後備編入後、白水は妻を連れて故郷春日に帰郷した。地元春日では、白水は自分の後備役編入に不満だったと伝わっている。
しかし、それはどうであろう? 白水は一度も参謀本部付になることなく、陸軍大学校・士官学校等の教官にもならずに、佐官時代に海外駐在武官をすることもなかった。これは端的に白水にその才能がなかったのであろう。
もちろん、ただひたすら部隊勤務をして中将にまで上り詰めたのだから、部下の統率・部隊運営・作戦指揮には定評があり、そつなくこなしていたのであろう。
白水より前の世代の陸軍創生期は別にして、この時代の大将は皆、参謀本部の仕事をやり、陸軍学校の教官をやり、若い頃に留学や武官として海外に出、さらには政治(陸軍大臣・次官等)をやった者ばかりだ。これらを一切やらずに白水が中将にまでなった方が不思議だ。白水自身それは十分にわかっていたのではなかろうか?
58歳が終わろうとする頃、中将の定年(62歳)まであと3年を残して後備役入りしている。「中将と大将」の稿でも書いたが、これは別に早すぎるというわけではない。中将から大将にならない9割の者は、後が支えているので大体定年の数年前には予備・後備編入となる。特に師団長や司令官職は、たとえ周りにお付の副官がいるとは言え体力勝負なので、定年まで勤めることはなかった。
中将として4年、思い返せば後悔することばかりではあったろうが、周りから見れば十分すぎる華々しい軍人人生であったであろう。
白水が退官するにあたって読んだ漢詩がある。
退官帰郷
官 海 浮 沈 五 十 年 弧 舟 繋 得 古 松 辺
端 蓑 今 日 雇二牛 客 一 路 臨Ú風 筑 紫 天
※雇は「イ就」
退官帰郷す
官海浮沈五十年 弧舟繋ぎ得たり古松の辺り
短蓑今日牛客を雇い 一路風に臨む筑紫の天
|
これを読む限り、長い軍隊生活を離れ、故郷でゆっくり出来ることに喜びを見出しており、世上言われている不満とは無縁のようである。
春日村に帰って来た白水は、故郷春日への思いを多くの漢詩に残している。いくつか紹介したい。
村 居
緑 樹 青 苔 旧 草 廬 新 蝉 喚 起 雨 初 晴
閑 人 自 有 閑 人 業 漫 向二盆 池一餌二錦 鯉一
村居す
緑樹青苔旧草廬(いおり) 新蝉喚起して雨初めて晴れる
閑人自ら有り閑人の業 漫(そぞろ)に盆池に向かって錦鯉に餌す
|
春日神社
|
|
この盆池は春日神社の池であろう。白水宅から歩いて2〜3分のところに今もある。
別 天 地
茅 屋 何 嫌 老 後 閑 無 銭 占 得 筑 州 山
神 園 橋 畔 別 天 地 日 暮 村 童 枯レ酒 還
別天地
茅屋何ぞ嫌わん老後の閑 無銭占め得たり筑州山
神園橋畔別天地 日暮れて村童酒を枯って還る
 |
現在の神園橋(白水生家そば)
|
|
どうも、帰郷後の自分を閑であろうと規制したようである。しかし、それでもなお、次のような詩も読んでいる。
寄二耕雲生
雨 酌 晴 耕 養二此 神 琴 書 以 外 不レ留レ塵
無Ú端 一 夜 少 年 夢 猶 是 原 頭 駆レ馬 人
耕雲生に寄す
雨酌晴耕して此の神を養う 琴書以外は塵も留めず
端無くも一夜少年の夢 猶(なお)是れ原頭(野原)馬を駆るの人
|
馬に乗り、満州の地もしくはシベリアの大地を駆け回る現役時代を夢に見たのだろうか?
さて、帰郷後の白水は、色々な揮毫を頼まれて、福岡県内に多くの墨蹟を残している。21世紀を生きる私にはわかりづらいが、戦前の将軍というものは、何かにつけ字を書いてくれと頼まれたもののようだ。それだけ尊敬の対象であったということであろう。
これだけ多くの文字を書けば、墨の乾く間もなかっただろうと思われるが、今回私が唯一お会いできた白水のご親戚の方によると、その方々の父上(白水の母の兄弟の孫/甥の子)が少年の頃、隠遁して春日に村居する白水の家に、行儀見習いというかアルバイトというか墨磨りに行っていたそうである。
そして若い少年が力任せに墨を磨るのを見、「墨はそんなに力任せに磨るものではない。」と諭したそうだ。また彼が将来軍人になりたいというと「軍人になるなら長州に転籍したほうがいい。」ともいったらしい。
非薩長閥から出て、実力で中将にまで上り詰めた人の言葉とは少し信じられないが、それほどまでに、大正になってもまだ軍閥は存在し続けたのであろう。
さて、白水の墨蹟の内、現存するのはほとんどが神社にかかわる碑であるが、他にも忠魂碑・従軍記念碑、そして個人の頌徳碑まで手がけている。それらは次ページ以降「白水淡記念館」で紹介するが、その内、ただ一基だけ自分のために建てた碑がある。
春日村の「社のお墓」(村の墓地であったと伝わる)に建てられた「寂光城」と書かれた碑である。裏面には、「大正癸亥還暦之秋」と、そして、位階も勲等も功級も書かれず、ただ「陸軍中将白水淡建立」とのみ彫られている。
 |
寂光城碑(現在は春日神社内)
|
「社の墓」がどこにあったのか私は調べていないが、その墓地こそが白水に文字を学ばせた場所であったのではないか。四十年にも渡る軍人生活を終え、故郷の村に帰り、自分に文字を教えし師(墓石)の前に佇んだ時、そこはまさに寂光城でありえたのかもしれない。
故郷春日で7年間老後を養った白水であったが、1930(昭和5)年、故郷を離れ東京杉並に移り住んだ。この転居の理由ははっきりしない。
一つにはこの当時、白水の退職金が3,000円であったということまで周りに噂され、煩わしくもあったのであろう。
さらに、17歳の時に春日を離れ、以来軍人として働き、極官まで上り詰めた人には、当然在郷軍人会はあっただろうが、語り合う人もサロンもなかったのかもしれない。将軍の苦しみや喜びは、同じ将軍としか分かち合えなかったのかもしれない。
しかし、私は単純にこれは病を患ったと考えたい。もちろん昭和も5年になれば、日本各地に病院があり、福岡にも福岡陸軍病院があったが、やはり一番水準が高かったのは東京の陸軍病院であったであろう。そして将軍ともなれば、優先的にとは言わないまでも、それなりの礼を持って扱ってくれたであろう。転居先が杉並であることを考えてもそう推測する。
(秋山好古も退官後帰郷したが、昭和5年4月に再上京し、牛込の陸軍軍医病院に入院している。)
東京に転居して2年もせずに、1932(昭和7)年1月25日、激動の69年の生涯を終えた。
|