023/02/15追加
 頭番は中平和と共通。 

南市崎
(374)
南市崎は南区市崎2丁目から 同じく南区市崎2丁目
                                                                             

東平和
(374)
東平和は南区平和1丁目から
   

若久
(376)
376若久は南区若久4丁目から 2020/06/01画像差し替え 南区若久1丁目からも 2020/07/01画像差し替え
 八幡村が福岡市に編入されたのが1926(大正15)年のことですが、15年地図を始めとするその前後の福岡市地図では、八幡村のうち若久はギリギリ境町まで記載がありますが、それより南の若久と屋形原は漏れてしまっています(4−ル)。

 境町の名を残す境橋は、若久通りの南区若久1丁目1番先に。

本村(町)部はその村の中心に近いところにある場合が多いので、大字全体やその大部分が一つの町になった例えば野多目・老司や柏原・桧原などでは、後の住居表示時には本村(町)部は1丁目にならず、5丁目まであるならば3丁目あたりに落ち着くことが多いのですが、若久は元年実測図で見てもわかるように、本村(町)が若久住吉宮の北側、野間との境に広がっており現在の若久1丁目に該当します。若久4丁目は筑前國續風土記拾遺にいう新屋と考えています(元年実測図に記載がある)。

若久4丁目から見つけたピンボケの写真を2枚並べていましたが、近接撮影できるものを見つけましたので、2020/06/01一枚は差し替えました。さらに、この欄に若久1丁目から見つかれば375ではないかと書いていましたが、1丁目からも376で見つかりました。よってその記述は削除しました。また若久4丁目から見つかった2枚を貼っていましたが、2020/07/01一枚を若久1丁目から見つかったものに差し替えます。結局最初に貼った2枚はいずれも差し替えてしまいました。
産神は若久住吉神社(南区若久1丁目20/住吉神社の神領があったため住吉神社より勧進) 

若久
(377)
377若久は南区若久3丁目から 南区若久2丁目からも  2020/11/01追加
 若久は若久川の谷を挟む東(若久2・3・6丁目)と西(若久1・4・5丁目)ですが、377若久は東若久から出てきました。   

寺塚
(379)

寺塚は南区寺塚1丁目25−11に(解体済み)
 筑前國續風土記拾遺には寺塚は高宮村の枝郷となっています。「寺塚は村の西南にあり」「石窟観音 本村の坤十町許山中寺塚にあり」。一方元年実測図では、穴観音周りの今の寺塚と矛盾しない位置に、野間寺塚として載っています。(明治の小字略図にも野間村の小字として記載されている。)

しかしそれ以降の地図、例えば15年地図では、中村町6丁目あたりに寺塚が見えます(14−ル・ヲ)。現在の野間4丁目が該当するのでしょう。さらに17年地図に至っては、現在の野間3・4丁目あたりに寺塚町があり、寺塚は赤塚と表記されています(14−ル・ヲあたり)。これが私には理解できていません。

2020/11/01
最近通りかかったら、解体され新しい建物の建設が始まっていました。私の知る限り寺塚は絶滅しました。(また見つかればいいのですが。)

皿山
(379)
379皿山は南区柳河内1丁目から 南区皿山1丁目からも    2020/07/01追加
 15年地図域外、元年実測図記載あり。柳河内・皿山は大字野間(野間村)域です。野間村の範囲は広く、玉川町から野間・大池・寺塚・柳河内・皿山までの細長い形ですが、明治期の小字略図を見ると久屋池(南区花畑4丁目2番)の南側までも野間域だったようです。

2020/07/01 379皿山は南区柳河内1丁目から、380皿山は柳河内2丁目からそれぞれ複数枚を見つけていましたが、肝心の南区皿山からは皿山のバッジを見つけられていませんでした。今回皿山1丁目から379皿山を複数枚見つけましたので、379皿山には柳河内1丁目から見つけた2枚を貼っていましたが、1枚を皿山1丁目から見つけたものと差し替えます。

皿山
(380)
380皿山は南区柳河内2丁目から  同じく柳河内2丁目
                 

若久
(380)

380若久は若久5丁目から
 380若久(若久5丁目)は筑前國續風土記拾遺にいう御畠(御畠山)から出てきています。 

屋形原
(382)
382屋形原は南区花畑3丁目から(解体済み) 南区中尾3丁目からも382屋形原で
 現在のところ、383が大字屋形原の本町(村)部に、382が大字屋形原の枝郷部に振られたと考えています。花畑1丁目からも382屋形原で見つかっています。中尾は江戸時代から、本村(屋形原老松神社)から分祀した独自の産土(中尾老松神社)を持っていたほどの枝郷ですから、「中尾」で出て来ないかと期待していましたが「屋形原」でした。

2020/06/01 左の花畑3丁目のバッジは屋形原交差点の近く、県道602号(後野福岡線)沿線のお宅に貼ってありましたが、2020年5月中旬に仕事で現地を通りかかったところ、どうやら解体の準備に入っているようでした。慌てて駐車場を探して車を止め、解体業者の責任者の方に話をして譲っていただき、このバッジは現在私の手元にあります。



一週間前に確認したお宅が、次に通りかかったらきれいさっぱり解体されて更地に戻っていたなんてことはざらにあり、今回たまたま解体前に見つけることができ、また快く譲っていただけたことに感謝です。(すでに存在しない家ですのでモザイクは掛けていません。)

屋形原
(383)
383屋形原は南区屋形原4丁目から 南区屋形原1丁目からも  2020/11/01追加
 屋形原4丁目が屋形原の本町(本村)部になります。

2020/11/01
新たに屋形原1丁目からも383屋形原で見つけました。元年実測図で見ると古野新池(屋形原4丁目38)の西には若干の建物が見えますが、久池(吉野池/屋形原1丁目41にあるが、若久村の利水池)の周りには畑しかありません。若久池の北に「文」マークが見えますが、これは明治27年に開設された第2八幡尋常小学校で、屋形原・皿山及び若久の南側半分が学区となったそうです。
屋形原の産神は老松神社(南区屋形原4丁目22) 中尾の産神は老松神社(中尾2丁目18/屋形原老松神社より勧進) 

卯内尺
(383)

2020/06/01追加
卯内尺は南区鶴田4丁目から
 元年実測図には屋形原本町の東、野多目との境ぎりぎりに卯内尺の地名が見えます。同地図の鶴田は鳥居マーク(鶴田老松神社)の周りに見えますから、現在の鶴田3丁目が該当するようです。卯内尺は屋形原3丁目から鶴田4丁目に掛けてではないかと何度か歩きましたが、なかなか見つけられずにあきらめかけたのですが、最終的に鶴田4丁目(大字屋形原域)から見つけることが出来ました。

一方で、明治の(新制)三宅村の小字図を見ると、大字老司の老司大池の北に内尺の字があります。また、野多目6丁目の老司団地バス停(転回場)あたりにも、大字野多目の字として内尺が見えます。

   
                  
現在は老司5丁目40番に卯内尺公園が、老司3丁目33番(中村病院)に卯内尺古墳が、同じく老司3丁目19番には卯内公園もあります。初めは卯内尺を屋形原本村の卯(東)の意味かとも考えましたが、老司からは酉・野多目からは未もしくは申になりそうです。元々かなり大きな範囲で卯内尺と呼ばれる一塊りの土地があり、それが開墾の結果や話し合いで屋形原・野多目・老司の3つの村域に分かれたのでしょう。

鴻幕u
(384)

2020/04/01追加
鴻幕uは南区中尾1丁目から 中尾2丁目からも 2023/06/15追加
 中尾2丁目から385桜ケ丘が見つかった時点で、中尾1丁目に緑ヶ丘があるのではないかと思い何度か歩きましたが、緑ヶ丘団地にとらわれてしまい、丘陵の下半分を中心に探した結果見つけられずにいました。

中尾1・2丁目は丘陵の西斜面に面しており、東斜面は野多目3・5丁目になりますが、今回緑ヶ丘のバッジを見つけたのは、野多目との境になるより稜線に近い場所からでした。

この地域は15年地図には載っていませんので、元年実測図で見るしかありませんが、同地図ではまだ住宅は建てこんでおらず、そもそも中尾3区の交差点と福翔高校入口を結ぶバス通りもありませんが、野多目6丁目側からも418野多目のバッジを見つけており、昭和30年代には充分に都市化していたようです。

2023/06/15
中尾1丁目と、中尾3区の交差点と福翔高校入口を結ぶバス通りを挟んだ、中尾2丁目の北側(バス通り側)からも鴻幕uで出て来ました。

松ヶ枝町
(384)

2022/06/15追加
松ヶ枝町は南区中尾1丁目から 同じく中尾1丁目から
 松ヶ枝口バス停(下り)は南区中尾1丁目37先に、松ヶ枝公園が中尾1丁目50にありますので、中尾1丁目から香i緑)ヶ丘を見つけた時点で、その東(より若久・野多目との境部)に松ヶ枝があるのではないかと探しましたが、



見つかったものがペンキ上塗りされており、たぶん松ヶ枝町であろうと思いましたが、間違いなく松ヶ枝町だと言い切る自信はありませんでした。

その後、もう一度探しに行ったところ、案外簡単に複数個の完品を見つけることが出来ました。

上記の松ヶ枝公園(半域は中尾1丁目50だが、半域は南区和田2丁目15)の南では、屋形原(中尾)・野多目・和田とが3村(町丁)境になっており、さらには松ヶ枝公園の東側では屋形原(中尾)と和田・若久が3村(町丁)境になっています。(若久と野多目は境を接していませんが、その間は民家5〜6軒分しか離れていません。)

九電バッジの銘が松ヶ枝「町」で出てきたところから、桜ヶ丘や香i緑)ヶ丘と同時期に開発された、戸建て団地としての地名でしょう。今昔マップ 福岡南部では、昭和44年改測 昭和47.2.28発行(1967〜1972)でのみ松ヶ枝町の名が確認できます。

ちなみに明治の小字略図では、この村(町丁)境の各小字は、屋形原(中尾)はネズミ、和田はフノカケ(フノカケ池は野多目側の野多目3丁目5に/現在は洪水調整池)、野多目はウラノ山、そして若久は新開(新開池は若久6丁目32/こちらも現在は洪水調整池)となっています。

桜ヶ丘
(385)
桜ヶ丘は南区中尾2丁目から 同じく南区屋形原2丁目からも   2020/06/01追加
 昭和初期に一山を切り開き、ニュータウンを開発して桜ヶ丘と名付けたようで、屋形原2丁目に桜ヶ丘公園があります。



屋形原2丁目から中尾2丁目に掛けてのかなり大きな街ということになりますが、その地名の痕跡はほとんど残っていません。

ちなみに、桜ヶ丘は総称で、多くのデベロッパーがそれぞれに開発したのか、もしくは街が大きなりすぎて収拾がつかなくなって細分化したのかはわかりませんが、中尾2丁目の0※5が見つかったあたりは宮ヶ丘、屋形原2丁目の1※6が見つかったあたりは静ヶ丘という地名も持っていたようです。(宮ヶ丘は表札に残っており、少なくともそれで郵便は着いたようです。)

中尾2丁目で見つけた2枚を貼っていましたが、その後屋形原2丁目でも桜ヶ丘を見つけましたので、2020/06/01一枚は屋形原2丁目のものに差し替えました。

野間新
(386)

野間新町は南区野間4丁目から
 17年地図では14−ルあたりに野間新町が見えますが、どうもこれは現在の大池を指しているように思えます。その現在の大池通りを挟んだ南の中村町?5〜6丁目がこの野間新町の九電バッジが見つかった地域に該当しそうです。

野間新
(386)
2020/07/01追加
 386野間新は南区柳河内2丁目3−14に(解体済み)
 386野間新は南区野間4丁目から、387野間新は南区大池1丁目から見つかっていますので、386と387で「町」のあるなしを使い分けていたのかと思いましたが、新たに386の野間新を見つけました。よって単純に、西新123の塩屋と塩屋町と同じように、貼られた時代で町のあるなしが違うのかもしれません。

しかも386野間新は南区柳河内2丁目から出てきており、同じ街区符号(番)の2軒先のお宅には380柳河内が貼られています。
217若宮町221今泉町のように先隣りの家が違う町名になっていることはありますが、それは路地の中などでどちらの大通りに属するかの話で、ここのように明らかに同じ町内といえる状況で、どうして野間新と柳河内に分かれたのかは不明ですが、南区野間4丁目も同大池1丁目も、さらには柳河内2丁目も大字野間(野間村)域なのは間違いありません。

2022/10/15
解体を確認しましたので、住所を記します。

野間新
(387)

2020/06/01追加

野間新は南区大池1丁目から
 大池からは黄色バッジが見つかっていましたので、青バッジもあるはずだと数度歩きましたが見つけられていませんでした。17年地図の記載通りならば386と同じ野間新町、現在につながる地名ならば野間大池のどちらかであろうと考えていましたが、どちらとも違う野間新で出てきました。386は野間新町・387は野間新と使い分けられた理由は、現在のところ1枚ずつしか見つけていませんので、何らかを判断する状況ではありません。(その後386野間新を見つけましたので、単純に年代による違いだと判断しています。)

上の386野間新町に書きましたように、17年地図の14−ルあたりに見える野間新町が、387野間新の該当地域(大池)になるようです。

野間中村
(388)
野間中村は南区筑紫丘2丁目から  南区野間3丁目からも
 15年地図14−ル。中村は筑前國續風土記拾遺にも見える野間の枝郷ですが、15年地図で見ると中村の他に中村町も見え、1〜8丁目は中村町の丁に見えます。(のちの野間新町か?)

左の筑紫丘は同地図にいう中村、右の野間3丁目は中村町に該当すると考えて矛盾しないと考えています。

 野間中村公園は南区野間3丁目15番に。

野間本
(389)
野間本は南区野間1丁目から  南区野間2丁目からも
 15年地図14−ル。376若久の欄で本村(町)域は1丁目にはならない場合が多いと書きましたが、野間も1丁目が本村(町)域です。こちらは本村が村域の端にあった若久とは違って、1丁目となるべき地域が玉川という別の地名を冠したからでしょう。
産神は野間八幡宮(南区野間1丁目21/高宮八幡宮より勧進) 

道目木
(390)
道目木は南区玉川町から 同じく玉川町
 道目木町は17年地図に初めて掲載されます(13・14−ルあたり)。そして今はまったく残っていない地名です。17年地図には、例えば南区寺塚に「赤塚」など、それまでにはなかった地名が突如として現れ、そして今は痕跡さえも残っていないものがいくつか記載されています。道目木もそういうたぐいの地名かと思っていましたので、これを見つけた時には鳥肌が立ちました。

九電バッジは若久川の南岸からも見つかっており、少なくとも九電バッジの名義としての上磐瀬町はなく(下磐瀬町もない)、大池通りの一本南側の通りまでが道目木だったことがわかります。そうするとその南側の旧玉川町(390)は一列しかなく少し小さく感じます。

玉川町
(390)
玉川町は南区玉川町19−31に(解体済み)
 15年地図には掲載がなく、17年地図では14−ルあたり、頭番は道目木と同じ390。玉川町(野間村)と向野(塩原村)の境を流れる溝川という小川があったそうで、その川の別名が玉川で、これが玉川町の由来だそうです。福岡第一高校と第一薬科大学付属高校の間の道になりますが、現在は暗渠されてしまっています。

玉川には確か菅公伝説があり(大宰府に向かう際に、川のほとりで休まれたというものだったと思います)、その座った石が菅原神社のご神体となり、現在は野間八幡宮の敷地内に移座しています。

南大橋
(394)
394南大橋は南区南大橋2丁目から 同じく南大橋2丁目
 15年地図域外。 

南大橋
(395)
395南大橋は南区南大橋1丁目から 同じく南大橋1丁目     2020/06/01追加
 南区大橋4丁目は全域が405西大橋と思っていましたが、道を挟んで南大橋1丁目との境になる、大橋4丁目の西端からも395南大橋が出てきています。これは散々書いてきた、道路に囲まれた一ブロックが町や街区符号(番)になる現在と違い、当時は通りに地名が付き、通りの両側が同じ地名だったからでしょう。ただし、それは十分に都市化した街の話で、郊外部は字が一つの町を形成しているという認識でした。399塩原橋通も通りを基本とした地名ですので、この辺りが昭和30〜40年代における都市部と郊外部の境でしょうか。

塩原橋通
(399)
塩原橋通は南区塩原1丁目から 同じく塩原1丁目
 15年地図記載なし。南区塩原一丁目に橋通りの名を冠した月極め駐車場があります。 

塩原本町(村)域(2丁目)には「塩原」もしくは「塩原本(町)」があったはずですが、産土の神域を削るほどの区画整理がされており、2丁目から4丁目までかなり丁寧に歩きましたが、発見は期待できません。また「向野」もあってよさそうですが見つけられていません。
塩原の産神は塩原地禄神社(南区塩原3丁目2) 向野の産神は地禄神社(南区向野2丁目22)

沖田

沖田のNTT電柱表示は南区塩原4丁目から
 大字塩原には沖田の字も見えますが(15年地図14−リ・ヌ)、現在の南区塩原4丁目5番(塩原中央公園)・8番(南市民センター・体育館)、南区清水4丁目の南端に該当するようで、地名の名残りはNTTの電柱表示(塩原中央公園横から)と清水4丁目20番の沖田荘くらいです。

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

清水本町
(403)
清水本町は南区清水3丁目から 同じく清水3丁目
 清水として15年地図13−リ。15年地図で見ると大字清水(清水村)には他に清住町(12−リ・13−ヌの二ヶ所)、高田町(13−リ)さらには17年地図には日吉町も記載がありますが、これらのバッジは見つかっていません。

  若久川に掛かる日吉橋は、南区清水1丁目25番先日赤通りに。
産神は山王社(日吉神社/南区清水4丁目16)

清水西町
(403)
清水西町は南区清水1丁目から
 15年地図13−リ。   

清水東町
(405)
清水東町は南区清水2丁目から 同じく南区清水2丁目
 15年地図には清水東町・清水新町は記載がありませんので、このあたりが戦後に都市化していった地域になるのでしょう。  

清水新町
(405)
清水新町も南区清水2丁目から 同じく清水2丁目     2020/06/01追加
 15年地図記載なし。 

西大橋
(410)
西大橋は南区大橋4丁目から 同じく南区大橋4丁目
 15年地図域外。南大橋(394・395)は地名として残っていますが、西大橋(410)は消滅して大橋4丁目になっています。 
 
東大橋もあったのではないかと思っていますが、今のところ見つけられていません。東大橋のバス停(下り)は大橋2丁目13番の先に。

天神前
(413)
天神前は南区三宅1丁目から 南区大橋3丁目からも
 15年地図域外。天神前は私にとって幻の地名でした。NTTの電柱表示ではかなり広い範囲で目にしてきましたし、明治期の小字略図にも天神前の記載があります。見つけてしまえばかなり広範囲に広がっており、三宅1丁目の天神前は地録神社の参道につながる天神前と言える通りですが、大橋3丁目は天神裏と言うべき場所です(西鉄「地録神社前」バス停は地録神社裏に当たる)。広範囲というのは現在の私が、国道385号(みやけ通り)や都市計画道路長浜太宰府線横手(横手中央道り)で分断された街の姿を見ているからかもしれません。

ちなみに元年実測図では、大橋と地禄神社の間に「矢體(体/矢台とも表記される)の字が見えますが、明治の三宅村の小字図で見ると、「ヤタイ」は天神前に囲まれた小さな地域だったようです。「何某氏かの屋敷跡で、櫓(矢倉)があった場所」というのを何かで読んだ記憶があります。

三宅本町
(415)
三宅本町は南区三宅1丁目から 南区三宅2丁目からも
 15年地図域外。元年実測図で見ると、三宅本町(村)は一丁目の光徳寺よりも南、2丁目の若宮八幡宮よりも北のイメージ。  
産神は若宮八幡宮(南区三宅2丁目23) 他に田神社(地禄神社/南区大橋4丁目6)

和田村
(416)
和田村は南区和田2丁目から 
 黄色バッジ37と一緒に。15年地図域外。先に417和田店を見つけ、絶対に「和田(本)」があるはずだと、和田は10回以上歩きました。もちろん毎回1〜4丁目の全てを歩いたわけではなく、暇を見つけては1ブロックごとに、また三宅や南大橋との間を行ったり来たりしながらですが。

この和田村の九電バッジは和田と野多目の境、玄関ではないところに貼られており見つけるのに苦労しましたが、予期せぬ和田村名義を見つけて興奮しました。

三宅村が福岡市に編入されたのが1933(昭和8)年ですから、この時代は他の地域と同じ大字和田のはずですが、和田だけが和田村と表記されたのは、字としての「和田店」(商店街)に対する「和田村」(住宅街)ではないかと推測しています。
産神は寶満神社(和田宝満宮/南区和田3丁目16)

堂ノ原
(417)
堂ノ原は南区三宅2丁目から  同じく三宅2丁目
 15年地図域外、元年実測図記載あり。三宅2丁目の若宮八幡宮の南かつ老司川の西では、三宅村の江戸時代からの枝郷である堂ノ原が出て来ます。左の417−0※8が最初に目にしたバッジですが、もしこれが三宅本町の名義だったならば、このバッジの意味に永遠に気がつかなかったかもしれません。
鷹取延命地蔵尊(南区三宅2丁目36)

和田店
(417)

和田店は南区和田1丁目から
 15年地図域外。和田店は元年実測図に地名として記載があり、堂ノ原と和田店は同地図で見ても一体化しており、同じ頭番も納得できます。

和田の本町(村)域(2丁目)及び新屋(4丁目)からは「和田」が出て来ずあきらめかけていましたが、最後に1丁目の端から予期せぬ「和田店」を見つけた時は鳥肌が立ちました。(その後416和田村を見つける。)

野多目
(418)
野多目は南区野多目2丁目から 野多目6丁目からも
 15年地図域外。野多目4丁目からも418で見つかっています。

元年実測図を見ますと野多目の東に川原(明治の小字図では、大字老司の字が川原で、大字野多目の字は原)があり、その東は赤鉛筆で線が引かれています。この赤鉛筆の線と那珂川で囲まれた部分は向曰佐という地名で、大字下曰佐(下曰佐村)が那珂川を越え西に張り出してきている地域です。筑前國續風土記拾遺には、下曰佐村の民居として「本村・向曰佐」の記載があります。

現在の南区向新町はほとんどが大字下曰佐(下曰佐村)域となりますが、向新町2丁目の老司川よりも西側(向新町2丁目17〜19・29・30)は、市営野多目住宅(向新町2丁目29)の名が示す通り大字野多目域で(現在の建物は昭和60年代に建ったもののようですが、住居表示前から前身の市営団地があったはずです)、ここが元年実測図のいう字川原です。

 川原のNTT電柱表示は向新町2丁目から

明治の(新制)曰佐村の小字略図には、向曰佐には下曰佐橋よりも北(現向新町1丁目)に四反田・日掛の字が、下曰佐橋よりも南(現向新町2丁目)に鞘ノ元・不都原の字が記されています。

   

鞘ノ元は向新町2丁目9と同17の境の老司川に掛かる橋と同7番の公園に、不都原は老司1丁目7の公園に名が残っています。向新町1丁目域になる四反田・日掛は、住宅が建て込んでいることもあり、その痕跡を見つけることが出来ません。(以上は下曰佐の話ですが、旧曰佐村域からは九電バッジが出てこないことから、ついでにここに書きました。)
産神は照天神社(南区野多目4丁目19)

老司
(420)
老司は南区老司2丁目から 同じく老司2丁目
 15年地図域外。老司2丁目は元年実測図にいう唐戸に該当します。筑前國續風土記拾遺には『石堰唐戸ありて左右に水を引く。北の口は須玖 横手の方に引き、西の口は三宅 和田の方へ引く。』と記載があり、西の口の石堰(石井樋)は老司2丁目に現存しています。

  
唐戸集会所は老司2丁目5に(前面道路は神埼街道)       那珂川から老司川への導水のための石井樋は現役

拾遺には「村の西に大戸山というあり。高山にてはなし。」と書かれています。現在の老司中・中村病院あたりが大戸山になり、元年実測図で見てもその東麓に老司の町があったようです。現在の老司3丁目にあたり、確かにそのあたりには大きなお宅が並びますが、該当地域からは九電バッジを見つけられていません。
産神は老松神社(南区老司4丁目1番)

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