箱崎営業所


 昭和15年最新福岡市地図(北が上ではなく、海が上になっている)を見ると、箱崎八幡宮の東に箱崎町役場があります。そして、箱崎八幡宮の西〜九
州本線 箱崎停車場(現在のJR鹿児島本線 箱崎駅よりも南にある)の南側を行政境の地図記号が走っており、箱崎停車場以東は宇美川が行政境と
なっています。

 ここが江戸時代の那珂郡(馬出村)と糟屋郡(箱崎村)の郡境になり、私の本来のテーマである糟屋表郡境石も箱崎1丁目と馬出5丁目の間に現存し
ています。

 糟屋郡箱崎町が福岡市に編入されたのが1940(昭和15)年12月のことですから、15年地図時に於いてはここが市町境になっています。箱崎八幡
宮や九州帝国大学(九州大学)も医学部以外は福岡市外にあったといわれても、今となってはピンと来ません。そして、東公園は今でこそ県庁があり市
域の中心ですが、昭和15年時は本当に福岡市の東端ぎりぎりにあったことになります。


昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

下原
しもばる
(001)

2021/09/15追加
下原は東区下原2丁目から 東区下原4丁目からも
 筑前國續風土記拾遺の下原村欄以下(当ページに関する部分では、下原 唐原 上和白 下和白 塩濱の各村)は児玉稿となっており、拾遺の編さん助手を務めた筑前藩士 児玉 琢の手によるものです。

そこには下原村の字として、馬立山本村 名切(なぎり) 土井 向原 秋山谷 秋山町」の記載があります。拾遺には観音堂(下原3丁目20)が「馬立谷にあり」と書かれており、浄光寺(下原1丁目25)が「秋山町にあり」となっています。

元年実測図では欄外となりますので今昔マップ昭和25年(1948〜1956)で見ますと、馬立 秋山谷 町の記載があり、馬立は現在の下原3丁目の後山堤(3丁目25)と唐原川の間に見えます。同地図では秋山谷は、同じ下原3丁目でも福岡市水道局下原配水場(下原3丁目18)の北側に見えます。0※2はこの秋山谷と言えそうなところ(の若干麓)から見つかりました。また今昔マップには町と記載されていますが、これが秋山町のことでしょうが、同地図では浄光寺の北側に(秋山)町が見えます。秋山町が立花城の城下町となるそうです。

一方、宗勝寺(拾遺に記載あり)の南側、(秋山)町との間にも数戸の集落が見えます。ここが0※4が出てきた下原4丁目になり、ちょうど国道3号線が南北の谷(3号線自体は盛り土してある)となっていますので、私が名付けていいのならば、ここを馬立から見た向原と名付けたでしょう。

今昔マップには、馬立の唐原川を挟んだ南側にも若干の集落が見えますが、ここ(下原3丁目8〜10あたり)が名切となるそうです。
拾遺には「産神は香椎宮なり」

香椎
(003)

2021/09/15追加
003香椎は東区香椎駅東1丁目から
 筑前國續風土記拾遺には、香椎の民居は「本村 作出 長谷 草場 山神にあり」と記されています。

元年実測図では香椎宮の北に本村が見え、その東 城ノ越山の北の谷に長谷(ながたに)の記載がありますが、長谷の集落は長谷ダム三日月湖(みかづきのうみ)の湖底に沈んでいます。長谷ダムは香椎側ではなく猪野川側へ流れますが(多々良川水系)、そのふもとに谷口の町が描かれています。谷口会館(公民館)は東区大字香椎39−6に。

拾遺の香椎村欄に「小川二流」ありと書かれ、一つは祓川(香椎川)、もう一つが「長谷の渓水 立花の古城山より出、南方草場を過ぎて谷口へ出、表糟屋郡名子村へ入る」と記されています。古城山(城ノ越山)から流れ出た長谷の流れが、その南の草場を通り谷口へ下っていますから、草場は長谷と谷口の間にあるはずですが、現在は福岡市立三日月山霊園の住所が東区大字香椎草場となっています。その三日月霊園は長谷ダム三日月湖の北斜面にありますので、このあたりの微妙な字域はちょっと不明です。

山神も場所は特定出来ていませんが、東区香椎2丁目のNTT電柱表示で何度かその名を見かけました。



香椎駅東4丁目は(全域ではないにしても)浜男と考えており、香椎2丁目の浜男との境に山神があったのでしょうか。作出は030御幸の欄で。

ついでに私の覚書です。(以下、住所はすべて東区)

元年実測図の香椎・濱男域に描かれた池は現在もよく残っています。まずは地図の一番北 兜塚の北東に松葉谷池(松香台1丁目11)、その東に見切れているのが脇田堤(香椎駅東4丁目3)、馘(きりみみ)塚の東に尾崎池(香椎駅東1丁目7)・石坂池(香椎駅東3丁目31)があり、そのさらに東に坂堤(香椎駅東4丁目13)が描かれていますが、坂堤はごく最近埋め立てられ宅地化しています。その石坂池と坂堤の間に描かれた小さな池は、香椎第3中学校前の香椎池かと思いましたが、石坂池・坂堤よりも高い場所(等高線から)にありますから、香椎2丁目34の東にある池(名前はわかりません)が該当するのかもしれません。

大きく書かれた香椎村の「椎」の両側は草田池と蝦ヶ浦池でしょう。(岡谷池は今昔マップの昭和47年修正<1967〜1972>に初めて描かれています。)

香椎宮と城ノ越山の間には、北から笠掛池(香椎台5丁目17)・大日池(香椎台4丁目21の先)・菰池(香椎台3丁目12の先)が並んでいます。

菰池の南には二又溜池(青葉台5丁目4)があり、その南に大きな三溜池(青葉5丁目31)・三溜池の東に湯ヶ浦池(名子3丁目15)・三溜池の西がムラタ池(青葉2丁目5)ですが、元年実測図では三溜池の北ぎりぎりを町村境の地図記号(―・―)が走っており、二又溜池は香椎域だったことがわかります。
拾遺には香椎宮(東区香椎4丁目16)は、「この(香椎)村及び松崎 多々良 津屋 土井 八田 名子 濱男 下原 唐原 塩濱 相ノ浦下和白の内 すべて十二村の産神なり」と記されています。

香椎
(004)

2021/09/15追加
004香椎は東区香椎4丁目16−1 香椎宮参拝者休憩所に
                                                                                           

香椎
(005)

2020/03/01追加
005香椎は東区香椎1丁目から 東区香椎4丁目からも   2021/05/15追加
 糟屋郡香椎町と多々良町が福岡市に編入されるのは1955(昭和30)年のことですから、15年地図17年地図には域外で記載がありません。
昭和元年福岡市及び近郊実測図で見ると、民家は香椎宮の周りに広がっていますが、これと矛盾しない地域から005香椎のバッジが出てきました。

香椎高校・JR鹿児島本線・香椎線はほぼ変わっていないようですから、現在の西鉄貝塚線香椎宮前駅の周りに宿の町が、JR香椎駅前に濱男の町があったようです(濱男神社は東区香椎駅前1丁目14に)。元年実測図ではJR鹿児島本線は名島と香椎の間で海沿いを走っており、かなり埋め立てられていることがわかります。

2021/05/15
2枚とも東区香椎1丁目から見つけたものを貼っていましたが、同区香椎4丁目からも005香椎で見つけましたので、1枚は貼り換えます。

浜男
(008)

2022/01/15追加
浜男は東区香椎駅東2丁目から
 筑前國續風土記拾遺の濱男村の欄には「香椎村の枝村なりしが、今は別村となれり」「当(裏糟屋)郡青柳駅より箱崎へ至る官道に人家あり」と書かれています。

元年実測図では鹿児島本線香椎駅と湾鐵電車 新香椎駅(現在の西鉄貝塚線 香椎駅)の間に、唐津街道(県道504号)を中心に濱男の街が広がっています。同地図では香椎川の南は宿の町(030御幸で言及)となっていますので、現在の香椎駅前1丁目7以降が濱男の町に該当するのでしょうが、当然村の規模としてはそれよりもずっと大きく、拾遺には元年実測図に記されている「兜(かぶと/拾遺では冑)塚」「馘(きりみみ)塚」、また元年実測図には描かれていませんが、「甲(よろい)坂」(010鎧坂)も濱男村の内として書かれています。

馘塚は現在の東区香椎駅東2丁目にありますが、その香椎駅東2丁目から008浜男のバッジを見つけました(香椎駅東1丁目からは003香椎が見つかっています)。さらに三日月山の北斜面には東区大字浜男が現存していますので、あるいはその大字浜男に続く香椎駅東3〜4丁目は濱男村域だったのではないかと付近を歩いてみたところ、



確かに香椎駅東4丁目は浜男域だったようです。八尻は「はっちり」と読み浜男・下原に跨る字で、香椎駅東4丁目側に八尻中・西・南公園があり、下原2丁目側に八尻東・北公園があります。

今思い返せば、10年前には香椎駅前はまだ混とんとしており、九電バッジが貼られていたであろうお宅がたくさんあったはずですが、今回歩くと再開発できれいさっぱりなくなっていました。こればかりは10年前にはそんなことは考えもしなかったので仕方がありません。
産神は香椎宮(東区香椎4丁目16)。

新浜
(009)

2022/01/15追加
新浜は東区御島崎2丁目から 同じく御島崎2丁目
 元年実測図には長崎鼻の記載があります。現在の浜男川は、東区香椎駅前2丁目3の前あたりで香椎川に合流して博多湾に注ぎますが、元年実測図では浜男川と香椎川は別の水系です。

元年実測図で見ると、浜男川が香椎潟に注ぐのは川が大きく南に曲がった直後ですので、現在の国道3号線御島橋の交差点あたりは海(河口)だったのでしょう。一方、宿の町の南には、香椎参道(県道24号)と唐津街道(県道504号)の間に小さく鳥居マークが描かれ、そのすぐ南には町村境(―・―)が走っています。この鳥居が香椎宮の頓宮(東区香椎1丁目23)になり、ここは今でも東区香椎1丁目と同区水谷2丁目の境です。元年実測図当時は、頓宮から鹿児島本線と湾鐵線の2本の線路を挟むと、その先はもう海です。

元年実測図に描かれた長崎鼻の標高27.0mの丘が御島崎2丁目25あたりに該当し、長崎鼻の南かつ現在の国道3号線より西は埋め立てられていることがわかります。

009新浜は、国道3号線御島橋交差点と香椎海岸を結ぶ道路沿い(ぎりぎり埋立地ではない部分と思われる)からその東側の丘(福岡女子大の西)に掛けて出てきました。今昔マップ昭和47年修正(1967〜1972年)で見ると丘の上には緑ヶ丘の字が見えますが、この緑ヶ丘といえる地域からも新浜で出てきています。

新浜は濱男の字となるのでしょう。

鎧坂
よろいざか
(010)

2022/01/15追加
鎧坂は東区香椎駅前3丁目から
 008浜男で書きましたように筑前國續風土記拾遺の濱男村には、冑(かぶと/兜)塚・甲(よろい/鎧)坂・馘(きりみみ)塚がそれぞれ書かれています。

元年実測図には香椎尋常小学校(現香椎小学校)と思しき「文」マークがあり、その唐津街道を挟んだ東に兜塚が描かれています。兜塚は香椎駅前1丁目26に。同じく元年実測図には馘塚が鹿児島本線の東側に見え、現在は東区香椎駅東2丁目15の民家の裏にあります。

元年実測図に描かれた兜塚・馘塚も字だったのでしょうが、馘塚のある香椎駅東2丁目からは008浜男のバッジが見つかっており、九電バッジが貼られた時代に字として使われていた痕跡はありません。一方、甲(鎧)坂は、よろい坂団地(香椎駅前3丁目24)やよろい坂公園(香椎駅前3丁目27)など近年まで字として使われていた形跡があります。

鎧坂の記念碑は香椎駅前3丁目33に建っており、これより唐原・和白へ向かう道(元年実測図の「文」と「兜塚」の間の道/唐津街道は県道504号線)が鎧坂ですが、記念碑には「之より六百米」となっており、ちょうど国道3号線の高架を潜る辺りが峠となっていますが、そこまでで600m弱あります。峠の先(東の下唐原側)はほぼ下りを感じない片峠となっており、峠の西側だけが鎧坂だったのでしょう。

鎧坂の九電バッジはあったはずとこの坂を中心に探したところ、かなり苦戦しましたがなんとか一枚見つけることが出来ました。

冑塚・鎧坂・馘塚についてはこちらが詳しい。

香山
(010)

2022/03/15追加
香山は東区香住ヶ丘2丁目から 同じく香住ヶ丘2丁目
 向(むかい)の山公園(香住ヶ丘2丁目46)の南側で見つけて、「山」の文字が目に飛び込んできましたので、向の山(向山)かと思ったのですが、よく見ると香山という未知の字でした。香住ヶ丘校区沿革史(香住ヶ丘校区沿革史づくり実行委員会編)によりますと、昭和27(1952)年に糟屋郡香椎町大字唐原字向山(香住ヶ丘2丁目)に県営住宅団地が建ち、香山はその団地の通称として用いられたが、昭和29(1954)年には香住ヶ丘(の一部)となったと書かれています。

そうしますと、この地域の九電バッジは昭和27〜29年の間に貼られたと考えるべきかとも思いましたが、別記しますが、箱崎営業所の九電バッジが貼られたのは、昭和30年から昭和35年の間だったと推定しています。香住ヶ丘となった以降も、通称としての香山は残っていたのでしょう。

013香住ヶ丘で唯一の県営住宅オリジナルの建物であろうと書きましたが、香山にも2〜3棟、当初からのオリジナルなのかなと思える木造建物があります。

一ツ矢
2022/03/15追加
一ツ矢は東区香住ヶ丘2丁目から 同家には香椎町のプレートも貼られる
 筑前国續風土記拾遺には、唐原の字に琵琶橋があり(011下唐原参照)、琵琶橋池(琵琶橋池公園/東区香住ヶ丘2丁目27)周辺が該当するのではと歩きましたが、琵琶橋名義の九電バッジは見つけられず、該当地域から香山と一ツ矢を見つけました。拾遺には「人家の入口に石橋あり。里民(この石橋を)琵琶橋という。」と記されていますが、琵琶橋池公園周辺で橋が架かるほどの川を見つけられません。

カタカナの「ツ」のバランスが悪く、本当に「ひとつや」と読んでいいのだろうかと、厚かましくも貼られたお宅のチャイムを鳴らし、お話を伺うことが出来ました。読みはひとつやで間違いないそうですから、単にカタカナのプレス型がこのサイズしかなかったのでしょう。一ツ矢は今でも寺の地区分けなどで使われている等のお話も伺いました。

唐原の字には一ツ矢は見当たらず、香山とともに新しい地名かとも思いましたが、香山は香椎向山からの造名として、一ツ矢は弓矢の時代、または家からの変化としても、近隣にほとんど家が建っていない状況を思わせる古風な響きです。

下唐原
(011)

2022/02/15追加
下唐原は東区唐原1丁目から 同じく唐原1丁目
 筑前國續風土記拾遺の唐原村欄には、「上村 下村 琵琶橋」が字名として記されています。また「祇園社下村」とも書かれています。

今昔マップの福岡(昭和25年三修 27年8月30日発行)で該当地域を見ますと、鹿児島本線「とうのはる」(現九産大前)駅を挟み、東に(上)唐原が、西に下唐原の町が見えます。同地図の(上)唐原には、町の東外れに鳥居マークと堤が見えます。堤は地蔵堀(東区唐原7丁目6)で、鳥居マークは地蔵堂(同7丁目9)でしょう。地蔵堂はこちらに詳しい記載がありますが、確かにどう見ても神社づくりです。よって、上村(唐原)は地蔵堂の西になり、唐原7丁目あたりに古い街があるのですが、該当地域から上唐原(唐原)の九電バッジを見つけることは出来ませんでした。

一方祇園社(須賀神社/東区唐原1丁目8)は、下村(下唐原)にあるとなっています。唐原1丁目からは複数個の下唐原のバッジを見つけることが出来ました。下唐原からは011の200番台・一ツ矢が100番台で見つかりましたので、上唐原が011の二桁台だったのではないかと想像しています。
拾遺には「香椎宮を産神とす」と記載があります。

香住ヶ丘
(013)
202/02/15追加
香住ヶ丘は東区香住ヶ丘6丁目から
かしいかえん駐車場跡に残る香椎球場のフェンス
 香住ヶ丘校区沿革史(香住ヶ丘校区沿革史づくり実行委員会編)によりますと、昭和25(1950)年に唐原(一部浜男)の西部を拓いて県営住宅団地を建て、その通称として霞ヶ丘(昭和29年より香住ヶ丘)としたとのことですが、今昔マップ福岡 昭和25年三修 27年8月30日発行を見ますと、大石ヶ浦池(香住ヶ池/香住ヶ丘6丁目6)の西、現在の香住ヶ丘4丁目・6丁目あたりに、住宅が数十戸の規模で描かれています。この数十戸の住宅から香住ヶ丘が始まったのでしょう。一つ前の昭和11年二修 昭和15年4月30日発行(1936〜1938)には、高塚神社(香住ヶ丘7丁目1)は変わらぬ場所にありますが、後の香椎花園前駅もまだなく、果樹園と針葉樹林があるだけです。

今昔マップを見て、九電バッジが出て来るならば、大石ヶ浦池西あたりからであろうと重点的に歩き、やっと一枚だけ見つかりました。この香住ヶ丘の九電バッジが貼られたお宅は、現在残る唯一のオリジナル県営住宅建物になるのではないのでしょうか。(香山にも数戸のオリジナルらしき建物があります。)

同地図では、西鉄宮地岳線(現貝塚線)「うんどうじょうまえ」駅の西に、ジョー・ディマジオもやって来た香椎球場が見えます。かしいかえん駐車場跡に、今も香椎球場のフェンスが一部残っていますが、同地図を見ると、ここはライトスタンドあたりになるでしょうか。ちなみに、マリリン・モンローは、同日はブレディ・エア・ベース(雁ノ巣飛行場)への慰問で別行動だったようで、香椎球場には足跡を残していません。

大橋
(017)

2022/04/15追加
大橋は東区多々良2丁目から 同じく多々良2丁目
 元年実測図では多田羅の西に大橋の字が見えます。同地図では多々良川に架かる橋の内、県道21号線多田羅橋はまだなく、唐津街道たる県道504号(町川原福岡線)の大橋と、多々良の町中に架かる多々良橋は掲載があります。

筑前國續風土記拾遺の多々良村の欄には「大橋の東に(多々良)村ありて松崎に隣れり」と記されており、筑前の主要道として江戸時代からここに橋が架かっていたことがわかります。

元年実測図では多々良川の川向に濱田の字が見えます。濱田名義の九電バッジもあるかと思い歩きましたが、建物が比較的新しくて見つけることが出来ません。

同地図で見ると、(明治22年の大合併以降の)多多良村と箱崎町は多々良川を境とはしておらず、唐津街道が多々良川を渡る地点よりもさらに西に行政境(―・―)が引かれています(わざわざ赤鉛筆が入っている)。この大橋からの唐津街道が多々良川を渡るのが、県道504号 浜田橋(東区多の津3丁目1−6先)ですので、多多良村と箱崎町の境は、現在の県道504号町川原福岡線と県道21号直方福岡線の分岐、浜田のバス停(東区原田4丁目1の先)あたりが該当しそうです。

原田4丁目と多の津4丁目の境は、多少の出入りはあってもほぼ箱崎・多々良の境なのでしょうが、松島は1・3丁目のそれぞれ半域(松島小学校の南側)が箱崎町域に・北側は多多良村域となるようです。浜田は大字多々良の字になります。

また、多々良川の東際、濱田の町中で道が二股に分かれていますが、ここには嘉永七年再建の裏銘が入る「右 いの大神宮」と記された道標が建っており、



左は大橋を越えて唐津街道・右は多々良橋を越え、多々良川沿い(県道21号はまだない)に糟屋郡久山町の伊野天照皇大神宮へ至る、両者江戸道です。

多々良は箱崎051

本村
(019)

2022/04/15追加
本村は東区松崎3丁目から 同じく松崎3丁目
 筑前國續風土記拾遺には、松崎の民居として「本村 今屋敷」が記載されています。拾遺には「地蔵堂 村の北松山の中にあり」と書かれており、地蔵寺(松崎3丁目25)がこれに該当するのでしょうが、元年実測図には該当の場所に鳥居マークが見えます。

西新081西庄ノ西欄に書きましたが、この時代のと言いますか、最新の地理院地図でも鳥居マークが付された仏堂はあります(実際に鳥居を持つ仏堂もありますが)。ちなみにこの地蔵寺は今昔マップで見ますと、昭和59年修正(1982〜1986)まで鳥居マークで描かれ、平成10年部修(1991〜2000)にて卍となっています。

元年実測図では松崎と記されていますが、今昔マップ(大正15年測図<1922〜1926>)で見ると該当の地域は「本村」と表記されており、九電バッジも本村名義で出て来ました。(各村に本村があったはずですが、本村と言えば松崎本村を指すという認識が、この時代にはあったのでしょう。)

今屋敷は元年実測図では松崎と大橋(多々良)の間に掲載があり、現在の東区松崎1丁目が該当します。今屋敷のバッジもあったのではと歩いてみましたが見つかりませんでした。拾遺には「稲荷社 今屋敷の人家の北の山上にあり」となっていますが、松崎神社(松崎1丁目48)の由緒碑を見ると、昭和3年頃に天神社と稲荷社を合祀し、松崎神社とした旨が書かれていました。

今昔マップ(大正15年測図<1922〜1926>)で見ると今屋敷の北に鳥居マークが見えます。松崎1丁目36あたりになりますが、現在は戸建て団地になっており、神社の痕跡は見つかりません。

同じく今昔マップ(大正15年測図<1922〜1926>)には蓮華坂が見えます。国道3号線博多バイパスの若宮入口交差点と、松崎中学校前交差点の間の峠(峠というほどでもないが、確かに坂になっています)を指すのでしょう。同地図に描かれた陣ノ越は051多々良欄に書きます。


こうまた
(019)

2022/04/15追加
又は東区名島4丁目から 同じく名島4丁目
 15年地図3−イに名島小學の記載がありますが、名島小学校(東区名島5丁目5)の西側からは又が出て来ました。高又公園は名島4丁目52に、又六地蔵尊は名島4丁目35に。

高又の西、多々良川沿いに茅町公園(名島4丁目16)がありますが、筑前國續風土記拾遺には「南の山かげに茅町というところあり、これ昔の民居」となっており、茅町も古い字です。また多々良川の東河川敷に茅町公園を含んだ名島渡場公園がありますが、昭和9(1934)年福岡市街及郊外地図を見ると、鹿児島本線線路の東際に渡場の字があり、旧名島橋が架かるまでの渡し場があり、大橋(多々良)が架かる前は、そして架かった後も、ショートカットしてここを舟で渡る経路があったのでしょう。

2022/05/15
名島校区は道路旧名に関する案内板があるのですが、高又に関して、



このような案内がありました。現代地図では道路が発達しすぎてわかりづらいですが、今昔マップ 福岡 昭和11年二修 昭和15.4.30発行(1936〜1938)で該当の場所を見ますと、名島から蓮華坂方向へに抜ける道と、多々良川沿い 茅町へ抜ける道の又の間に街があったということでしょう。

新開町
福岡東020)

2021/11/15追加
新開町は東区名島2丁目から
 新開町は名島2丁目の名島橋の北側 多々良川沿いから出て来ました。新開町と発電所(詳しくは021黒崎欄に/現在は名島公園)の間からは022新町が出て来ます。新町と新開町はどちらもNew residential areaを表すのでしょうが、街化した時期が違うのでしょうか。名島2丁目4に新開町の名を採ったであろう新開荘があります。

同じ名島2丁目からでも024船頭が見つかった場所とは、国道3号線 名島橋東交差点と福岡都市高速側道名島3丁目交差点を結ぶ「飛行場通り」(仮に名付けています)を挟みますが、新開町が見つかった地域でも船頭町町内会の表示を見ましたので、時期により船頭町に飲み込まれてしまったのかもしれません。

黒崎
(021)

2021/10/15追加
021黒崎は東区名島1丁目から
 糟屋郡多々良町は1955(昭和30)年に、香椎と同時に福岡市に編入しています。よって元年実測図15年地図とも字の記載がありません。今昔マップでも詳細な字は描かれておらず、探せば小字図があるのでしょうが手に入れていません。そうなると予備知識なく歩いて見つけるしかなく、当時の地図とリンクさせるという当ページの主旨からも若干ずれてしまいます。

このあたりにこういう字があったとわかっていればそのつもりで探しますが、ターゲットがないので見落とす確率も多くなります。一方で、九電バッジを見つけるたびに未知の字にワクワクします。

当時の地図とリンクすることが出来ないので、公園・交差点・橋・建物名などを使い、町名が存在した根拠を示していきます。

15年地図には名島(1−ロ)としか記載がありませんが、昭和9年最新福岡市街及郊外地図を見ると城山の南に黒崎の字が見えます。記紀では神功皇后が三韓遠征の時に船を出したのが黒津の岬で、黒津の岬が後に黒崎となります。

15年地図1−イの日本空輸送福岡支所は福岡水上飛行場の跡に関連施設が残っていて、昭和9年最新福岡市街及郊外地図では福岡飛行場が描かれています。福岡水上飛行場は昭和5(1930)年に開設(昭和4<1929>年発行の福岡市街図にはすでに1−イ・ロに國際飛行場が書かれています)されたが、瞬く間に陸上機の時代になり昭和9(1934)年閉鎖 福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)へ移管。名島水上飛行場跡の碑は名島1丁目1−24先に。

また、15年地図には2−ロに東部発電所が描かれていますが、名島発電所は大正9(1920)年に九州電灯鉄道として運転を開始し、その後合併等により社名を変更しながら(東邦電力の時代もあります)、昭和35(1960)年に廃止され、現在は名島運動公園(東区名島2丁目43)となっています。

元年実測図や昭和2(1927)年福岡市及付近図で見ると妙見嶋は少し沖合にあるように見えますが、昭和4(1929)年福岡市街地図以降では陸繋島となっており、位置も若干ですが西に描かれているように思えます。いずれにしても妙見島は埋め立てられてしまい、跡形もありません。

名島の歴史は3,500万年前の地層・化石(帆柱石)から始まり、3,499万8千年後くらいには神功皇后による三韓遠征、それから1,500年後くらいには立花氏が築城・小早川氏が改築、そして黒田長政も入城した名島城、さらにはその300年後にはリンドバーグも飛んできた水上飛行場と、絶えず華やかです。 

黒崎
(022)

2021/10/15追加
022黒崎も東区名島1丁目から
 名島城あった黒津の岬は西側が黒崎町、東側は帆柱町と呼ばれていたようです。

 帆柱町の掲示板は東区名島1丁目6先に

その間にもう一つ、城山の字はあってもよさそうですが、022黒崎は城山と呼ばれていいような場所(名島城に連なる丘陵部)から見つかりました。  

新町
(022)

2021/10/15追加
新町は東区名島2丁目から 同じく名島2丁目
 名島2丁目27と36の間の交差点に名島新町の名を残しています。                                                

船頭
(024)

2021/11/15追加
船頭も東区名島2丁目から
 船頭町公園が名島2丁目37番に。西新営業所管内姪濱では、同時代の地図からどうやら姪濱(本町)名義はなかったと判断していますが、名島は詳細な地図がないこともあり、まだ名島(本町)名義があったのかなかったのかを判断できていません。あったとすれば、福岡名島郵便局(名島3丁目13−17)前の南北筋あたりが本町に該当するのでしょうか?

国道3号線名島の交差点から国道事務所前交差点に斜めに抜ける道が、発電所への引き込み線(15年地図2−イ)跡で、名島駅の東で湾鐵電車線(現西鉄貝塚線)に合流しています。

大名
(024)

2021/11/15追加
024大名は東区名島3丁目から 同じく東区名島3丁目から
 024大名と025大名は少し離れています。福岡で大名といえば中央区大名をイメージしますが、地名としては当然こちらの方が先なのでしょう。

右は工作物の下になっており、02以降の数字が不鮮明ですが、左の024大名と1街区符号(番)しか違わない隣接、かつ枝番が同じ100番台のためのため、024大名ではないかと考えていますが、場所的には024船頭で書いた「本町」でもおかしくありません。

大名
(025)

2021/11/15追加
025大名は東区千早2丁目から
                                                                                           

汐見
(025)

2021/12/15追加
汐見も東区千早2丁目から
 汐見は西汐見バス停(千早2丁目4)や九電汐見アパート(同5)等によく名を残しています。                                  

快田
(025)

2021/12/15追加
快田も東区千早2丁目から
 ペンキ上塗りされており、現地では一応「快田」と読んだのですが自信はありませんでした。千早の埋め立てが完成したのが昭和16(1941)年であり、千早が属する多々良町が香椎町と共に福岡市に合併するのが昭和30(1955)年ですので、15年地図を始めとする戦前の福岡市地図には当該地域は記載がありません。

昭和12(1937)年福岡市街案内図(案内図のため縮尺はおかしい)で見ると、埋立予定地(工事中だったのでしょう)として記載があります。

ただし、千早2丁目の2・7・8・9・10・11あたりは名島城の三の丸(名島三の丸団地)から続く丘陵の裾になっており、埋め立て地を嵩上げする必要はありません(実際にところどころは階段になっており、なだらかに高さを合わせる造成はしていない)から、埋め立て地ではなく元々陸地として存在していたのでしょう。

その千早2丁目10に快田ハイツというマンションがあります。またインターネット上では、2丁目2−2には九電快田アパートという建物があるとなっています(当該敷地はすでに更地になっている)。

このことからやっとこのあたりに快田の字があったのであろうとわかり、このバッジの名義を快田で確定させます。

追記 2022/02/15
筑前國續風土記巻之十九 糟屋郡 裏に「皆打濱」の記載があり、「松崎の東南にあり」となっており、『三韓遠征より帰国した神功皇后が、「敵を皆打ちぬ」と言ったところから皆打濱と号す』と書かれています。

文化村
(025)

2021/12/15追加
文化村は東区千早2丁目から
 現地では文化橋と読んだのですが、画像で見ると橋ではなく、村や持などに見えます。この文化村に関しては情報が全くないのですが、一応「村」としておきます。文化村は戦後に木造モルタルの戸建て住宅団地を造成分譲した時に、アメリカ的なNew cultureの意味で名づけられたものです。

上の025汐見とは隣のお宅です。例えば福岡営業所の217若宮町221今泉町のように、先隣りの家で町名が違うことはありましたが、あちらは路地の中に建つ家で、どちらの通りに属するかということで説明できました。この2軒はブロック(街区符号)中で敷地を接して並んでおり、なぜ町名が違うのかが理解できていません。(ただし、敷地を接して建ち並ぶ割には、住居番号が4つほど飛んでいる。)

街区符号まで公開していませんので伝わりませんが、非常に狭い範囲で025大名・汐見・快田・文化村と名義を使い分けられています。この地域は025汐見で書いた九電汐見アパートや025快田で書いた九電快田アパート等、九電東部発電所(現名島公園)付設であろう九電敷地が建ち並ぶ、埋め立てたばかりの場所だったようで、字(名義)は開発者(社)がつけ放題だったのかもしれません。

御幸
(030)

202/05/15追加
御幸は東区千早5丁目から 同じく千早6丁目
 御幸町は香椎の字として記載がありますが、香椎御幸郵便局(千早5丁目14)・みゆき通り(同5丁目13・14)、県営御幸団地(千早6丁目8)・香椎御幸公園(同6丁目8)など多くに名を残しています。このことから御幸町は現在の千早5丁目・6丁目に広がっていたと推測できますが、その通り、千早5丁目からも同6丁目からも御幸が出て来ました。

今昔マップ 福岡 大正15年測図 昭和4.11.30発行(1922〜1926年)で見ると、現在の香椎御幸郵便局がもうぎりぎり海岸線 香椎川の河口になっています(同 昭和11年二修 昭和15.4.30発行では埋め立てられ、新国道<国道3号線>が描かれている)。よって、大正5年11月のの陸軍大演習で大正天皇が行幸された際には、ここにはまだ御幸されるような道はなく、御幸は昭和24(1949)年の昭和天皇巡幸のことで、千早5・6丁目ともに御幸の字であることから、その間の国道3号線を通られ、あるいは香椎宮にお寄りになられたのかと思いましたが、調べきれていません。(新聞をめくればよいのでしょうが、ひと段落ついてまとめてやります。)

香椎駅周辺は再開発が著しく、未発見の頭番25〜29がこの再開発地域に貼られていたのではないかと思っているのですが、手詰まりになっています。(千早1・2丁目にはよさげな家もあるのですが、九電バッジを見つけることは出来ません。)

月見町
(031)

2021/03/01追加
月見町は東区筥松4丁目から
 15年地図記載なし。同地図には3−ロに松原通が小さく書かれていますが、昭和6(1932)年福岡市街図で見ると、旧九州大学と鹿児島本線の間を走り、国道3号名島橋西交差点に至る県道550号はまだ貫通しておらず、九大農学部(3・4−ロ・ハあたり)の北でいったん鹿児島本線を東に渡り、名島橋の南でまた線路の西に戻っています。(そもそも昭和6年福岡市街図には、後に国道3号線になる道がまだありません。)

昭和6年福岡市街図の道筋は、アーベイン貝塚駅前32棟(東区筥松4丁目8)の西側にある千代の松原1号踏切で鹿児島本線を東に渡り、箱崎中学校の前を通り、東区箱崎7丁目2と筥松4丁目16の間の多々良踏切で県道550号線に戻る道筋になると思われ、ここが松原通に該当するのでしょう。そうすると縮尺はおかしいですが、15年地図の松原通が月見町以北の筥松4丁目となり、同時代の地図には松原通以上の地名は掲載がありません。

箱崎中学校(筥松4丁目21)の南に月見町、さらにその南の筥松3丁目との境から坂本(町)のバッジが出て来ましたが、箱崎中学校の北側は新建町と呼ばれていた形跡があります。(証拠を見つけられないので、形跡があるという表現で。)

月見町バス停は筥松4丁目9の先に。現在の月見町は流通センター通り(福岡都市高速4号線)の高架で南北に分断されています。

昭和9(1934)年福岡市街及郊外地図を見ると当該松原は地蔵松原となっており、現在も地蔵松原公園(筥松4丁目1)に名を残しています。筑前國續風土記には「千代の松原は南北一里あったと言い伝わる」となっており、千代の松原と地蔵松原は一体もしくは断続だったのでしょう。



奥に見えるのが箱崎中学校ですが、手前にあった九大の寮が取り壊され、現在はその敷地にわずかに残っていた松が目立っています。ここが100年後にまた松林になっているなんて奇跡は起きないのでしょう。

坂本
(031)

2021/03/01追加
坂本は東区筥松4丁目から
 15年地図記載なし。坂本町バス停は筥松4丁目1の先に、坂本町公園は同6番。                                        

東新町
(033)

2021/04/01追加
東新町は東区筥松2丁目から
 15年地図5−ハ。県道21号に筥松2丁目(旧東新町)の交差点があり、15年地図では筋の両側に東新町の街が広がっています。東新町の西に新町通が見え、新町の東に発展した東新町でしょう。新町通は東区箱崎3丁目7が該当しそうですが、箱崎新道の道幅拡張に飲み込まれたのか見つけられません。

東新町の4本北に米一前町の筋があり、大和町・塔ノ本(15年地図4−ハ)の地名が続きますが、それらのバッジは見つけられていません。あるいは未発見の箱崎032が該当するのでしょうか。

同地図4−ハには赤文字で米一丸墓と掲載されていますが、米一前町は米一丸墓(現在は箱崎米一丸公園/東区箱崎6丁目6)の南の筋ですので、箱崎6丁目交差点を越えて県道550号から、米一丸交差点を挟み塔ノ本橋までが該当するのでしょう。

米一の物語は中村学園図書館が公開している筑前國續風土記 巻之十八 粕屋郡 表の米一石塔で読めますが、益軒自身が「乱雑にしてまことしからぬこと多ければ、信じがたし」と書き残しています。(物語としては、少し脚色すれば講談や時代劇になりそうな、大変面白いものです。)

さらに現在は松島大橋の通りに大和町の交差点がありますが、15年地図が指す大和町筋はその一本手前の筥松3丁目9・10と13・16の間の筋ではないかと考えています。

15年地図では大和町筋の北に塔ノ本(4−ロ)があり、その北はしばらく東西筋がなく宇美川に沿った南北筋(現在の松島けやき通り)が延びています(3・4−ロ)。この九大農学部の東の鹿児島本線と現在の松島けやき通りに挟まれたブロックには、元年実測図では墓地が描かれており、現在の箱崎1号墓地(箱崎3丁目19)に該当し、市営筥松第1住宅(箱崎3丁目19)から地蔵松原公園(筥松4丁目1)の北側までがこの大きなブロックに該当しそうです。

そのブロックの南に塔ノ本ですから、現在の松島大橋と大和町の交差点を結ぶ筋が該当することになります。(文字の向きが筋の向きを表していますので、大和町筋・塔ノ本筋ともに東西筋です。)

現在は米一丸交差点の東側 宇美川に掛かる橋が塔の本橋となっています。大和町バス停は筥松3丁目15の先に。

原田
(035)

2021/04/01追加
035原田は東区原田2丁目から 同じく原田2丁目
 15年地図5−ロ。筑前國續風土記拾遺には、箱崎村の民居として「本村 原田枝郷 浦分」の記載があります。

035原田はすべてが原田2丁目から見つかっていますが、036原田は原田1丁目からも2丁目からも見つかります。その結果を踏まえて再度15年地図を検討すると、現在の県道21号福岡直方線と同じように道が北へカーブをしているのでだまされそうですが、同地図当時は現在の原田1丁目交差点まで至らず、その手前の原田2丁目26番と27番の間で北へカーブし、須恵橋へと至っています。この通りが原田の本通りとなるようで、この道の北側が035原田、南が036原田と考えると整合します。

原田の地名について筑前國續風土記には、神功皇后が三韓遠征から帰還後、いよいよ後の応神天皇の出産のために香椎の宮より宇美(産み)の宮へ移る途中にこの地を通った時に、陣痛が起き「腹いた」と言ったものがなまったという説が書かれています。もちろん益軒自身が「実否はわきまえ難し」と記していますが、香椎宮から宇美八幡宮への道なりは、現在のJR香椎線(県道24号線)ですので原田は少し遠回りです。

原田
福岡東036)

2021/04/01追加
036原田は東区原田1丁目から 原田2丁目からも
 西新営業所では時々福岡西営業所名義がありますが、福岡東名義は初めて見ました(その後、他でも確認)。福岡西の方が西新よりも古いと考えていましたが、035原田と036原田の関係を見ると、箱崎よりも福岡東の方が新しいような気もします。

15年地図5−ロには相保町が見えますが、



コーポ相保(東区原田1丁目14−7)くらいしかその痕跡を見つけられませんでした。

不明
(037)

2021/05/15追加
037不明は東区馬出6丁目から
 東区馬出は1丁目の万世(萬世)東西部・三角本・巴町、2丁目の馬出本、5丁目の馬出1・御所内まですべて福岡営業所管内でしたが、6丁目から箱崎営業所が出て来ました。しかもリフォームされていて町名が読めません。

15年地図当時は箱崎停車場が、現在よりも南の筥崎宮の東にあります(旧箱崎駅記念碑は東区箱崎1丁目2)。この037のバッジが出てきたのは、旧箱崎停車場と宇美川の間になりますが、私は勘違いをしていて、筥松域と思って歩き箱崎営業所のバッジが出て来たので、15年地図に描かれた〇ノ口町(5・6−ハ)ではないかと思ったのですが、住所を確認すると馬出6丁目でした。(この〇ノ口町については037前川町で書きます。)

現代の地図で確認するとこのあたりはちょっと複雑で、JR鹿児島本線の高架の西沿いは箱崎1丁目、高架の下も含めて線路の東に筥松2丁目が北から張り出し、さらにその東の宇美川沿いに馬出6丁目が、今度は南から張り出すという状況になっています。

どうしてこんなことになったのだろうと地図を遡ったところ、昭和9年最新福岡市街及郊外地図では箱崎駅(15年地図では箱崎停車場だが、同地図では箱崎駅と表記)の東(北が上ではなく海が上)で、福岡市の馬出(この当時は福岡市の東端で、糟屋郡箱崎町<筥松>が福岡市に合併するのは昭和15年)が川の中のみで下流に張り出しています。川の中にU字に領域があったとすると、元々はここに洲があったのかもしれません。

その川中の馬出部分を埋め立てたのではないでしょうか。現在の地図で見ると筥松2丁目1と馬出6丁目21は背中合わせですが、その間を暗渠された川が流れています。

よって戦前の地図にはまだない地域のようですが、米田公園(馬出6丁目8)など米田町(15年地図6−ニ)の北側になり、このバッジの名義は米田町ではないかと推測します。前川町と同じ頭番037ですが、馬出6丁目は一桁台・前川町は100番台を使っており、別の町名だったと考えます。

前川町
(037)

2021/05/15追加
037前川町は東区筥松2丁目から 同じく筥松2丁目
 15年地図掲載なし。15年地図5−ハに描かれた東阿多田が、後に前川町となったのではないかと考えていますが確証はありません。同時代の地図には前川町の掲載はありませんので、戦後から住居表示実施までの間に存在した町名でしょうが、前川町バス停(東区筥松2丁目16)に名を残しており、交差点にも「筥松2丁目(旧前川町)」と表記されています。

15年地図5・6−ハには〇ノ口町が見えます。郷口町が郷ノ口町だったのかと一瞬考えましたが、郷口町は川向になります。昭和14年最新福岡市地図小形が一番文字がはっきりしているようなので最大拡大してみたところ、藪もしくは敷に見える気もしますが、なんかもっと違う字のような気もします。現在の東区筥松2丁目3・4番あたりにあった町ではないかと考えていますが、この町についてご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

前川町
(038)

2021/05/15追加
038前川町も東区筥松2丁目から
 数が少ないので確定的なことは言えませんが、県道68号に架かる箱崎橋よりも南が037、北が038のそれぞれ前川町のようです。15年地図箱崎橋の一本上流の橋は郷口橋でしょうか? 同地図には綿打川に架かる綿内橋は見えますが、筥松橋はまだありません。

阿多田
(038)
阿多田は東区箱崎1丁目から  同じく箱崎1丁目
 15年地図5−ニ。                                                                              

本馬場

本馬場町の掲示板は東区箱崎1丁目27番19号に
 15年地図には箱崎警察の西(上)に東本馬場が見えます(5−ニ)。                                                

米山町
(040)
米山町は東区箱崎3丁目から 東区箱崎1丁目からも
 15年地図に記載なし。

2020/10/01追記
米山は宇佐殿(箱崎1丁目8)のことを指すようです。ただし、宇佐殿の北の筋からは阿多田が出てきましたので、さらに一本北の、現在の箱崎3丁目と箱崎1丁目の境筋が米山町になるようです。

新楽町
(041)

新楽町は東区箱崎3丁目から 同じく箱崎3丁目から 2021/03/01追加
 米山町・新楽町共に15年地図にはない地名です。この地域も戦後急速に発達していったのでしょう。箱崎3丁目の米山町(南)と新楽町(北)は、同じブロック(街区符号)の南北に背中合わせにあります。(この時代は、道に囲まれた区画ではなく、通りに町名が付いていた。)

2021/03/01 県道21号箱崎新道の南側から新楽町を見つけていましたが、新たに箱崎新道の北側からも新楽町が出て来ました。どうも私は箱崎新道の道幅にだまされがちですが、新道ですから道幅が広くなったのは後のことで、箱崎新道が町丁境ではなく、箱崎2丁目と3丁目の境は2本南の昭和筋になります。あえていうならば、箱崎新道が南海門戸筋・新楽町筋と言えるのでしょう。

帝大前
(042)

2021/05/15追加
帝大前は東区箱崎3丁目から
 15年地図4−ハ・ニに帝大前の停車場が見えます。同地図には町名としては掲載がありませんが、現在でも同市域では帝大前町内会の表示を目にします。帝大前は東西の筋となるようで、15年地図には南北の筋として立小路の記載がありますが、その痕跡を見つけることはできませんでした。

福博電車(昭和15年当時)貫線(かんせん)の電車通りが現在のふれあい通りになり、その終点の帝大前(時代によって九大前)の停留場は、箱崎新道を越えた箱崎3丁目9と10あたりにあったのでしょう。該当の場所は確かに道路幅に余裕があります。

以降、筋の向きの表記に迷っています。福岡の街は博多湾を囲んでいますので、城下ではほぼ東西・南北だったものが、箱崎では少しずれ、南東から北西への道が海へ向かう道・北東から南西への道が唐津街道など城下への道となります。059竪筋などを見ると南東から北西の道を縦筋と呼ぶべきでしょうが、拾遺に書かれた城下の縦横とも表記が逆になりますので、仮に海へ向かう(海と垂直)の筋を南北筋・海と並行の道を東西筋と表記しています。いい表記の仕方を教えてください。

宮前
(043)
宮前は東区箱崎1丁目から
 15年地図では箱崎宮の参道に西宮前と記されています(5−ニ)。 043宮前のバッジはその北(右)側、同地図でいう明治町あたりから見つかっています。

上社家
(043)
上社家は東区箱崎1丁目から 同じく箱崎1丁目
 15年地図5−ニには社家町と下社家町として記載、社家町が上社家町に該当すると思われる。                               

下社家
(045)
下社家も東区箱崎1丁目から
 15年地図5−ニ。                                                                              

裏町
 
 社領三町の碑は、東区箱崎1丁目16番先、箱小通りに。上社家・下社家・裏町(上社家の東15年地図5−ニ)が箱崎宮の社領だったようです。   

蒲田
(046)

202/06/15追加
蒲田は東区蒲田1丁目から 蒲田2丁目からも
 元年実測図では、久原川に沿って、蒲田とその南に部木(へき)が見えます。筑前國續風土記拾遺には「民居(は)本村及(び)部木 瓜生などにあり」となっています。

同じく拾遺には「彌(弥)勒寺が水町に、東照寺が小東にある」と記されています。蒲田1丁目と2丁目の間に、久原川に架かる古東橋があり、小東=古東であろうと考えています。また、「堤一箇所和田浦にあり水面四町五反」との記載がありますが、13,500坪規模の池は別府蒲池(東区蒲田5丁目)しか該当するものがなく、同池は元年実測図にも蒲田と久原村深井の間に描かれています。

右の蒲田2丁目から見つかったものはペンキ上塗りされており、画像では蒲田の文字が不鮮明ですが、目視では確認できています。
 拾遺には(部木)八幡宮について、「蒲田 江辻 戸原 名子四村の産神なり。」

部木
へき

(046)
202/06/15追加
部木は東区蒲田3丁目から 同じく蒲田3丁目から
 蒲田の欄で書きました筑前國續風土記拾遺に記載のある、蒲田村の枝郷 部木(へき)は現在の蒲田3丁目になります。元年実測図で見ると鳥居マークが部木の集落の西のはずれにあります。

拾遺の蒲田村 (部木)八幡宮の記載は充実しており、部木の地名の由来について、「(神社)縁起には別火(へひ)の里と呼びて、神皇(神功皇后)が物齋(物忌)し給いしところ」という説と、「應神天皇の皇子である大山守の子孫が各地に住み、その場所を日置といった」という2説が併記されています。また、八幡宮の横に建つ蘇我神社の由緒も、この八幡宮の欄に記されています。

本筋と外れますので簡単に書きますと、伊豆の川津氏が蒙古襲来の戦功で長門豊東郡を領す。→その子が探題 北条兼時に属して九州に下り、迫門河内を賜う。→新領地に家を建てようとしたところ、そこに村人が恐敬する石が2つあったため、それを先祖の曽我十郎祐成と同五郎時宗の霊石として祀ったと書かれています。(筑前國續風土記には迫門<せと>河内について「金井手・高田・津波黒・和田・大隈・篠栗・若杉・乙犬・尾中・田中の10村」と書かれており、ほぼ現在の糟屋郡篠栗町が該当します。現在の勢門の地名につながるのでしょう。)

一方、部木八幡宮の境内にある神社由緒には、「かつて瓜生に別火宮(へひのみや)があった」と書かれています。この神社由緒に書かれた瓜生(拾遺に蒲田村の民居として記載)は、現在の九州自動車道福岡インターチェンジあたりになるようです。

名子
(047)

202/07/15追加
名子は東区名子1丁目4−8 名子生産森林組合に
 元年実測図では猪野川の西に名子が見えます。筑前國續風土記拾遺には「名子の東に山の長き尾あり 長尾といいしを訛りて名子といい」と記載があります。
拾遺には香椎宮(東区香椎4丁目16)は、「この(香椎)村及び松崎 多々良 津屋 土井 八田 名子 濱男 下原 唐原 塩濱 相ノ浦下和白の内 すべて十二村の産神なり」と記されています。一方、筑前國續風土記の蒲田村八幡宮(部木八幡宮/東区蒲田3丁目18)の欄には「蒲田、戸原、江辻、名子、(の計)四箇村の産霊にして、田舎にてはすこぶる大社なり。」と書かれています。

土井
(048)

202/07/01追加
土井は東区土井3丁目から
 筑前國續風土記拾遺には土井の民居として本村 三井田 山口 小林 栴檀などの記載があります。また同村は「香椎宮敷地なり」と書かれています。拾遺には、天満宮(土井4丁目29)がサヤ山(土井サヤ公園は土井4丁目8)に、祇園社が三井田に、田神が前の山にあると記されています。

元年実測図には博多灣線(現JR香椎線)土居駅の南に、土居駅をほぼ西限に町が広がっているのが見えます。少し乱暴に言えば、新幹線高架の東側が該当するのでしょう。現在は土井(烏田)の交差点から北へ延びる県道24号線や、その一本西の土井(桃田)から北に延びる通りに店舗が並び、その2筋がバス通りですので、街の中心が新幹線路の西へ広がっています。

元年実測図では、土井の町のすぐ東に行政境(―・―)の地図記号が走っていますが、ここが今でも福岡市東区土井と糟屋郡粕屋町江辻との境になります。同地図にはまだ県道21号はなく、多田羅・津屋(現多々良1丁目)から多々良川沿いの道が描かれています。現在多々良川に掛かる県道24号雨水(あもうず)橋の北詰めは江辻域ですが、同地図には土井と江辻の村境に道があるように見え、そこに土井前の字があります。

旧雨水橋は現在よりも少し西に架かっていたのではと探してみましたが、そもそも現在の市町境の一部は道路でさえなく、痕跡は見つかりませんでした。
拾遺には香椎宮(東区香椎4丁目16)は、「この(香椎)村及び松崎 多々良 津屋 土井 八田 名子 濱男 下原 唐原 塩濱 相ノ浦下和白の内 すべて十二村の産神なり」と記されています。

八田
(049)

202/08/15追加
八田は東区青葉1丁目から
 現在の東区八田1〜4丁目は香椎線の南に広がっていますが、元年実測図では八田の町は博多湾線の北に描かれています。現在の青葉1丁目に該当しますが、その青葉1丁目から八田名義のバッジが見つかりました。

元年実測図では八田の町の北東に鳥居マークが見えますが、天満貴船神社(青葉1丁目32)に該当します。筑前國續風土記集の八田村欄には「船寄(ウ冠に竒)天満宮 村中にあり。」「貴布祢社 村の東クボという松山の上にあり。」と記されており、現在の場所は、たぶん貴布祢社があった場所なのでしょうが、相殿となっています。
拾遺には香椎宮(東区香椎4丁目16)は、「この(香椎)村及び松崎 多々良 津屋 土井 八田 名子 濱男 下原 唐原 塩濱 相ノ浦下和白の内 すべて十二村の産神なり」と記されています。

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

多々良
(051)

2022/09/15追加
多々良は東区多々良1丁目から
 元年実測図では多田羅と津屋が一体化しています。その街の中心に二宇(鳥居マーク)が、その北東には二山(卍)が並んで見えますが、それぞれ西が多々良の若八幡宮(多々良1丁目27)と顕孝寺(多々良1丁目28)、東が津屋の老松神社(多々良1丁目36)と妙正寺(多々良1丁目31)です。この位置関係を見ると、どこまでが多々良村でどこからが津屋村か、いよいよわからなくなります。(

現在の顕孝寺の隣りに顕孝寺跡(多々良1丁目27)がありますが、これが拾遺の津屋村欄に書かれた顕孝寺旧址(臨済宗 顕孝禅寺)でしょうか。また、津屋村の東に「文」が描かれていますが、多々良小学校(昭和元年時は多々良尋常高等小学校)は明治33(1900)年に現在の場所(多々良1丁目56)に移転したそうです。

筑前國續風土記には、津屋村は元は松崎にあって下多々良村と呼ばれていたが、立花城主 戸次道雪によって多々良村の東に移されたとなっていますので、元々同じ村から上下に分かれ、江戸期を通じてまた二村は一体化していたのでしょう。この多々良1丁目の津屋域から見つかれば津屋1のはずですが、残念ながら見つかりません。元年実測図に掲載のある大橋と濱田は017大橋欄に。

今昔マップ(福岡 大正15年測図<1922〜1926>)で見ると、松崎 今屋敷の北に陣ノ越が描かれていますが、多々良浜の戦い(延元元<建武3/1336>年)に於いて、足利尊氏が本陣を構えた場所と言われています。現在は福岡市水道局 松崎配水場に沿って道が設けられており、全長1Km程でしょうか静かな遊歩道となっています。(陣ノ越は場所的に019本村<松崎>欄に書こうかとも思ったのでのですが、拾遺には多々良村欄に「陣の越」が書かれています。)



元年実測図の濱田には、その多々良浜の戦いの古戦場の地図記号が描かれています。
拾遺には、若八幡宮は「産神と均しく祀れり」となっており、香椎村香椎宮の欄に多々良を含む十二村の産神は香椎宮と記載。

津屋2
(051)

2022/09/15追加
津屋2は東区多の津5丁目から
 15年地図には津屋の本村(ややこしい話ですが、津屋本町は七清水)はもう欄外ですが、6−イに七清水の記載があります。元年実測図で見ると、多田羅と津屋の町が一体化して多々良川北岸に描かれており、15年地図七清水と同じ場所と思われる須恵川北岸には沖の町が見えます。筑前國續風土記拾遺には津屋村の民居として、本村 七清水(「ななしゃうず」とルビが振ってあるので、読みは「ななしょうず」か)と書かれています。

福岡県神社誌(下巻382P 同誌は国立国会図書館のデジタルコレクションで読めます)を見ると、津屋天神社(多の津5丁目10)の住所は多々良村大字津屋字七清水となっています。

津屋(多々良1丁目)と七清水(沖/津屋本町/多の津5丁目)は同じ津屋村域ですが、間に広大な福岡流通センターを挟みます。元年実測図では津屋と沖の間には田が広がっていますが、拾遺には「宝永元(1704)年にこの村の境内、多々良川西を開発して三方に土手を築き、三十五町九反四畝余の地を開き田んぼとした。これを六ツ田という。」と記されています。

福岡流通センターは昭和46(1971)年造成開始ですが、一軒二軒ならまだしも集落を移転させてまで作らないでしょうから(その場合、集団移転の記録が残る)、1704年に開墾された田園が1971年でもそのまま田畑だったのでしょう。

拾遺には下記老松社と共に親王社の記載もありますが、東区若宮1丁目14にあった親王宮が該当し、親王宮まで津屋域だったようですが、現在親王宮は基礎だけを残し、建て壊されています。どちらかに合祀されたのかとも思いますが、敷地内の猿田彦などはそのままです。
拾遺には老松社(老松山/老松神社は多々良1丁目36)のことも書かれていますが、津屋村の産神は香椎宮と記載。

汐井町
(056)

2020/06/15追加
汐井町は東区箱崎2丁目から 同じく箱崎2丁目
 15年地図記載なし。同地図5−ニ・ホに福岡市馬出側の地名として井町が記載されていますが、馬出と両塩(汐)井町だったというには両町は離れすぎています(糟屋郡箱崎町が福岡市に編入されるのは昭和15年で、同地図では馬出潮井町の東を市郡境<―・・―>の地図記号が走る)。また糟屋郡箱崎町側の地名として4−ホに井浜町が見えますが、こちらは埋め立て新地名でしょう。一方で汐井公園(東区箱崎ふ頭2丁目1)は、汐井町から名を採られたのでしょう。

同地図に記載がある新国道(現国道3号線)は、拡張はあるにしてもその道筋は変わらないのでしょう。湾鐵電車線の線路が9号千代北緑地(博多区千代5丁目3)から第8号馬出緑地(東区馬出3丁目)を経て、現在の網屋松原通りに当たるようです。たぶん、現在の福岡市営地下鉄貝塚線 箱崎九大前駅(東区箱崎3丁目26付近)と湾鐵電車線 箱崎松原駅はほぼ同じ場所にあるのでしょう。

汐井町は国道3号と網屋松原通りの間にある、東西筋である二筋から出て来ます。

15年地図には埋め立て地(3・4−ロ〜ホ)に東から、高須磨町・葺ヶ浦町・貝塚町・鎮西町・小石町・高松町・飛島町・小松町・唐船町・中松町・船津町、舟入場(箱崎漁港)を挟み潮井浜町の記載があります。近隣の字を採った新地名でしょうが、現在も残っているのは、東から高須磨町バス停や高須磨団地は東区箱崎7丁目・貝塚町は町名としての東区貝塚団地など多数・高松団地は箱崎5丁目に・とびしまコーポが箱崎6丁目13に、小松町交番は箱崎6丁目12に、そして塩井浜が箱崎漁港に架かる汐井浜橋くらいでしょうか。

昭和10年(1935)年福岡市街地図名所案内や昭和11年(1936)年最新調査福岡市地図で見ると中松町が中村町となっており、これは命名早々に改名されたのか、単に間違ってしまったのか。

白浜
(058)

2020/06/15追加
白浜は東区箱崎2丁目から 同じく箱崎2丁目
 15年地図4−ニに白浜町として。15年地図には湾鐵電車線の線路沿いの東に白浜町が描かれています。058汐井町は網屋松原通りの西側から、白浜は網屋松原通りの東側から出て来ます。こちらも東西の筋です。

竪筋
(059)

202/06/15追加
竪筋は東区箱崎2丁目から 同じく箱崎2丁目から
 15年地図4−ニに網屋町と記載があり、本町(箱崎074網屋本)・新町(未発見)・竪筋の3町が描かれています。湾鐵電車線網屋駅の上(西)に竪筋が描かれていますので、現在の県道68号線が網屋町竪筋に該当し、県道68号を中心にその両側から出て来ました。国道3号線上に網屋筋バス停(東区箱崎2丁目42の先)として名を残しています。

立花寺
(062)

2021/02/01追加
立花寺は博多区立花寺1丁目から 立花寺2丁目からも
 席田郡の内、立花寺と金隈は15年地図から漏れているので元年実測図で見るしかありませんが、山王社(日吉神社)・攝(摂)取寺の西に街が広がっているのが見えます。

筑前國續風土記拾遺の記載によれば、同地に龍華寺(りゅうげじ)があったそうですが、天正(1573〜1593年)の兵火で焼失・廃されたとなっています。秀吉の九州平定時、天正14年の岩屋城の戦いか、それに続く立花山城の戦いのいずれかに巻き込まれたのでしょう。

龍華寺には6子坊があり、今も立花寺にある摂取寺と法行寺はどちらも龍華寺の坊であったと記されています。
産神は日吉神社(拾遺の記載は山王社/立花寺2丁目8) 日吉神社境内の先代(と思われる)狛犬は愛おしい。

平尾
(065)

2020/11/01追加
平尾は博多区東平尾2丁目から 同じく東平尾2丁目
 15年地図13−ロ・ハ。同地図13−ニには現在の福岡空港内に平尾新屋の町も見えますが、筑前國續風土記拾遺の平尾村の欄には「民居壱處(一処)にあり」とのことですので、平尾新屋は明治以降の新しい集落なのでしょう。そして1944(昭和19)年以降の席田(板付)飛行場開設・拡張で町と田畑を接収されてしまい、短命の町だったのでしょう。

江戸時代の席田郡平尾村(博多区東平尾)は、1889(明治22)年の町村合併で席田郡席田村(一郡一村)大字平尾となります。那珂郡平尾村(中央区平尾)は同年の合併で那珂郡八幡村大字平尾となっています。(1896<明治29>年に那珂郡・席田郡・御笠郡が合併し、両者とも筑紫郡。)

その後、1926(大正15)年に八幡村が先に福岡市に編入され、福岡市大字平尾となります。一方、席田村は1933(昭和8)年に福岡市に編入されています。Wikipediaによると、この福岡市編入時に(後の中央区)平尾との混同を避けるために東平尾と改称したとなっていますが、15年地図を始めとする福岡市編入から数年経った後の地図だけではなく、戦後に貼られたはず(九電の発足が1951<昭和26>年)の九電バッジにも東平尾ではなく平尾と記されています。

平尾は逆から見ると山口ですから、地名として付きやすい(その名から場所を特定しやすい)と言えるでしょう。
産神は牛頭天王八幡宮 (拾遺の記載は八幡宮 祇園神で寛永元<1624>年より相殿/博多区東平尾2丁目18)

雀居
雀居のNTT電柱表示は博多区東那珂2丁目から
 15年地図14−ニ・ホ。筑前國續風土記拾遺によれば、雀居(ささい)村は「むかしは平尾村の枝村なり」。

その後は他の席田郡席田村に属した地域と同じように、1933(昭和8)年に福岡市に編入されています。さらに住居表示時に博多区東那珂の一部となりましたが、雀居という地名は消えたわけではなく、福岡市に現存しています。

 
福岡空港内に博多区大字雀居

同じ席田村の平尾・下臼井から九電バッジが見つかっていますので、雀居にも貼られていたはずですが、残念ながら見つかりません。また雀居を福岡営業所のページ内に貼り付けていましたが、旧席田村は箱崎営業所管轄で出て来ますので、こちらに移動しました。
産神は祇園宮(博多区東那珂2丁目5)

下臼井
(068)

2020/11/01追加
下臼井は博多区空港前3丁目から 同じく空港前3丁目
 15年地図10−ロ。下臼井が空港前1・2・3丁目に、上臼井が空港前4・5丁目と名前を変えたようですが、雀居と同じく両町名とも消えたわけではなく、福岡空港の敷地内を中心に大字上臼井・下臼井が現存しています。



空港前2・3丁目と空港前4・5丁目は、下・上臼井のそれぞれ最東部ということになるのでしょう。下臼井の産神 老松神社(空港前3丁目17)と上臼井の産神 寳満神社(空港前4丁目13)は同じ山(丘)の同じ斜面にあり、隣り合っているといってもいいほどの距離間です。15年地図を始めとする空港建設前の地図では、上臼井の寶満神社は現在地で確認できますが、下臼井の老松神社は掲載されていません。

しかし鳥居の銘などを見ると空港建設による移設ではなく、元々ここに鎮座されていたような感じ(ただし、福岡西方沖地震の被害を受けたようで、
全体的に新しい)ですから、本村が東の丘沿いにあり、現在の空港内は15年地図で見ると、田屋(筑前國續風土記拾遺には下臼井村の民居と記載)と菰田(同じく拾遺には青木村の民居と記載)の町が見えますが、その他にはほぼ民家はなく田畑だったのでしょう。

同じく下臼井の民居「二股瀬 大浦」については福岡045二股瀬にて。

上臼井に当たる博多区空港前4・5丁目及び青木からは、今のところ九電バッジを見つけられていません。
産神は上記。

御野立所趾

2020/11/01追加
大元帥陛下駐蹕之處 後ろの木が大正天皇のお手植えか?
 15年地図10−ロに御野立所趾の記載があります。博多区空港前2丁目4の空港前1号緑地に、大正天皇が大正5年11月13日に陸軍大演習の際に立ち寄られた旨の碑が建っています。現在は周りに民家が建ち並び、目の前には空港ターミナルが建っていることから眺望はありませんが、小高い丘の北端になっており、往時は北は博多湾・西の筑紫平野・東には三郡山地と三方が見渡せたのかも知れません。

本筋と外れますが、この時の陸軍大演習のための九州行幸は福岡・佐賀に足跡が残っており、私が今思い浮かぶだけでも、糟屋郡粕屋町長者原東6丁目には御野立所公園が、佐賀県鳥栖市の朝日山には御野立所碑が建っています。

また、鳥栖市曽根崎に建つ「聖駕駐蹕之地」碑の裏面には、この時の様子が記されています。現在のテーマである地名の件とはまったく関係なく、10年ほど前に書き写したものが残っていましたので紹介します。当時はまさかここにつながって来るとは思いもせず、白水淡関係で読んだものだったはずです。

表面
裏面
 
聖駕駐蹕之地
 揮毫は陸軍大將男爵 神尾光臣 
 此丘呼曽根崎寶 今上皇帝行幸之處(処)也地屬(属)肥前國基里邦成 一小丘雖不大  
 肥筑之平野可以展望矣大正五年十一月行陸軍大演習於肥筑之野也車駕
 西幸親統監之廣島小倉二師團為北軍熊本久留米二師團南軍総兵五萬飛
 行機隊始参加○月十一日兩軍俶戰於○○○○郡之地是○往○鳥栖町北軍
 陣田代福堂高橋南軍陣石崎水屋安良○○○○露營爲翌十二日黎明○駕○
 鳥栖至基里村駐馬小學校庭少憩馬進登曽根崎之丘時方卯牌曙光朕照紅櫨
 况遠自筑後川右岸水屋宮陣神代邇及酒井八坂戰方酣而勝敗未決互相突撃
 而白刄将相交地演習斯終○幾乎午寔吾西肥未曽有之盛事也越六年丁巳五
 月基山田代基里三村勝地保存會建石於聖上駐馬之處使後傳子孫○甘○
 愛陰之誠佐賀縣曁三養基郡亦協力助資速落之請余銘之銘日

 肥山峨○ 筑水溶溶 ○○戦野 飛機鬪空 ○旗○○ 士気隆隆
 天顔有喜 望南觀東 維斯少丘 餘光無窮 陸里郷當 子孫盡忠

 大正六年六月 西肥後学 安永葵謹選

北軍の広島師団・小倉師団が田代(佐賀県鳥栖市)・福堂(福童/福岡県小郡市)・高橋(福岡県三井郡大刀洗町)のラインに、南軍は熊本師団・久留米師団が石崎(福岡県久留米市北野町)・水屋(佐賀県鳥栖市)・安良(鳥栖市幸津町/御野立所碑が建つ朝日山の麓)の線に陣取り、総兵5万人が集結したと書かれていますので、それは壮大な演習だったのでしょう。

また飛行機隊も参加したと書かれていますが、小郡市に建つ近代の縣界標の欄に書きましたように、太刀洗飛行場は大正8年の開設です。大正5年時には所沢の航空大隊しかないはずですから、所沢からサルムソン2A2下に訂正があります)が飛来したのでしょう。この時代の飛行機は、少し地面を踏み固めれば空地のような滑走路で発着できましたが、この演習を踏まえて九州にも飛行場が必要ということになり、太刀洗飛行場の建設に至ったのでしょうか?

曽根崎に建つ碑には、演習が11月11・12日となっていますので、帰路に下臼井で休息を取られたようです。

(※)2021/08/15訂正追記
あらためて記述を検証していたところ、大正5年時にはサルムソン2A2はまだ導入されていないようで、モーリス・ファルマン1913型が4機飛来したようです。

北海門戸
(070)

2021/07/15追加
北海門戸は東区箱崎3丁目から
 15年地図4−ニ。一光寺(筑前國續風土記拾遺には「海門戸にあり」/箱崎3丁目28−40)の角に海門戸の記念碑が建っており、ここで南北海門戸に分かれていたとなっていますが、その通りに一光寺の北から北海門戸が、南から南海門戸が出て来ました。

15年地図では福博電車(昭和15年当時)貫線に海門戸停留場が見えますが、Train DBによると仮停留所となっていて、確かに戦後の地図や路線図を見ると海門戸停留場はありません。

南海門戸
(070)

2021/07/15追加
南海門戸も東区箱崎3丁目から 同じく箱崎3丁目から
 15年地図4−ニ。041新楽町で書きました通り、県道21号箱崎新道は新しい(道幅を広げられた)道ですから町丁境ではなく、箱崎新道の北からも南からも南海門戸は出て来ます。

昭和
(072)

202/07/15追加
昭和は東区箱崎3丁目から 同じく箱崎3丁目から
 15年地図4−ニに昭和町として。昭和町は070南海門戸072御茶屋跡に挟まれた南北筋になるのでしょう。                      

御茶屋跡
(072)

2021/08/15追加
御茶屋跡は東区箱崎2丁目から 同じく箱崎2丁目から
 15年地図4−ニ。網屋天神(箱崎2丁目10)の角に御茶屋跡の記念碑が建っています(御茶屋跡についてはこちらのHPが詳しい)。この記念碑前の南北筋が御茶屋跡筋となるようです。

この網屋天神の神域には、どちらが本社でどちらが末社かわからないくらいの神仏が集まっており、戦後の街の発展と共に維持できなくなった神仏がここに集められたのでしょう。それと共に多くの家神様や道祖神らしきものも奉納されており、当時の町の繁栄をうかがい知ることが出来ます。将軍地蔵・米一丸地蔵(共に箱崎6丁目6)でも同じような光景を見ました。

茶屋小路
(073)

2021/08/15追加
茶屋小路は東区箱崎2丁目から 同じく箱崎2丁目から
 15年地図4−ニには御茶屋前の地名が見えます。場所的にはほぼ同じですが、同地図の御茶屋前は東西筋であることを示しています(文字の向きが筋の向き)。一方、茶屋小路の小路は道が貫いていないことを表しており、昭和筋と御茶屋跡筋の間の南北の筋のようです。

網屋本
(074)
2021/08/15追加
網屋本は東区箱崎2丁目から
 15年地図4−ニに網屋町本町として。網屋天神の前の東西の筋が網屋町本町筋でしょう。白浜筋と網屋本町筋の間に網屋町新町筋があるはずですが、九電バッジを見つけることは出来ません。。

中央街
(074)
中央街は東区箱崎1丁目から 同じく箱崎1丁目から
 15年地図記載なし。箱崎町役場があったあたりが後の中央街のようです。                                            

馬場
(075)
馬場は東区箱崎2丁目から
 15年地図馬場本町は5−ニに記載がありますが、075馬場は箱崎2丁目から出てきており、それより若干西北でしょうか。                


画像を回転させていますが、実際は片方の釘が外れて剥がれかかっています。このようなものもよく見かけます。

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

 福岡営業所は福岡市内に留まっていますが、箱崎営業所はそのナンバーの振り方や、糟屋郡は炭鉱により町の発展が早かったことから、糟屋郡域
にも広がっているのではないかと感じていました。とりあえず志免町別府を見つけてしまい、どこまで広がっているのか楽しみでもあり、途方もない作業と
なりそうで少し怖くもあります。

別府1
(103)


別府1は糟屋郡志免町別府4丁目から
 15年地図には別府までギリギリ記載があり(10−イ)、志免村と書かれていますが、その前年の昭和14(1933)年7月には町政移行していたようです。最新福岡市地図改定新版なので、市外についてはいいかげんなのでしょう。17年地図では福岡市外は描かれず真っ白になっています。

同地図では筑前参宮鐡道(後の勝田線)かみかめやま(上亀山)駅の北に街が広がっています。ここが現在の別府1丁目(上亀山駅跡公園を含む南側)・別府4丁目(別府1丁目の北)になり、別府2丁目だけが県道68号線の南側にあります(別府3丁目は別府1・4丁目の西)。

別府1丁目からはバッジを見つけられていませんが、その北側の別府4丁目が別府1、南側の別府2丁目が別府2で出てきていますので、別府1丁目は別府1域だったと推測します。こう書くと九電バッジが貼られた時期から変わっていないように思いますが、別府が地番表示から住居表示になったのは平成22(2010)年のことで、つい最近まで1丁目・2丁目ではなく100番地とか1500番地とかいう表記でした。

別府2
(103)
別府2は糟屋郡志免町別府2丁目から 同じく別府2丁目
 別府として15年地図10−イ。 

別府3
(104)

2021/01/01追加
別府3は志免町別府西2丁目から 同じく別府西2丁目
 15年地図11−イに亀山炭鉱が見えますが、亀山八幡宮と象徴的な形をした斉藤池及びそれと連なる大正池(福岡市博多区青木2丁目)との位置関係から、別府西1丁目の工業地域が該当するようです。大字別府のうち、宇美川の南側が現在は別府西1〜3丁目となったようですが、当該地域からは別府3で出て来ます。

2枚が重ねて貼られてあるのも珍しいですが、モザイクで隠した番号は同じです。たぶん同一敷地内の外から見えない(九電が道路から確認できない)ところにもう一棟建物が建てられ、「00※」の後に「※−1」を追加したのでしょう。

別府3
(105)

2021/01/01追加
105別府3も志免町別府西2丁目から 同じく志免町別府西から 2023/03/15追加
 同じ別府西2丁目からでも、104は東寄り、105は西寄りから出て来ます。

昭和元年福岡市及近郊実測図  昭和15年最新福岡市地図改訂新版  昭和17年最新福岡市地図 をそれぞれ別Windowで開く

下和白
(169)

2022/10/15追加
下和白は東区和白丘3丁目から
 筑前國續風土記拾遺の下和白欄は、青柳 種信の編纂助手を務めた児玉 琢稿になっており、箇条書きになっていますが、民居として「本村及び相浦」の記載があります。円相寺(東区和白丘1丁目10)・大神(おおみわ)大明神社(大神神社/和白丘1丁目18)がそれぞれ「本村にあり」となっています。今昔マップから古賀 大正15年測図 昭和4.8.30発行で見ると、大神神社の鳥居マークの南、かつ円相寺の卍の西側に下和白の町が見えます。

本村域といえる国道495号東の和白丘1丁目からは171東区が、495号線西側の和白丘3丁目から下和白で見つかりました。相浦(相ノ浦)については174塩浜欄に。  
拾遺には「大神(おおみわ)大明神社 産神なり。上和白より勧進せり。」(大神神社/和白丘1丁目18)と記載があります。

東区
(171)

2022/10/15追加
東区は東区和白丘1丁目から
 上記のように下和白本村域からは「東区」で見つかりました。この東区が行政区(Ward)を指すならば、九電バッジは福岡市が政令指定都市になった1972(昭和47)年以降に貼られたことになりますが、昭和40年代後半に建てられた家はさすがに五萬とあり、それらの家で九電バッジが貼られているのを見ることはほぼ(家を建て替えた後、旧建物の標章類を一括して貼り換えてあるお宅はある)ありません。

また169下和白172塩浜の間に突然区(Ward)単位の大きな表記もしっくりきません。そもそも今まで見てきた九電バッジの名義は最大で大字(旧村)までです。箱崎営業所=東区+糟屋郡といってもいいくらいですので、この東区は行政区(Ward)を指しているわけではなく、何らかのBlockを指していると思うのですが、下和白地区から西区も見つけない限り詳細はわかりません。  

駅前
(172)

2022/11/15追加
駅前は東区和白4丁目から 同じく和白4丁目から
 筑前國續風土記拾遺(児玉稿)の上和白村欄には「本村中和白とも 向村上和白川向なり 大野 尾下(クタ)」の記載があります。また「村南に小川あり」と書かれています。現在の和白川は県道495号線以東が暗渠されていますが、大蔵池(東区高美台1丁目)からの流れをある程度追うことが出来ます。

和白川の北が本村ということがわかりますが、今昔マップから古賀 昭和25年三修 昭和27.12.28発行の該当域を見ると、和白東2丁目に中和白の字があります。

拾遺には「明光寺 向村末正にあり」の記載もあります。現在和白にあるのは明覚寺(東区和白東1丁目6)ですが、福岡市のサイト(2018年市政だよりの記事)によれば、「早良郡次郎丸の明光寺を、正保4(1647)年にこの地に移し明覚寺に改称した」となっています。

江戸初期に改称済みだったものが、なぜか江戸末期になっても旧称のまま記載されていますが、同一のお寺で間違いないのでしょう。和白東1丁目が向村に該当しますが、拾遺の「向村上和白川向なり」は、「向村(は)上和白(とも呼ばれ、本村の)川向いなり」という意味なのでしょう。同じく今昔マップから古賀 昭和25年三修 昭和27.12.28発行の該当域を見ると、和白東1丁目が上和白となっています。

上和白村域は、本村・向村となる和白東1・2丁目によさげなお宅が並んでいるのですが、当該地域からは九電バッジを見つけられず、徐々に調査範囲を広げて行き、和白1〜3丁目からも見つけられず、和白4丁目は最後に歩き、そこでやっと駅前の九電バッジを見つけることが出来ました。

和白3丁目側も駅前と呼ばれたのか、和白4丁目側だけが駅前だったのか、和白3丁目を含む他の地域から九電バッジ見つけられないので判断できません。現在は和白3丁目側が駅前のイメージがありますが、3丁目はJR和白駅の駅前で、4丁目が西鉄貝塚線の駅前だったのでしょうか。和白4丁目は新開という字だった形跡があります。

 和白新開2号公園は和白4丁目29(新開1号公園は未発見)

拾遺には「大神大明神(大神<おおみわ>神社<東区高美台2丁目24>) 高見 産神なり」と記されており、高「美」台は団地開発時の造名でしょうが、元々高見という字だったようです。

塩浜
(172)

2022/12/15追加
塩浜は東区和白5丁目から 和白5丁目14 産素根神社に
 筑前國續風土記拾遺の塩濱村欄(児玉稿)には「本村 五町西」との記載があります。今昔マップから古賀 昭和11年二修 昭和15.6.30発を見ると、塩濱(本村)の西側の「文」(和白小学校/東区塩浜1丁目6)の北側に五町の集落が、さらにその西側の「鳥居マーク」(四社神社/塩浜1丁目37)の東側に西の集落が見えます。

一つ新しい古賀 昭和25年三修 昭和27.12.28発行で見ますと、五町は五丁に、西は西方となっています。塩浜の本村は現在の和白5丁目域で、五町・西が現在の塩浜1丁目域(2・3丁目は埋め立て地)になるようですが、同地域を歩いても五丁橋くらいしか見つかりませんでした。

 五丁川に架かる五丁橋は塩浜1丁目10と13の間
産神は四所宮(四社神社/所在は上記)

塩浜
(174)

2022/12/15追加
174塩浜は東区和白6丁目から
 筑前國續風土記拾遺には、下和白村の民居として相浦(相ノ浦)の記載があり、「香椎社 相浦にあり。」とも書かれています。相ノ浦香椎神社(和白5丁目29)の周りが相ノ浦に該当し、下和白もしくは相ノ浦で出てくるかと歩いてみましたが、当該地区からは174塩浜で出て来ました。単純に九電の監理の都合かもしれません。
拾遺には「香椎社 相浦にあり。このところ(相ノ浦)の産神なり。」

出來町
(175)

202/02/15追加
出來町は東区奈多2丁目から 同じく奈多2丁目
 奈多については177前方の欄に。奈多2丁目の東側で「高浜」を探していたのですが、予期せぬ出来町を見つけてしまいました。出来町は「新町」を意味するのでしょうが、この九電バッジ以外には字名を示すものに出会えていません。左の頭番は「75」に見えますが、奈多全体が「175〜177」ですので、プレス間違いか年月が経つ間に消えたのでしょう。

牟田町
(175)

202/02/15追加
牟田町は東区奈多2丁目から
 西福寺を含む西福寺門前の通りの北側が牟田方(牟田町)に該当しそうですが、高浜公民館が牟田方公民館(奈多2丁目10)と同一敷地に背を向けて建っており、牟田方は西方と高浜に挟まれているのでしょう。

西方
(176)

2023/01/15追加
西方は東区奈多2丁目から
 奈多については、箱崎177前方に。西方は奈多2丁目の、西福寺門前の通りの南側が該当しそうです。西方公民館は奈多2丁目29に。

前方
(177)

2023/01/15追加
前方は東区奈多2丁目から 東区奈多3丁目からも
 筑前國続風土記拾遺の奈多浦欄(柳園稿)では「民居は一所にあり」となっており、今昔マップから古賀 昭和11年二修 昭和15.6.30発行で見ても奈多の地名しか見えないので、九電バッジも「奈多」で出てくるのではと想像していましたが、実際は多くの字に分かれて出て来ました。

このうち、前方・西方・牟田町(牟田方)は現在でもそれぞれ公民館を持っており、字として存在したことがわかります。高浜も独自の公民館(奈多2丁目10)を持っており、九電バッジの銘としてあってもよさそうです。高浜公園が東区三苫2丁目35にあり、高浜公民館と高浜公園の間が該当するのであろうと重点的に探してみましたが、今のところ見つけられていません。(高浜公園は三苫2丁目になりますが、三苫と奈多にまたがる両高浜だったのでしょうか。)

今昔マップから古賀 大正15年測図 昭和4.8.30発行で見ると、県道59号 海の中道はまだなく、西戸崎へ至る道は奈多の町中を通っています。この旧道沿いの奈多2丁目及び奈多3丁目全体から前方銘で見つかります。前方公民館は東区奈多3丁目19に。

筑前國續風土記には「元禄16(1703)年に塩浜を開き、塩竈塩屋を立てたところ、それから人が集まり塩を焼いた」と書かれています。

ついでに書きますと、今昔マップから古賀 大正15年測図 昭和4.8.30発行では博多湾鐵道の「なた駅」は、現在の奈多駅と雁ノ巣駅の間にあります。東区雁の巣2丁目11あたりでしょうか。現在の香椎線の線路はちょうどそのあたりで北にカーブして、県道59号 海の中道線と交差しますが、湾鐵線の線路は現在と比べてまっすぐに延びています。


湯浅踏切(雁の巣1丁目1の先)から雁ノ巣駅方面を見る(立ち止まらずに撮影)

ところが、一つ新しい今昔マップから古賀 昭和11年二修 昭和16.6.30発行では、奈多駅の東、現在の県道58号海の中道線 奈多団地入口交差点の南あたりに「なたひがし駅」が新設されています。さらにもう一つ新しい今昔マップ古賀 昭和25年三修 昭和27.12.27発行では、湾鐵線から国鉄香椎線になり、線路も現在と同じく北に折れていますが、「なた駅」も「なたひがし駅」も掲載されておらず、「わじろ駅」の次は現在の場所にある「がんのす駅」です。

そして今昔マップ古賀 昭和44年改測 昭和46.5.30発行で初めて現在の奈多駅の場所、旧「なた駅」と「なたひがし駅」の中間ほどに「なた駅」が掲載されています。
拾遺には「三郎天神社」(志式神社/拾遺には「宮山松林の中にあり」と記されており、現在の住所も奈多宮山1236)の記載がありますが、産神については言及がありません。

厂ノ巣西
(179)

2023/03/15追加
厂ノ巣西は東区雁の巣2丁目から
 「雁巣」は大字奈多(奈多村)の字になりますが、筑前國續風土記 拾遺の奈多浦欄には「民居は奈多一ヶ所」となっており、續風土記の奈多浦欄には「奈多の民家のあるところより志賀島まで、東西三里、北は大洋(外海)、南は入海(博多湾)にて、その間は白沙の洲なり。」と記されており、雁の巣・西戸崎ともに民家はなかったとなっています。

021黒崎の欄に書きましたように、福岡水上飛行場が昭和9(1934)年閉鎖、福岡第一飛行場として雁巣に移転しています。よって、今昔マップから古賀 大正15年測図 昭和4.8.30で見ても該当の場所には何もありません(同時点では雁巣に数軒の民家が見える)が、福岡 昭和11年二修 昭和15.4.30で見ると福岡第一飛行場が見えます。その時点でも雁巣の民家は存続していますが、福岡 昭和25年三修 昭和27.8.30発行では、雁巣飛行場(当時は米軍が接収)が拡張しており、雁巣の民家はなくなっています。

厂ノ巣南
(180)

2023/03/15追加
厂ノ巣南は東区雁の巣2丁目から 同じく雁の巣2丁目
 177前方欄にも書きましたが、今昔マップから古賀 大正15年測図 昭和4.8.30発行では、博多湾鐵道の「なた駅」は、現在の奈多駅と雁ノ巣駅の間にあります。東区雁の巣2丁目11あたりになり、現在ここには真新しい戸建て住宅が並んでいますが、その前は確か団地だったはずとGoogleストリートビューで2011年の画像を見たところ、4階建ての団地が3棟建っていました。(2011年12月時点ですでに入口が閉鎖されています。)

今昔マップから古賀 昭和11年二修 昭和15.6.30発行までは雁の巣2丁目7・9あたりは「奈多驛前」という地名ですが、一つ新しい古賀 昭和25年三修 昭和27.12.28発行では当該地域は「開」となっており、香椎線の開踏切(雁の巣1丁目2先)に名を残しています。

厂ノ巣西と南があるので北はあってもよさそうです。厂ノ巣西・南とも県道58号 海の中道の南側から見つかっており、雁の巣2丁目の海の中道よりも北側(雁ノ巣駅周辺)か、雁の巣1丁目の雁の巣病院よりも東側だろうと思い探しましたが、現在まで見つけられていません。

弘西
(212)

2023/06/15追加
弘西は東区弘から
 筑前国續風土記には志賀村の枝村として弘浦の記載があります。「島の西の端にありて西に向へり。向に島々見えて佳景なり。」と書かれています。現在は対岸の福岡タワー・福岡ドーム(運営会社のマーケティングの都合により、愛称はたびたび変わるでしょうが、そのたびに変更するのは面倒くさいのでこれで固定します)が手に取るように見えます。

筑前国續風土記付録には「天満宮 菅公を祭れり。相殿に牽牛・織姫をもまつる。」と天神社について、また香音寺(東区弘1299)記載があります。



志賀島の弘地区の西側からは弘西で出て来ました。

弘川
(212)

202/06/15追加
弘川は東区弘から
 弘地区の西側は弘西でしたし、近隣のバス停も「弘東口」ですので、ので、弘の東側からは広東で出てくるのかと思っていましたが、弘川で出て来ました。

弘は漁村です。一方で勝馬は農村で勝馬には港がありません。筑前国續風土記の勝馬村を見ても「皆農民なり。漁家はなし。」と書かれており、江戸時代からの農村だったことがわかります。勝馬からは今のところ九電バッジは見つかっていません。

棚ヶ浜1
(213)

202/07/15追加
棚ヶ浜1は東区志賀島から 同じく志賀島から
 志賀島にあった志賀島村・弘村・勝馬村は、江戸時代は那珂郡に属します。那珂郡は那珂川水系の村で構成されており、筑前國續風土記にも、「(延喜式神名帳には糟屋郡と記されているが、)いつの頃より那珂郡に属せしにや、いぶかし」とされています。

元年実測図ではぎりぎり志賀嶋村の掲載はありますが、それ以上の字は書かれていません。今昔マップから、福岡西部の各時代の地図を見ても字の記載はありませんので、多くても志賀・弘・勝馬の3種類程度だろうと事前に予測していたのですが、実際は多くの字で出て来ました。

棚ヶ浜1は志賀島小学校前あたりの県道542号(志賀島周回道路)よりも浜側から出て来ました。今昔マップから、福岡市西部 昭和47年修正 昭和47.9.30発行で見ると、陸地は現在の半部しかありません。

元々は御野立所趾15年地図10−ロ)欄で書きました、大正天皇の陸軍大演習時の九州行幸に際に、このあたりに御用生洲を作り、そこから埋立が始まったようです。

西方
(214)

202/07/15追加
西方は東区志賀島から
 今昔マップから、福岡市西部 大正5年測図 昭和4.10.30発行で見ますと、昭和5年に架かった志賀島大橋はまだなく、道切とされています。同地図時点で志賀島村の街の規模は現在とほぼ変わらず、志賀島小学校(同地図当時は志賀島尋常小学校)も現在の場所にあります。

西方はこの街の確かに西側から見つかりましたが、小路下(217)よりは東です。

上方上
(215)

202/08/15追加
上方上は東区志賀島から
 上方上は、志賀島村のたぶんメインストリートになるのでしょう、志賀海神社一の鳥居と志賀海神社をつなぐ参道上の、志賀海神社に近い北側から見つかりました。

志賀海神社は神功皇后伝説に基づいており、全国のわたつみ(綿津見/海)神社の総本社となるもののようです。実際に志賀の町を歩くと、当然近世以前は漁村として発達したのでしょう、町の西側は漁村らしい車が通れない路地が張り巡らされていますが、一方で近代以降の志賀海神社の門前町としての、そして観光地としての姿を見せています。

上方西
(215)

202/08/15追加
上方西は志賀島から
 上方上の南側、志賀海神社参道上から見つけたのですが、ペンキ上塗りされていて三文字目の「西」に自信がありません。一応拡大して、西以外には読めないと思っているのですが、実際は参道の東側から出てきており、再検討が必要だと感じています。

岡馬場
(217)

2023/09/15追加
岡馬場は東区志賀島から
 岡馬場は荘嚴寺(志賀島813)のそばから見つかりました。

小路下
(217)

2023/09/15追加
小路下は東区志賀島から
 小路下が志賀島の街の一番西から出て来ました。

西戸崎西区
(219)

202/05/15追加
西戸崎西区は東区大岳2丁目から 東区大岳3丁目からも
 西戸崎からは西戸崎上区・下区で出て来ましたので、大岳も大岳で出てくると思っていたのですが、西戸崎西区でした。

まず、今昔マップから 古賀 大正15年測図 昭和4.11.30発行で見ますと、糟屋郡和白村と同郡(明治22年の町村制発足時に、那珂郡より糟屋郡になる)志賀島村の境はここにありますので、海の中道海浜公園はほぼ志賀島村(西戸崎)域です。

福岡県立図書館デジタルライブラリから江戸時代の那珂郡郡絵図(年不詳)を見ましても、当然ながらまったく同じ形です。同絵図では大岳・小岳が描かれています。大岳には現在は大岳神社がありますが、筑前國續風土記の頃には「稲荷の小祠あり」となっています。

 
大岳(西の志賀海神社境内から)                   小岳(東の福岡マリーナ側から)

元年実測図で見ると、大岳に久保と若山の字が見えますが、久保のバス停は東区大岳2丁目3先に。

西戸崎下区
(220)

202/04/15追加
西戸崎下区は東区西戸崎4丁目から 同じく西戸崎4丁目
 筑前國續風土記の那珂郡志賀嶋の大嶽ならびに小嶽欄に、「このあたり内海(博多湾)にさし出たるところあり。西崎という。」と簡単に説明があります。福岡県立図書館デジタルライブラリから、江戸時代の那珂郡郡絵図(年不詳)では「サイトウ」となっています。

今昔マップから福岡西部 昭和25年三修 昭和27.8.30発行で見ますと、現在の西戸崎6丁目に藤棚の字が見えますが、藤棚バス停は西戸崎6−2、5−8先に。

西戸崎上区
(225)

202/04/15追加
西戸崎上区は東区西戸崎1丁目から 同じく西戸崎1丁目
 今昔マップから 福岡 昭和47年修正 昭和47.9.30発行で見ると、現在のマリンワールド海の中道から海の中道海浜公園に掛けてが、米軍キャンプだったことがわかります。


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