さて、この翌日(12月2日)白水は児玉に参謀懸章を剥ぎ取られるという事件が起きる。
この事件の「坂の上の雲」による記述も冒頭部分で引用しているので、まずはそちらをご覧戴きたい。
機密日露戦史による記述は、
『児玉将軍は、翌日自ら二〇三高地攻撃に任ぜる第七師団長の許なる高崎山山脚に至る。《中略》田中参謀をして精査せしめたる第七師団攻撃のための軍隊区分中(諸隊混淆して一枚の紙面に羅列しあり)同一歩兵中隊が両翼隊に加わりありしを発見し、参謀の一名に近づき、貴官は大学校にて何を学びしやと叫び、即座に徽章を奪った。』
となっている。
まず整理しなければならないが、「坂の上の雲」に出てくる参謀懸章(正確には参謀飾緒・参謀肩章とも)とは、元々参謀職にある者がその任務上いつもペンを必要としたために付けられるようになった、ペンを吊っておくための紐である。もちろん白水のこの時代の参謀懸章は参謀の職務を表す装飾的なモールであったが。
次に機密日露戦史にある徽章だが、これは陸軍大学校卒業生に授与される菊の花と星をかたどった卒業生徽章のことであろう。この徽章は江戸時代の百文銭に似ていたことから陸大卒業生は天保銭組と呼ばれていた。
「坂の上の雲」では参謀懸章を剥ぎ取られたとなっているが、「機密日露戦史」の児玉が旅順入りした時の記録は、全て著者の谷が、この時児玉に同行した田中(聞き取り時近衛師団長)に直接聞いて書いている。参謀懸章を剥ぎ取られるほうが多分に絵になるからであろうが、児玉が「貴官は大学校にて何を学びしや」と言ったところを見ても、事実は卒業生徽章を剥ぎ取られたのであろう。以後、卒業生徽章事件と呼ぶ。
引用した両資料にも白水の名前はない。白水の名誉を慮ってのことであろう。
この時、第七師団の参謀は、
参謀長 石黒千久之助中佐
参謀 白水淡少佐
参謀 竹上常三郎大尉
となっているが、これはどうも開戦時もしくは第三軍編成時の階級のようで、第七師団が旅順入りした時には、白水は中佐に、竹上は少佐に進級している。
さらに、「乃木希典日記」と津野田是重の「斜陽と鉄血」には、第七師団に「蟻坂少佐」参謀という人が出てくる。例えば「乃木希典日記」の11月19日には『朝第七師団参謀蟻坂少佐来着。』と。
この蟻坂少佐のことは、私が探した限り、他の資料(戦闘序列等)には全く出てこない。しかも、明治・大正期の陸軍の将官名簿にも該当者を見つけることが出来ない。少佐で参謀なので、陸大もしくは陸士卒だろうと思って探してみたのだが。しかし、当の第三軍司令部のトップ(乃木)と若いスタッフ(津野田第三軍参謀<少佐>)が、隷下の第七師団に蟻坂少佐参謀がいたと言うのだからいたのであろう。
「坂の上の雲」の記述を信ずると、卒業生徽章(参謀懸章)を剥ぎ取られたのは「少佐」なので、あるいは竹上かとも思ったが(蟻坂は陸大卒業生に名前を見つけることが出来ない)、全ての資料は白水が剥ぎ取られたことを示唆している。
なぜ、こんなことが起きてしまったのだろう。
第七師団はほんの数日前(11月30日)から初めて日露戦争の実戦に入り、その間に膨大な犠牲が出ており、白水自身呆然とするような気持ちだったかもしれない。しかも、急遽隷下に入った第一師団所属の隊についても、その部隊番号に慣れない第七師団参謀が攻撃用地図に記入しなければならなかった。
さらに、参謀が現地を見に行くなと言うのは、第三軍伊地知参謀長の方針だから、新着のまだよく状況がわからない師団参謀にはどうしようもないだろうし、もし、行ったとしてもこの数日の激戦はとても短時間(この地図は一晩で仕上げるように命令されていた)で見て回れるものではなかっただろう。師団としては、とりあえず旅団司令部から上がってくる情報を書き込むしかなかったではなかろうか。
もちろん、これらは言い訳にならない。参謀の立てた作戦・司令官の発した命令の元、死んでいくのは徴兵された兵なのだから。
はじめここまで書いていたのだが、この卒業生徽章事件の当事者が本当に白水だったのかを知りたくて、多くの資料を当っていた。そして、決定的な記述を見つけた。意外な盲点で児島襄の「平和の失速」は白水の事を書こうと思った時に最初に読んだ本なのだが、「日露戦争」は読んでいなかった。
児島襄の「日露戦争」第3巻P280〜281を引用する。
『《12/1》<午後一時三十分>《中略》 ところが、田中中佐が命令に付属する軍隊区分をチェックすると、一枚の紙に羅列した部隊名の中で、同一中隊が別部隊として記載されているのに気づいた。
「同じ中隊が二つあります。一つは幽霊かもしれません」
「ウーム」
中佐の指摘をうけてうめいた児玉大将は、主務者である第七師団参謀白水淡中佐を招致した。
白水中佐が来ると、大将は中佐の上着に装着している陸軍大学校卒業徽章・通称「天保銭」を指して、怒号した。
「白水、貴様の天保銭をよこせッ。軍隊区分の書き方も知らぬ参謀が何になるかッ」
白水中佐は、とっさには唖然とするばかりだったが、田中中佐に問題点を指示されると、愕然として軍隊区分を再検討した。
攻撃計画は、なにぶんにも混淆した部隊を動員して実施するうえに、第七師団だけでなく第一師団の部隊もふくまれるので、間違ってしまったのである。
しかし、ミスはミスである。しかも、そのミスは、演習ならともかく、戦場では容易に損害に結びつく。白水中佐は、自責の念で顔色を変えつつ、命令を訂正した。』
児島襄に『混淆した部隊を動員して実施するうえに、第七師団だけでなく第一師団の部隊もふくまれるので、間違ってしまったのである。』と言ってもらえると、先の私の「急遽隷下に入った第一師団所属の隊についても、その部隊番号に慣れない第七師団参謀が攻撃用地図に記入しなければならなかった。」という記述も単なる私の白水に対するえこひいきではないような気がして少し楽になる。
「日露戦争」(児島襄)には、この卒業生徽章事件は12月1日のことで、視察は翌2日に児玉から命令されたことだと書かれている。「日露戦争」(児島襄)でも白水・岩村・国司チームが視察に出たことになっている。
『《前略》二0三高地定偵察を指示した。
同高地西南部の一角を保持しているので、そこからの敵艦隊の視認状況、観測所適地の調査を目的にするが、大将は、第一線に参謀が出かけない点について将兵に不満があることを知っているので、参謀差遣を指令した。
第七師団参謀白水中佐、海軍連絡参謀岩村中佐、総司令部から派遣されていた参謀国司伍七大尉の三人が出かけることになった。
白水中佐は、新しい衣服に着がえて、決死を覚悟した。
「白水ノ出発ニ際シテハ、乃木将軍ハ起キテ握手シ決別セラレタルガ、児玉将軍ハ冷然トシテ何モナサレザリキ。蓋(けだ)シ大イニ鞭撻セラルル意ナラン」
三人の参謀は、現地に到着すると、寒風が吹く高所であるが、敵に発見されるのを避けるために「濡れ蓆(むしろ)」をかぶって這いまわり、偵察をつづけ、午後四時ごろ無事に帰還した。
「旅順港内はすみずみまで見えた。敵艦七隻のほかに数隻の汽船もいる」
三人の参謀は興奮し、児玉大将は、さっそく観測所の設置を指示した。』
よくわからなくなってきた。少し整理してみたい。
|
12/1作戦会議で命令
された前線視察
|
卒業生徽章事件
|
軍艦が見えるのか確認
のため203高地へ視察
|
機密日露戦史
(谷寿夫)
|
12/1
|
12/2
|
12/5
|
2,3の参謀
|
卒業生徽章
|
豊島の意思で観測所を設置
|
坂の上の雲
(司馬遼太郎)
|
12/1
|
12/3
|
12/5
|
大庭他2名
|
参謀懸章
|
観測将校
|
日露戦争
(児島襄)
|
−
|
12/1
|
12/2
|
卒業生徽章
|
白水・岩村・国司
|
乃木と東郷
(戸川幸夫)
|
−
|
−
|
12/2
|
白水・岩村・国司
|
これはどうも、「12月1日の作戦会議中に児玉が命令した視察」(203高地奪取確定前)と「軍艦が見えるか確認のために203高地への視察」(203高地奪取後)が混同されているのではないか?
私が混同しているだけかと思ったが、「日露戦争」(児島襄)・「乃木と東郷」とも12月2日の視察が「軍装を改め」(これは機密日露戦史にはない)・「乃木との握手・児玉は無視」等機密日露戦史でいう12月1日の作戦会議中の視察と同じ視察であることを示唆している。
まず、12月1日児玉来着後すぐに開かれた作戦会議に於いて、児玉の命令下3人の参謀が「前線」の視察に出かけた。(大庭・白水もう1名)
翌2日、第七師団本部まで視察に来た児玉により、卒業生徽章事件が起きた。
5日、203高地奪取後すぐに敵弾の落下をくぐって、203高地から旅順港内の敵艦が見えるか確認のため、白水・岩村・国司が203高地頂上へ走った、と考えるとすっきりするのだろうか?
しかしそうなると、203高地頂上へは敵艦の艦型をそらんじている海軍の岩村は適任としても、一人くらい砲科出身将校が行ったのではないのだろうか? 野戦砲兵1連隊しか持っていない師団の参謀と、そもそも(戦争の当事者ではあるが)戦闘の当事者ではない満州軍司令部の参謀、しかも両者歩兵科出身の白水・国司の2人が行ったのだろうか?
しかも、『第一線に参謀が出かけない点について将兵に不満があることを知っているので』(日露戦争・児島襄)という理由ならば、旅順入りして10日ほどしか経っていない白水、陸軍の人間ではない岩村、第三軍の指揮系統にいない国司というメンバーはいかにも不自然で、釈然としないものが私の中に残る。
この「坂の上の雲」と「日露戦争」(児島襄)の卒業生徽章事件の記述史料が違うような気がする。「坂の上の雲」は匿名(史料も匿名だった可能性が高いのでは?)なので、実際に引きちぎられて、不貞腐れているが、階級(少佐と中佐)や小道具(参謀懸章と陸大卒業生徽章)が決定的に違う。「日露戦争」(児島襄)は実名であるがために少し穏やかだ。(よこせと怒鳴られただけで実際に剥ぎ取られてはいないし、自責の念を感じている。)
「機密日露戦史」との記述ともまた違う。この3つの資料をうまく合わせると真実になるのかもしれない。いずれにしても、この事件を現認したのは現場にいた陸軍軍人のみだろうから、後の白水中将を多少は憚り、また、同情を感じていたのかもしれない。
この卒業生徽章事件は白水の一生の心の枷となったが、そのことはいずれまた稿を改める。
|