日露戦争第七師団動員


 第七師団


 いよいよ登場する第七師団について触れる。

 陸軍の第一〜六師団が鎮台を基にしているのに対し、第七師団は北海道の開拓と北方の防衛のために創設された屯田兵を母体としている。師団となったのは1896(明治29)年だから、他の第一〜六師団(1888《明治21》年)に比べて少し遅い。屯田兵というと一具領足の長宗我部侍や薩摩郷士を連想して、いかにも強そうなのは単なる私のイメージだろうか?

 第七師団は師団編成地を札幌に置き、北海道と東北の兵で構成された。初代師団長は薩摩出身の永山武四郎少将→中将で、第二代(1900<明治33>〜1906<明治39>年)が同じく薩摩の大迫尚敏中将だ。大迫が率いて日露戦争に出征することになる。

 大迫についてはここで触れるまでもないが、薩英戦争を満18歳で戦って以来、戊辰・西南・日清と日本で起こった国内・対外戦争をほとんど全て戦ってきたような男だ。ちなみに1844(弘化元)年生まれの満59歳だから、老人の為第三軍司令官になれなかった佐久間左馬太大将と同じ歳だ。

 さて、第七師団は10月頃輸送地の大阪に集められる。この時期になってもまだ満州軍司令部と大本営の間で、第七師団をどう使うかについて電報が交わされている。

 大本営としては第七師団を第三軍に加えれば『あたら旅順塁下の骨となり、最初の突貫で師団の大部分はなくなる』(長岡外史参謀次長の日記)、しかしこのまま旅順が落ちないと海軍は動きが取れないし、遼陽の北方軍を増派することも出来ない。

 結局、11月10日(9日付)大山巌満州軍司令官から山縣有朋元帥への電報(前日の山縣からの電報への返電)で、強く第七師団の旅順派遣を求められ、即日山縣が参内して御裁可を得た。

 11月11日、第七師団はついに第三軍隷下に入り、13日より輸送地大阪から乗船を始める。

 第七師団の編成は、

  歩兵第十三旅団 − 第二十五・二十六連隊

  歩兵第十四旅団 − 第二十七・二十八連隊

  騎兵第七連隊 − 第一・二中隊

  野戦砲兵第七連隊

  工兵第七大隊  他  である。

 乃木の日記には11月21日に『午後《大迫》第七師団長、斎藤《太郎歩兵第十四》旅団長《少将》来着』となっているので、この辺りで第七師団が旅順の地に揃ったのだろう。



 第三回旅順総攻撃


 第三回総攻撃は11月26日始まったが、この時の部署は、

 右(松樹山) 第一師団

 中央(二竜山) 第九師団

 左(東鶏冠山) 第十一師団 である。

 地図を見ないとわかりにくいが、これはいずれも旅順の東部で、旧市街地を「抜く」ための正面攻撃である。203高地は新市街地の北部にあるが、この時点で203高地へ向かうのは、後備歩兵第一旅団長友安治延(少将)率いる第一師団の右翼隊と中央隊の右翼部隊(第一師団歩兵第一連隊長寺田錫類中佐)だった。

 26日朝に始まった総攻撃だったが、夕方には各師団の突撃がことごとく失敗に終わり、膨大な損害であることが判明する。この間、芳しくない状況を見て、乃木は特別支隊(白襷隊)を編成し支隊長中村少将に決死の突撃を決行させた。しかしこれもうまくいかず、多大な犠牲を払いながら同日中には退却する。

 27日に日付が変わって、消耗の激しい第九師団に対して、予備軍の第七師団の中から第十四旅団司令部及び第二十八連隊を割いた。

 乃木は第九師団に午前3時半「夜明けから砲撃を開始し、午後2時突撃開始」の命令を出す。しかし、夜明けとともに、前日の総攻撃の惨憺たる結果が次々と報告されてくる。

 ここに至ってついに乃木は決断した。午前10時新たな命令を出す。

 「要塞正面の攻撃を中止して203高地を攻略する」と。

 それを受けて砲も目標を転換し、二十八サンチ榴弾砲以下を203高地に集中させた。203高地のロシア軍堡塁は、第一回総攻撃後ロシア軍によって急遽補強増加されたものであり、正面の永久堡塁への砲撃に比べて砲撃の効果が上がった。

二十八サンチ榴弾砲(大本営写真班撮影)

 27日夜から始まった第一師団の203高地に対する突撃は、一進一退の攻防を繰り広げながらも、日本軍側の攻撃は成果をあげられない。

 28日になって第三軍・ロシア軍ともに203高地に兵力を集中し始める。

 予備の第七師団からも、第二十六連隊第二大隊・第二十五連隊第三大隊等が、第一師団の元へ走っている。

 乃木はこの戦況不利な状況の中、「すでに203高地の戦闘は両軍の決戦」とし、使用できる現有兵力全てを203高地に向ける決心を固める。

 29日午前4時第七師団に命令が下り、第七師団長大迫が第一・七両師団の統一指揮を取り203高地へ向かうこととなった。(大迫に第一師団の指揮を併せて取らせたことは、後で多少問題となったようだ。)

 大迫と第一師団長松村務本(中将)はその朝、高崎山(164高地)に登り、松村から説明を聞き、30日朝からの再攻撃を決定した。その29日夜、児玉源太郎満州軍総参謀長(大将)は副官として田中国重満州軍参謀(中佐)だけを連れて旅順へ出発した。

 出発に先立ち松川敏胤満州軍高級参謀(大佐)は大山に『「予に代り、児玉大将を差遣す。児玉大将のいうところは、予の言うところと心得べし。』との書状をしたためて児玉に持たせるよう請求、児玉は始めそんなものは不要だと言っていたものの、松川が熱心に説くため持って行くことにした。

 30日午前6時から203高地に向かい二十八サンチ榴弾砲を含む計130門の砲撃が始まり、午前10時を期して歩兵の突撃を開始した。

 日本軍の一部は膨大な犠牲を払いながら山頂へたどり着き、白兵戦をもってついに午後10時頃これを奪う。西南部の堡塁には香月中佐率いる歩兵第二十六連隊の一部・後備歩兵第十五・十六連隊等が、東北部の堡塁には村上大佐が率いる歩兵第二十八連隊を中心とする隊が敵を追い出し潜り込んだ。ここにロシア軍は予備隊を投入し、激しい逆襲を加えた。生存者わずか40人あまりで東北部の堡塁に潜り込んでいた村上隊は、残弾が尽き支えることが出来なくなり、夜明け前闇にまぎれて撤退した。

 30日夜、このことをもって、第三軍より満州軍総司令部に「203高地を確実に占領した」旨打電する。総司令部はすぐに各軍に、陸相は議会にこのことを報告するが、第三軍は翌12月1日午前7時「再度ロシアに奪還された」と打電する。この次報は各軍にも議会にも秘匿された。「坂の上の雲」では、児玉が汽車の中でシャンパンを開け乾杯した時と、翌朝洋食のフォークとナイフを投げ捨てて田中を怒鳴った時がここに相当する。

 12月1日、大山より第三軍に訓令が出る。「坂の上の雲」にも出てくる「203高地に関する戦況不明なるは、指揮統一の宜しきを得ざること多きに帰せざるべからず。」という『叱責で始まる』(坂の上の雲)例のやつだ。後ニ項は、「司令部と予備隊の位置が遠すぎて敵の逆襲に対応できていない。」ことと、「明朝の攻撃には司令部を前に出して、自ら地形と時機を観察し、確実に占領せよ。」と。さらに、「『尚総司令官の名を以って、第三軍の作戦を指導せしむるため、児玉参謀長を差遣せしむ。』歩兵第十七連隊(児玉の請求)を明朝鉄道にて送るので、この連隊の使用に関しては、本官(大山)の名を持って児玉の指示に従え。」となっている。

 12月1日の訓令で、児玉派遣の理由が「第三軍の作戦を指導するため」「新たに送る予備隊の使用は児玉の指示に従え」とはっきり述べられており、訓令である以上第三軍司令部は児玉来訪の目的を全て知っていたはずである。

 児玉と田中は。途中迎えに来た大庭二郎第三軍参謀副長(中佐)と共に、12月1日正午頃柳樹房(第三軍司令部)に着いた。乃木と二人きりで会見した児玉は『軍司令官《乃木》に対して、予《児玉》は友人として腹蔵なき意見を開陳したし。これが為要すれば一時軍司令官の指揮権を借用したきを以て、希くは貴兄の代理たる一筆の添書きを授けられたしと。』『乃木大将は快諾の上、書状を児玉大将に付与した。』(機密日露戦史)

 これをもって、児玉は第三軍作戦会議を招集する。



 集中する砲弾の下へ視察


 そして作戦会議が開かれた。ここで児玉は二つの命令(重砲陣地の高崎山への転換・203高地占領後の二十八サンチ砲連続射撃)を出し、第三軍の砲兵専門家達と問答を拡げるが、結局は児玉の命令を押し通す。

 さらに、第三軍司令部が後ろにありすぎて状況がよく掴めていない事、参謀が前線に視察に行っていない事(どちらも伊地知幸介第三軍参謀長<少将>の方針)を取り上げ、大庭に今すぐ前線に視察に行くように命令する。

 「坂の上の雲」によるこの時の模様は、このホームページの冒頭部分に引用しているので、そちらをご参照いただきたい。

 機密日露戦史によるこの時の状況は、

 『第一線の状況に暗き幕僚は用をなさずと述べ、即刻二、三の参謀に第一線の視察を命じた。乃木将軍はその出発に当るや、自ら起《た》ちて握手し、危険地帯通過の労を犒う《ねぎらう》所あったが、児玉大将は一揖《軽い礼》することなく厳然たる命令を発せり。』

 となっている。

 「乃木と東郷」(戸川幸夫)にもこの時の模様が出てくる。

 『彼《児玉大将》は翌朝、第七師団参謀の白水(淡、後中将)中佐、総司令部の国司参謀、それに連合艦隊から派遣されてきていた参謀岩村(俊武、後の中将)中佐の三人を読んで山頂に登れと命じた。

 「山頂からは港内がよく見えるはずだ。敵艦の状況を偵察して報告しろ、すぐに砲撃し、撃沈するから・・・」

 三人の参謀も面くらった。高地が占領されてから、そこに観測所を設けて砲撃を開始するというのが常識であるが、児玉はわずか百名ほどの兵がしがみついているところへ出そうという。敵の猛砲撃と逆襲は寸時も休みがなくて、いつ全滅するかわからない状態である。ずいぶんと乱暴な話だが、今や常識でやっていては間に合わないのだ。三人の参謀はぐっと唾を呑んで、すぐに身支度にかかった。十中八、九は生還できない。三人は遺品を整理し司令部を出た。

 「白水君」

 出発する白水参謀を乃木は呼びとめて手を差しのべた。

 「ご苦労、しっかりな」

 白水は乃木の手を握り返して、

 「お世話になりました」

 と言った。永別の挨拶だった。』

 ここでは白水と岩村そして国司伍七満州軍参謀(大尉)が前線視察に出たことになっている。日付も作戦会議の翌2日朝のこととなっている。ちなみに白水敬山の「自屎録」にもほぼ同じ話がでてくる。同じなので割愛したが、「自屎録」の掲載内容はこちらに記載した。

 本編とは関係ないが、過日、岩村中佐は旅順攻略が思い通り進まないことに焦燥し、感情的になり、『乃木、伊地知両官を突付くに至れり。』(機密日露戦史)という行動に出てしまう。機密日露戦史を書いた谷も、当時現役の陸軍の人間だから遠慮がちに書かれているが、この「突付く」は胸倉くらいは掴んだのかもしれない。この件は当然問題となったが、乃木が「岩村の唾をあびただけでどうっていうことはなかった」と言ってくれたため助かった。乃木は部下(若い人)には優しい男であった。

 この時に視察に出たのは本当は誰であろうか? 「乃木と東郷」では視察の目的が「敵艦の状況の偵察」だから、海軍から第三軍に連絡のため派遣されていた、ロシア軍艦の艦型をそらんじている岩村が行くのが当然のような気もする。

 この時に前線視察に出た三人を、大庭、白水の二人ともう一人、納得できる名前が書いてあった史料があったと思い探しているのだが、それを読んだ時にはまだ私自身に白水のことをまとめるつもりがなかったので、資料としてファイルしていなかった。今、該当資料を見つけられない。

 大庭は第三軍の参謀副長だし、白水は現に203高地攻めを行っている第七師団の先任参謀だから、この場合彼らが行くのが当然だろう。さらに大庭は陸士(旧8期)・陸大(8期)共に白水の一期先輩だから、この辺は打てば響く間柄というか、大庭が児玉に指名された時点で、白水も自分が同行すべしと思っていただろう。

 児玉はこの旅順で、伊地知的な物を全て否定する気でいたようだ。その一つがこの作戦会議中、唐突に出てきた緊急視察だろう。

 さらに言えば、児玉が本当に怒鳴りたかったのは伊地知であろう。しかし、少将級の人間を多くの部下がいる人前で罵倒すれば(この会議の前二人で会って怒鳴ったようだが)、伊地知はその名誉を保つため自ら腹を切るしかないだろうし、薩摩閥という派閥に依るなら児玉を切るしかなかっただろう。そして伊地知が腹を切るなら、乃木もまた彼の性格やその人生最後の行動からして、無関係を装いはしなかったであろう。

 児玉側の事情で言えば、開戦前参謀本部に於いて、児玉次長の指導下、旅順における正面攻撃作戦を作成した者の一人が、当時参謀本部詰だった大庭だ。自ら(児玉も大庭も)が計画した攻撃方法が、何度(ロシア側に)拒絶されても形を変えずに人(日本兵)を殺していることは、児玉にとって耐えられないことであったかもしれない。



 参謀懸章事件 その真相


 さて、この翌日(12月2日)白水は児玉に参謀懸章を剥ぎ取られるという事件が起きる。

 この事件の「坂の上の雲」による記述も冒頭部分で引用しているので、まずはそちらをご覧戴きたい。

 機密日露戦史による記述は、

 『児玉将軍は、翌日自ら二〇三高地攻撃に任ぜる第七師団長の許なる高崎山山脚に至る。《中略》田中参謀をして精査せしめたる第七師団攻撃のための軍隊区分中(諸隊混淆して一枚の紙面に羅列しあり)同一歩兵中隊が両翼隊に加わりありしを発見し、参謀の一名に近づき、貴官は大学校にて何を学びしやと叫び、即座に徽章を奪った。』

 となっている。

 まず整理しなければならないが、「坂の上の雲」に出てくる参謀懸章(正確には参謀飾緒・参謀肩章とも)とは、元々参謀職にある者がその任務上いつもペンを必要としたために付けられるようになった、ペンを吊っておくための紐である。もちろん白水のこの時代の参謀懸章は参謀の職務を表す装飾的なモールであったが。

 次に機密日露戦史にある徽章だが、これは陸軍大学校卒業生に授与される菊の花と星をかたどった卒業生徽章のことであろう。この徽章は江戸時代の百文銭に似ていたことから陸大卒業生は天保銭組と呼ばれていた。

 「坂の上の雲」では参謀懸章を剥ぎ取られたとなっているが、「機密日露戦史」の児玉が旅順入りした時の記録は、全て著者の谷が、この時児玉に同行した田中(聞き取り時近衛師団長)に直接聞いて書いている。参謀懸章を剥ぎ取られるほうが多分に絵になるからであろうが、児玉が「貴官は大学校にて何を学びしや」と言ったところを見ても、事実は卒業生徽章を剥ぎ取られたのであろう。以後、卒業生徽章事件と呼ぶ。

 引用した両資料にも白水の名前はない。白水の名誉を慮ってのことであろう。

 この時、第七師団の参謀は、

 参謀長 石黒千久之助中佐

 参謀   白水淡少佐

 参謀   竹上常三郎大尉

 となっているが、これはどうも開戦時もしくは第三軍編成時の階級のようで、第七師団が旅順入りした時には、白水は中佐に、竹上は少佐に進級している。

 さらに、「乃木希典日記」と津野田是重の「斜陽と鉄血」には、第七師団に「蟻坂少佐」参謀という人が出てくる。例えば「乃木希典日記」の11月19日には『朝第七師団参謀蟻坂少佐来着。』と。

 この蟻坂少佐のことは、私が探した限り、他の資料(戦闘序列等)には全く出てこない。しかも、明治・大正期の陸軍の将官名簿にも該当者を見つけることが出来ない。少佐で参謀なので、陸大もしくは陸士卒だろうと思って探してみたのだが。しかし、当の第三軍司令部のトップ(乃木)と若いスタッフ(津野田第三軍参謀<少佐>)が、隷下の第七師団に蟻坂少佐参謀がいたと言うのだからいたのであろう。

 「坂の上の雲」の記述を信ずると、卒業生徽章(参謀懸章)を剥ぎ取られたのは「少佐」なので、あるいは竹上かとも思ったが(蟻坂は陸大卒業生に名前を見つけることが出来ない)、全ての資料は白水が剥ぎ取られたことを示唆している。

 なぜ、こんなことが起きてしまったのだろう。

 第七師団はほんの数日前(11月30日)から初めて日露戦争の実戦に入り、その間に膨大な犠牲が出ており、白水自身呆然とするような気持ちだったかもしれない。しかも、急遽隷下に入った第一師団所属の隊についても、その部隊番号に慣れない第七師団参謀が攻撃用地図に記入しなければならなかった。

 さらに、参謀が現地を見に行くなと言うのは、第三軍伊地知参謀長の方針だから、新着のまだよく状況がわからない師団参謀にはどうしようもないだろうし、もし、行ったとしてもこの数日の激戦はとても短時間(この地図は一晩で仕上げるように命令されていた)で見て回れるものではなかっただろう。師団としては、とりあえず旅団司令部から上がってくる情報を書き込むしかなかったではなかろうか。

 もちろん、これらは言い訳にならない。参謀の立てた作戦・司令官の発した命令の元、死んでいくのは徴兵された兵なのだから。



 はじめここまで書いていたのだが、この卒業生徽章事件の当事者が本当に白水だったのかを知りたくて、多くの資料を当っていた。そして、決定的な記述を見つけた。意外な盲点で児島襄の「平和の失速」は白水の事を書こうと思った時に最初に読んだ本なのだが、「日露戦争」は読んでいなかった。

 児島襄の「日露戦争」第3巻P280〜281を引用する。

 『《12/1》<午後一時三十分>《中略》 ところが、田中中佐が命令に付属する軍隊区分をチェックすると、一枚の紙に羅列した部隊名の中で、同一中隊が別部隊として記載されているのに気づいた。

「同じ中隊が二つあります。一つは幽霊かもしれません」

「ウーム」

 中佐の指摘をうけてうめいた児玉大将は、主務者である第七師団参謀白水淡中佐を招致した。

 白水中佐が来ると、大将は中佐の上着に装着している陸軍大学校卒業徽章・通称「天保銭」を指して、怒号した。

「白水、貴様の天保銭をよこせッ。軍隊区分の書き方も知らぬ参謀が何になるかッ」

 白水中佐は、とっさには唖然とするばかりだったが、田中中佐に問題点を指示されると、愕然として軍隊区分を再検討した。

 攻撃計画は、なにぶんにも混淆した部隊を動員して実施するうえに、第七師団だけでなく第一師団の部隊もふくまれるので、間違ってしまったのである。

 しかし、ミスはミスである。しかも、そのミスは、演習ならともかく、戦場では容易に損害に結びつく。白水中佐は、自責の念で顔色を変えつつ、命令を訂正した。』

 児島襄に『混淆した部隊を動員して実施するうえに、第七師団だけでなく第一師団の部隊もふくまれるので、間違ってしまったのである。』と言ってもらえると、先の私の「急遽隷下に入った第一師団所属の隊についても、その部隊番号に慣れない第七師団参謀が攻撃用地図に記入しなければならなかった。」という記述も単なる私の白水に対するえこひいきではないような気がして少し楽になる。

 「日露戦争」(児島襄)には、この卒業生徽章事件は12月1日のことで、視察は翌2日に児玉から命令されたことだと書かれている。「日露戦争」(児島襄)でも白水・岩村・国司チームが視察に出たことになっている。

 《前略》三高地定偵察を指示した。

 同高地西南部の一角を保持しているので、そこからの敵艦隊の視認状況、観測所適地の調査を目的にするが、大将は、第一線に参謀が出かけない点について将兵に不満があることを知っているので、参謀差遣を指令した。

 第七師団参謀白水中佐、海軍連絡参謀岩村中佐、総司令部から派遣されていた参謀国司伍七大尉の三人が出かけることになった。

 白水中佐は、新しい衣服に着がえて、決死を覚悟した。

 「白水ノ出発ニ際シテハ、乃木将軍ハ起キテ握手シ決別セラレタルガ、児玉将軍ハ冷然トシテ何モナサレザリキ。蓋(けだ)シ大イニ鞭撻セラルル意ナラン」

 三人の参謀は、現地に到着すると、寒風が吹く高所であるが、敵に発見されるのを避けるために「濡れ蓆(むしろ)」をかぶって這いまわり、偵察をつづけ、午後四時ごろ無事に帰還した。

 「旅順港内はすみずみまで見えた。敵艦七隻のほかに数隻の汽船もいる」

 三人の参謀は興奮し、児玉大将は、さっそく観測所の設置を指示した。』

 よくわからなくなってきた。少し整理してみたい。

12/1作戦会議で命令
された前線視察
卒業生徽章事件
軍艦が見えるのか確認
のため203高地へ視察
機密日露戦史
(谷寿夫)
12/1
12/2
12/5
2,3の参謀
卒業生徽章
豊島の意思で観測所を設置
坂の上の雲
(司馬遼太郎)
12/1
12/3
12/5
大庭他2名
参謀懸章
観測将校
日露戦争
(児島襄)
12/1
12/2
卒業生徽章
白水・岩村・国司
乃木と東郷
(戸川幸夫)
12/2
白水・岩村・国司

 これはどうも、「12月1日の作戦会議中に児玉が命令した視察」(203高地奪取確定前)と「軍艦が見えるか確認のために203高地への視察」(203高地奪取後)が混同されているのではないか?

 私が混同しているだけかと思ったが、「日露戦争」(児島襄)・「乃木と東郷」とも12月2日の視察が「軍装を改め」(これは機密日露戦史にはない)・「乃木との握手・児玉は無視」等機密日露戦史でいう12月1日の作戦会議中の視察と同じ視察であることを示唆している。

 まず、12月1日児玉来着後すぐに開かれた作戦会議に於いて、児玉の命令下3人の参謀が「前線」の視察に出かけた。(大庭・白水もう1名)

 翌2日、第七師団本部まで視察に来た児玉により、卒業生徽章事件が起きた。

 5日、203高地奪取後すぐに敵弾の落下をくぐって、203高地から旅順港内の敵艦が見えるか確認のため、白水・岩村・国司が203高地頂上へ走った、と考えるとすっきりするのだろうか?

 しかしそうなると、203高地頂上へは敵艦の艦型をそらんじている海軍の岩村は適任としても、一人くらい砲科出身将校が行ったのではないのだろうか? 野戦砲兵1連隊しか持っていない師団の参謀と、そもそも(戦争の当事者ではあるが)戦闘の当事者ではない満州軍司令部の参謀、しかも両者歩兵科出身の白水・国司の2人が行ったのだろうか?

 しかも、『第一線に参謀が出かけない点について将兵に不満があることを知っているので』(日露戦争・児島襄)という理由ならば、旅順入りして10日ほどしか経っていない白水、陸軍の人間ではない岩村、第三軍の指揮系統にいない国司というメンバーはいかにも不自然で、釈然としないものが私の中に残る。

 この「坂の上の雲」と「日露戦争」(児島襄)の卒業生徽章事件の記述史料が違うような気がする。「坂の上の雲」は匿名(史料も匿名だった可能性が高いのでは?)なので、実際に引きちぎられて、不貞腐れているが、階級(少佐と中佐)や小道具(参謀懸章と陸大卒業生徽章)が決定的に違う。「日露戦争」(児島襄)は実名であるがために少し穏やかだ。(よこせと怒鳴られただけで実際に剥ぎ取られてはいないし、自責の念を感じている。)

 「機密日露戦史」との記述ともまた違う。この3つの資料をうまく合わせると真実になるのかもしれない。いずれにしても、この事件を現認したのは現場にいた陸軍軍人のみだろうから、後の白水中将を多少は憚り、また、同情を感じていたのかもしれない。

 この卒業生徽章事件は白水の一生の心の枷となったが、そのことはいずれまた稿を改める。



 旅順陥落


 5日、児玉は第一・七師団の師団長以下幕僚を引き連れて203高地が見渡せる高崎山(164高地)に登る。この時、203高地の一角を死守・苦戦している友軍を見、今度は同行の田中を叱る。この部分を機密日露戦史から拾うと、

 『児玉大将は大喝一声、田中参謀を掩護下に呼び、故らに大声を以て両師団長らに聞ゆる如く

 田中の馬鹿者よ。貴様は将来師団長になり、軍司令官となるものならん。かくの如き場合自己の職責を辨《わきま》え、適切なる指揮に任ずるべきなり。然るを徒らに観戦とは何事ぞや。

 暗々裏に師団長などを戒飾したものであった。』

 となる。児玉の指揮権が曖昧なのに、その副官の田中が指揮も何もあったものではない。

 一連の出来事を見ると、児玉がこの時期怒り心頭であったのは間違いないのであろう。それは第三軍司令部に対してであり、一人個人名を挙げるとするなら伊地知であり、繰り返しになるが伊地知的な物全てに対してであろう。

 そして児玉が将軍らしくない生の怒りを発する人であったのも事実である。そこを責めるのは、この日露戦争で寿命まで縮めてしまった児玉に対して酷かもしれない。

 この旅順で児玉から人前で叱られた大庭(8期)・白水(9期)・田中(14期)はいずれも日本陸軍最高教育機関の陸軍大学校卒業生、いわゆる天保銭組だ。そして、この陸大の初代校長が児玉源太郎大佐(1887<明治20>年〜1889<明治22>年)である。児玉は開校2年しか校長をやっていないので、この3人が学んだ時期には他に転じている。しかし、児玉は陸大卒業生は自分の学生という気持ちがあって叱りやすかったのではないか。卒業生の方も、一般的な学校でも初代校長というのは、もしかすると在籍時の校長よりも偉い存在かもしれない。軍人はどうであろうか? なおさら絶対服従の間柄だったのかもしれない。

 尚、大庭二郎・国司伍七は長州藩の生まれであり、徳山藩(長州藩の支藩)出身の児玉からしてみれば自分の子のような叱りやすさ・使いやすさであったのかもしれない。ちなみに私は調べていないが、国司姓は長州藩の家老姓なので、あるいは国司伍七は長州藩家老に繋がる出身かもしれない。

 児玉は、人前で怒鳴りつけることが出来ない伊地知や豊島(てしま)陽蔵第三軍攻城砲司令官(少将)そして乃木の代わりに、その部下である「自分の学生」を叱って、第三軍の停滞した気分を転換させたかったのであろう。


 第一・七師団の悪戦苦闘の末203高地は落ち、203高地が落ちることによって旅順港内深くに潜んでいた旅順艦隊への砲撃が可能になり、旅順艦隊の各艦は沈没・自沈していく。これによって存在意義を無くした旅順要塞司令官ステッセルは、市街地への精密射撃が可能になったこともあり、急激にその戦意を失い翌1905(明治38)年1月1日ついに降伏を決意する。

水師営の会見(明治38年1月4日)中央左から2人目乃木・その右ステッセル



 この旅順攻囲戦155日の日本軍の損傷は、戦死15,400名・戦傷者44,008名に上った。

そして、1月6日、帝より乃木に勅語が降る。

 余談になるが、旅順開城後、児玉は第三軍司令部を一旦復員・解散させ、奉天会戦用に新たに司令部を編成することを考えていた。まさにこの書類に児玉がサインしようとする時、これに気づいた松川があわてて止めた。機密日露戦史には『若しこのことなかりせれば《松川が止めなければ》乃木将軍の切腹はこの時実現せられたるやも計られず。』となっている。

 私は松川にどちらかと言うといいイメージを感じていなかったが、この部分を読む限り、松川もまた、いい意味で江戸の雰囲気を残した人だったのだろう。


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旅順陥落後
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