尼港事件


 尼港守備隊孤立する‐尼港事件


 以下、地名及び赤軍側は「ニコラエフスク」、日本軍(守備隊・派遣隊)に関する表記は「尼港」とする。

 ニコラエフスクは黒龍江(アムール川)の河口部上流(河口から80km)に位置し、上流の町ハバロフスクからは約1,000km離れている。この都市はこの時代、沿海州の中心都市として大きな港を持ち栄えていた。黒龍江はこれより先、河口のチャドバフの町を経て間宮(韃靼)海峡に注ぐ。しかし、黒龍江は毎年11月の中旬から5月の初旬までの間、氷結してしまう。さらに間宮海峡も冬季は氷に閉ざされてしまい、船を使ってニコラエフスクに入ることはできなくなる。また、極寒の大地と降り積もる雪に阻まれ、道路も通行がほぼ不可能な状態になり、陸の孤島となった。

 この当時のニコラエフスクの人口は15,000人を数え、漁業関係者を中心に在留邦人も350人程住み、日本領事館が置かれ、さらには当時の地図を見ると、日本人娼館まであった。また、日本人だけではなく中国人・朝鮮人も多数住み、中国は居留民保護のために、砲艦をニコラエフスク港に派遣していた。

 このニコラエフスクは1918(大正7)年9月に日本軍が占領し、はじめ第十二師団が尼港守備隊として置かれたが、1919(大正8)年6月に第十四師団隷下の第二連隊第三大隊第十一・十二中隊(隊長石川正雅少佐<以下、石川(陸)と略す>/計306人・機関銃四挺)と交代した。海軍も臨時海軍無線電信隊(石川光儀少佐<同じく石川(海)と略す>/43人)を置いていた。

 ここに一組の男女が登場する。男の名はヤコフ・トリャピーチンという当時23歳(資料によっては26〜28歳)の若者だった。トリャピーチンは金属工として働いていたが、徴兵され第一次世界大戦をロシア軍下士官として戦い、その後オムスク軍、ウラジオストク・パルチザンを経て、第四パルチザン地区隊長となり、ハバロフスクからニコラエフスクに派遣された。女はニーナ・レベデワ・キャシコ21歳(資料によっては20〜25歳)で、政治委員としてトリャピーチン軍に同行し、途中2人は男女の仲になる。この2人は別に共産党員ではなく、いわゆるどさくさにまぎれて一旗揚げよう組だった。

 トリャピーチンのニコラエフスク派遣隊は、いつの間にかニコラエフスク地区赤軍を名乗り、トリャピーチンはその司令官に、レベデワは参謀副長に納まり、途中各地で農民や鉱山労働者(朝鮮・中国人を多数含む)を吸収(脅し、金で雇い)し、勢力を拡大しながらニコラエフスクを目指す。その課程でトリャピーチンは絶対指導者となっていく。ニコラエフスク地区赤軍を正規赤軍と呼ぶかは微妙なところであるが、便宜的に赤軍と呼ぶ。

ニコラエフスク地区赤軍幹部
真中の白シャツがヤコフ・トリャピーチン、その向かって左がニーナ・レベデワ・キャシコ
東京朝日新聞 大正9年9月24日 3面


 ニコラエフスク地区赤軍の接近を知った白軍は、迎え撃つべく戦闘態勢に入るが、強制徴兵されていた農民兵は次々赤軍に寝返り、日に日に兵の数を減らし、1月の中旬には鎧袖一触された。以降、ニコラエフスクの治安維持は尼港守備隊の手に委ねられ、石川(陸)隊長は1月10日、ニコラエフスク市内に夜間外出禁止令を敷く。これは違反すれば即死刑という過酷なものだった。

 ニコラエフスクの異変はまず、1月26日、石川(陸)隊長からの電報で伝えられた。「数日前よりニコラエフスクに過激派が流入し、街は過激派で埋め尽くされた」。しかし、この時期、白水のいたブラゴエシチェンスク(第十四師団司令部)にしても、山田(軍)少将がいたハバロフスク(第二十七旅団司令部)にしても、大井がいたウラジオストク(浦潮派遣軍司令部)にしても過激派が流入していた状況は同じだった。

 石川(陸)少佐は、守備隊主力を市内に集結させる一方、1個小隊(塚本正一郎中尉指揮)を市の東方8km河口にある、旧ロシア軍の遺棄弾薬が残るチヌイラフ要塞(以下要塞とする)に配置し、要塞と要塞の西方4.5kmの位置にいた海軍電信隊を擁護させた。この要塞にはロシア軍が遺棄した数門の大砲があったが、砲尾閉鎖器が外してあったので使用不能であった。

 1月29日、海軍電信隊から守備隊本部の石川(陸)及び要塞の塚本に、100人程度の敵が集結中との通報があり、石川(陸)の元から18人(うちロシア人民警8)・塚本の下から8人(陸軍4・海軍4)を出すが、それぞれ別個に赤軍派勢力70人との遭遇戦となり、両隊あわせて12人の死傷(うち死亡10)を出した。同時にニコラエフスク市内の守備隊と要塞の間の通信線が赤軍派勢力に切られてしまい、通信は吹雪の中では伝わりにくい発光信号を除いて不可能となった。

 赤軍派勢力は要塞に狙いを定めていた。なぜなら、かつてボリシェビキの進攻時に大砲の砲尾閉鎖器を隠した者自身が、その赤軍派勢力に加わっており、要塞に残っている残弾と合わせ、十分兵器として利用できる手立てを知っていたからである。

 小競り合いが続く中、2月3日、要塞の塚本中尉は、第十四師団長白水から「敵対しない限り過激派にも手を出すな」とする訓令を受信した。これは1月31日発令の浦潮命第十五通りの方針だった。しかし、ニコラエフスクはすでに過激派との戦闘に入っていると認識する石川(陸)少佐は、戦闘継続を決意する。2月5日、石川(陸)は要塞と海軍電信所の引き上げを決意し、70人の擁護隊を出撃させるが、敵に迎撃され4人の戦死者を出した。

 そのころ要塞と海軍電信所には、過激派が砲撃を持って接近を開始した。陸戦に不慣れで兵力の少ない電信隊は苦戦し、隊長石川(海)少佐は玉砕を覚悟し、倉庫に火を放ち、状況を発信する。「我四十三名ハ、近ク枕ヲ並ベテ潔ク死セン。本電ハ最後ノ電ナラン。」と。

 これを2月6日に日付が変わってすぐにブラゴエシチェンスクで傍受した第十四師団長白水は、慌てて海軍通信所との交信を試みさせるが応答はなかった。白水はウラジオストクの浦潮派遣軍司令官大井中将に「少なくとも歩兵一大隊」規模の救助部隊の必要を通報するが、道も川も凍結している状態では救助部隊の送りようがなかった。

 この日夕方、要塞の塚本中尉は守備隊本部への退却を決意し、海軍電信隊と合流し、電信隊は「通信所を焼却、尼港守備隊と合流する」ことを発信し、黒龍江沿いに市内の本体合流を目指した。途中過激派の襲撃を受け死傷5(死亡2)人の損害を受けて、守備隊と合流した。

 以来、尼港守備隊・海軍電信隊と外界との、直接連絡は途絶えた。

 トリャピーチンは、交渉に関する軍使オルロフを尼港守備隊に派遣したが、オルロフは日本軍に逮捕され、白軍に引き渡され処刑されてしまう。

 急を告げるニコラエフスクの状況に参謀本部は、革命の嵐の中にある浦潮派遣軍から尼港救援隊を編成するのは、兵力のバランスを欠いて危険だと考えた。2月14日、上原勇作参謀総長は、北海道の第七師団から尼港派遣隊(隊長多門二郎大佐/歩兵1大隊・山砲兵1中隊・工兵1小隊・無線電信隊計約1個大隊)を編成するように下命した。

 編成された尼港派遣隊を、即座に海路ニコラエフスクに向かわせようとしたが、海は厚く氷結し、尼港派遣隊の接近を拒んだ。

 ここでトリャピーチンは尼港守備隊に投降を勧告するが、もちろん守備隊長石川(陸)少佐は拒否した。そこで2月21日、トリャピーチンは占領した電信設備を使い、ハバロフスク日本軍司令官宛に尼港守備隊を説得するように発信した。

 これを受信した、ハバロフスクの第十四師団第二十七連隊山田軍太郎少将は、白水に内容を転信し返答の指示を仰ぐ。23日、白水から山田(軍)少将を経由して、尼港守備隊石川(陸)少佐宛の電信が発せられる。「尼港守備隊の任務は居留民の保護と治安の維持である。第十四師団は黒龍州がレーニン政府の支配下に入ったのを受けて近々撤退予定である。相手方との交渉に応じて、事ヲ平和的ニ解決スルニ努メ、大勢ニ順応スベシ」。

 中継した山田(軍)少将はトリャピーチンに尼港守備隊との直接通信を依頼するが、折り返しトリャピーチンから「自分達を経由しない通信は許可しない。」と拒否された。

 2月24日、トリャピーチンより石川(陸)少佐に、書簡により談判の申し入れがあった。石川(陸)は塚本中尉を要塞(赤軍本部)に派遣して、翌日からの講和会議が決定した。

 翌日、塚本と河本禮雄中尉が要塞に行き会議が始まった。赤軍側は日本軍の降伏と政治犯の釈放を要求する。2月28日午前10時から始まった最終会議で、両軍の協定が結ばれた。これにより尼港守備隊は、赤軍のニコラエフスク入城と共に、赤軍司令部が指定する施設に移転することとなった。もちろんこれは講和であって降伏ではない。

 2月29日、赤軍がニコラエフスクに入城してきた。市民は赤旗を振ってこれを迎えた。革命政府樹立が宣言され、白露軍は武装解除され、ブルジョア・知識階級者等反革命派市民の逮捕が始まった。はじめに逮捕されたのは、白軍将校や兵士、そして商人・漁業や鉱山経営者等の実業家、公務員等400人を越えたといわれている。そして拷問を受け、あるいは即決裁判で死刑の判決を受けた者は当日中に執行された。


 ニコラエフスクの戦闘―尼港事件


 3月2日、ハバロフスクの山田(軍)少将はニコラエフスクから「2月28日午後5時を持って講和を締結した」との電信を受信する。発信者は石川(陸)少佐・トリャピーチン・赤軍参謀長S・ナウモフの3名である。 5日、山田(軍)少将はニコラエフスク地区赤軍司令官に石川(陸)少佐との直接電信を申し入れた。9日、日本語の返信電が届く。しかし内容は状況を簡潔に報告しただけのものであった。

 ニコラエフスク市内では、入城してきた過激派の暴行・略奪は耐え難いものになっていた。有産知識階級市民は、尼港守備隊に救援を求めていた。そこで、石川(陸)少佐と日本領事館石田虎松副領事は、トリャピーチンと面会し、過激派の軍規逸脱取締りを求める。

 11日、参謀長S・ナウモフが守備隊本部にやって来て、「日本軍は我が軍に干渉する権利はない。」さらに不測の事態を避けるためとして、日本軍の武装解除を通告し、回答期限を翌12日の正午とした。

 これを受け、石川(陸)少佐・石田副領事・石川(海)少佐・駐在武官の三宅海軍少佐は対策を協議した。石川(陸)は、13日に赤軍側が日本軍への攻撃を計画しているとの情報(ロシア人情報)を得ていた。もちろん日本軍としてはいかに寡少(この時陸海の戦闘員合わせて350人ほど)とはいえ、戦わずして敵に武器を差し出して降伏するという考えはなく、また、敵が正規軍でないために、降伏しても日本人居留民の安全は保障されず、かえって略奪・暴行の危険は増すと考えられた。さらに相手は多数(4,000人と目されていた)とはいえ、軍隊錬度の低いパルチザンである。

 この夜未明(3月12日午前2時)の決起・先制攻撃が決定し、石川(陸)少佐が戦闘指揮を取ることになった。

 攻撃目標は、第十二中隊(水上尚大尉)と第十一中隊第一小隊(石川<陸>少佐指揮)がネーベリ商会を接収して居座っている赤軍司令部を、第十一中隊主力(後藤忠三大尉)は市街地南部の敵を掃討してロシア軍電話交換所の奪取、海軍無線電信隊は実業学校に据え付けてある大砲撃破と決まった。これに自警団(男性居留民)が適宜支援する。

 午前2時前に開始された奇襲は成功したかに見えたが、トリャピーチンは足に2発の銃弾を受けながら(手榴弾により足をケガしたとの説もある)、レベデワと共に闇にまぎれて本部を脱出した。それに気づいた日本軍も後を追ったが、隣家の革命派市民に匿われながら、市北部の寺院に逃げ込み、そこから電話で「日本人の皆殺し」の指示を出した。

 奇襲に浮き足立った赤軍だったが、時が経つにつれ組織的に機能しだし、反撃を開始した。まず、主力の水上と石川(陸)が指揮する隊は、市街地で赤軍の強烈な攻撃を受け、半数以上が死傷してしまう。日本領事館には、実業学校の砲を破壊した海軍隊が戻ってきていたが、ここにも赤軍が殺到して、防戦に追われた。

 一方、トリャピーチンは、夜が明けて労働者に決起を呼びかけると共に監獄を解放して、囚人らを兵として使おうとした。しかし、結局、これらも他の赤軍に倣って、日本人居留民および一般ロシア人相手に殺戮と略奪を繰り返すだけだった。

 12日の日没時点で日本軍は、日本領事館に立て篭もる海軍隊、守備隊本部に帰着した石川(陸)隊(石川隊長以下戦死が相次ぎ13名)、憲兵隊本部に後藤隊(34名)と憲兵隊(この後全員戦死)、そして、同じく市街地に水上隊(十数人)が辛うじて行動しているだけであった。

 夜になって多くの赤軍は、戦闘よりも略奪と暴行に励みだしたと、命からがら守備隊本部に逃げ込んできた居留民13名が告げた。この時、多くの日本人居留民婦人と子供が殺されている。そして、この時は逮捕されるだけで殺されなかった残りの日本人居留民も、次の夜、黒龍江河畔に引き出され殺された。赤軍派は暴行と略奪の限りを尽くし、街に転がる日本人の遺体には、兵士といえ・居留民といえ・子供といえ、衣服を着けているものは一体もなかった。

 3月12〜16日の間に、約1,500人のロシア人(ブルジョア・知識階級)と日本人居留民が、老若男女の区別なく虐殺された。

 14日夜明け前、水上隊(水上隊長戦死)と後藤隊の生き残りが守備隊本部に帰着した。14日朝の時点で守備隊本部には100名(内、居留民13名と非戦闘員・傷者を除くと、戦闘員は56名/他に病院に医官・看護卒・傷者)で、河本禮雄中尉が指揮を取る。

 夜明け前、港にいた日本軍兵士に対して中国砲艦からも射撃が行われた。これは中国軍兵士が自らが攻撃されたと勘違いしたとも、赤軍に協力したともいわれているがよくわからない。後に中国海軍は謝罪している。

 領事館には石川(海)中佐以下海軍隊42名と駐在武官三宅少佐、石田副領事一家(妻・子2人)が立て篭もっていた。

 13日の夜が明けて、領事館への攻撃が激化した。大隊隊長D・ブジンは捕虜として捕まえた河村通訳に、石田副領事への投降勧告を要請した。「文官が戦闘に参加する必要はない」と。しかし、河村通訳は首を横に振る。「副領事は文官だ。しかし侍でもある。」

 領事館への攻撃が激しさを増す中、正午少し前、海軍隊と副領事は自ら領事館に火を放ち、燃えさかる炎の中で、立て篭もる海軍隊と副領事一家は最後を遂げる。石田副領事と三宅少佐は刺し違えて自決したと言われている。


 戦闘終結―尼港事件


 一方、ハバロフスクでは3月14日、成立したばかりのハバロフスク革命政府代表外交委員A・ゲイツマンと軍事委員V・ブルガーコフ、日本側からは第二十七旅団長山田軍太郎少将と杉本錚太郎領事が出席して、ニコラエフスクの戦闘についての話し合いが始まっていた。革命政府側も日本軍側も情報が一切入ってこない。当然日本軍も革命政府も、錬度に勝る正規軍の尼港守備隊が勝っているのだろうとの予測に立って話し合いが行われていた。

 この日本軍が勝っているだろうと予測した根拠に一つに、トリャピーチン率いるニコラエフスク地区赤軍が、こんなに数が膨れ上がっているとの予測がついていなかったことが挙げられる。ほぼ同数ならば錬度に勝る日本軍が勝っているだろうと。

 翌15日午前2時、白水がブラゴエシチェンスクからハバロフスク入りした。山田(軍)少将から報告を受けた白水は、(当然両者とも尼港守備隊が勝っているだろうと考えていたので)戦闘中止と戦闘原因の報告を求める電報を発するように指示した。

 ハバロフスク革命政府との間で、両者から戦闘中止の伝令使者を派遣することが決まった。同時に山田・杉本・ゲイツマン・ブルガーコフの会議出席者4名の連名で、ニコラエフスクの日本軍および赤軍司令官宛に電報を発信する。「何人も無益なる戦闘を中止せよ。(中略)両軍代表より成る使節をハバロフスクより送る。」と。

 そのころ守備隊本部の河本中尉以下は、兵舎に立て篭もって応戦していた。赤軍側も射撃・砲撃を加えるだけで、突撃してくることはなかった。捕虜になった河村通訳がやって来て、赤軍側は戦闘中止・武器の引渡しを求めていることを告げた。大隊隊長D・ブジンが求めているのは戦闘停止だけであると伝え、ハバロフスクからの電報(4名連名の戦闘中止命令)を見せた。河本中尉以下は、戦闘の原因・現在の状況を知って出された戦闘中止命令であろうと思っていた。守備隊内では戦闘続行の声もあったが、このまま抵抗しても事態が好転しないこと、弾薬・食料も尽きかけていたこともあって、3月18日、戦闘停止を決意する。

 翌19日、トリャピーチンは降伏した日本兵・陸軍病院職員と患者・居留民計110名を監獄に移す(重傷者16名はロシア病院へ入院)。監獄には先に23人の居留民が入れられていたので、計133名が収容された。隊員達は「話が違う。平和的な戦闘中止ではなかったのか。」と激高するが、武器を取り上げられ、監獄に入れられてしまった身では如何ともしようがなかった。この夜、居留民1名が自殺し、投獄されている日本人は132名になった。

 ハバロフスクで続けられていたハバロフスク革命政府と日本軍・山田(軍)少将との話し合いであったが、ニコラエフスクから少しずつ噂が聞こえてくるにつれて、負けていると思って焦っていた革命政府側は、伝令使者の派遣に消極的になった。日本軍側では聞こえてくる噂が、ロシア側発の風聞情報ばかりなので、これを鵜呑みにすることなく楽観視していた。山田(軍)少将と白水は、解氷期が近づいてソリによるニコラエフスク入りが困難になることもあって、伝令使者の派遣を諦めた。

 その後、途切れ途切れに流れてくる噂は、尼港守備隊・居留民にとって最悪の話ばかりだったが、白水には自分の部下と居留民の無事を信じて、祈ることしかできなかった。


 尼港救出隊―尼港事件


 さて、氷に閉ざされた海に行く手を阻まれていた尼港派遣隊(多門二郎大佐)は、4月10日新たな命令を受ける。「樺太のアレクサンドロフスクまで進出して、機を見てニコラエフスクに向かって進発すべし」と。同時に浦潮派遣軍の大井司令官にも「尼港派遣隊と呼応してハバロフスクからも救援隊を動かす準備をするよう」命令があった。

 尼港派遣隊は4月22日、アレクサンドロフスクに上陸した。ここにはニコラエフスクから10日程前に逃げてきたA・マキシムと名乗る男がいて、ニコラエフスクの状況を「守備隊・居留民数百人が虐殺され、百二〜三十人が投獄されている。」と多門に語った。ここで初めてニコラエフスクの状況が不確実ながらもわかった。多門は愕然とすると共に、生存者の救出に全力を尽くすことを誓う。

 24日、ニコラエフスク地区赤軍の斥候が一人、尼港派遣隊に投降してくる。この男を使ってニコラエフスクに生存者の氏名を問い合わせた。翌日、「ニコラエフスク赤軍司令官」から「捕虜は規定により管理している。姓名及び人数は追って連絡する」と返信が届く。しかしこの後、通信は途絶えた。

 ハバロフスクの第十四師団でも救援隊の編成が行われていた。尼港守備隊は第二連隊第三大隊の半分、第十一・十二中隊で編成されていたが、第三大隊の残り半分、第九・十中隊が救援隊への参加を強く希望したので、これを国分中也中佐に指揮させ、黒龍江を臨時海軍派遣隊が輸送することになった。

 敵(ニコラエフスク地区赤軍)の兵力もほぼ2個連隊規模であることがわかってきたので、参謀本部はこれだけでは足りぬとみて、さらに第七師団第十三旅団第二十五連隊を基幹とする北部沿海州派遣隊(司令官津野一輔少将)を編成し、尼港派遣隊・国分隊(第二連隊第三大隊第九・十中隊)もこの指揮下に置き、2個連隊規模とした。これに海軍第三艦隊主力が加わる。

 解氷期を迎え、またやっと用意が揃った尼港派遣隊・国分隊は、5月14日、ニコラエフスクに向かって行動を開始した。しかし、この時期でもまだ間宮海峡は氷結しており、海路直接黒龍江(アムール川)からニコラエフスクに進撃することは出来ない。デカストリに上陸し、陸上を進む尼港派遣隊の行く手には、シベリアの大地は雪解け水でぬかるみとなり、目の前にはただ広大な密林が広がり、気ばかりが焦る多門以下尼港派遣隊を苛つかせた。

 同時に国分隊と臨時海軍派遣隊も、黒龍江を下ってニコラエフスクを目指したが、途中ローゼの町で敵前進基地からの砲撃を受けた。国分隊を揚陸し、水陸両方から敵を攻撃したところ、敵は退却したが、その遺留品の中には、尼港守備隊員の氏名が書かれた毛布や外套などが含まれていた。僚隊の国分隊隊員達は怒りに震えた。

 一方、トリャピーチンも4月24日の電報で、日本軍がアレクサンドロフスクまで進攻して来ているのを知り、焦って対策を練りだす。まずは黒龍江河口からの日本軍遡上を警戒して、市民を動員して黒龍江下流に廃船十数隻を沈め閉塞した。そして、赤軍支持者の家族に避難を勧告すると共に、反赤軍派狩りを行いだした。この反赤軍派狩りは一切銃による射殺をせず、ブラックリストに載ったロシア人市民を、家族の前で撲殺し・サーベルで惨殺し・銃剣で刺殺して回った。

 そして、トリャピーチンは、日本軍がローゼの町まで迫った事を知る。トリャピーチンは一切の証拠を残さず、ニコラエフスクの街から逃げ出すことを決意する。ついに収監されていた日本人「捕虜」への虐殺が始まった。監獄に現れた赤軍は、収監されている日本人を滅茶苦茶に殴りつけ、息も絶え絶えの日本人「捕虜」を黒龍江河畔に引きずっていき、サーベルであるいは銃剣で刺殺し、遺体を川に遺棄した。入院していた疾病兵16人も同じように殺された。

 ニコラエフスクの町にいた日本人約700人は全てが殺された。(中国人の配偶者・妾となっていた十数名だけが、中国砲艦に救助されている。)

 後に救援隊がニコラエフスクに入った時に、監獄の壁に日本語で書かれた「五月廿四日午後十二時(5月25日午前0時)を忘るるな」との殴り書きを認めた。

 同時に、反赤軍派のレッテルを貼られ、先に惨殺された人の家族に対する虐殺も行われた。妻そして5歳以上の子供が、次々に殺されては黒龍江に投げ込まれていった。一説にはこの時、日本人も含めて3,000人の犠牲者が出たという。さらには、ニコラエフスクの街の破壊が始まった。石造りの建物がダイナマイトで壊され、木造住宅には赤軍兵士がガソリンを掛け次々と火をつけて回った。

 上流からニコラエフスクを目指す尼港救援隊・国分隊は、臨時海軍派遣隊の協力を受けながら前進したが、その前進は困難を極めていた。海から河口を遡上して直接ニコラエフスク港を目指す北部沿海州派遣隊の本隊も、アレクサンドロフスクの対岸デカストリまで進出していたが、黒龍江河口部の掃海に、さらにその先の閉塞船の処理に手間取り進軍できないでいた。司令官津野は、6月1日、小舟での先遣隊上陸を決意する。

 この頃になって、ニコラエフスクから逃げ出した避難民によって、在ニコラエフスク日本人全滅の凶報が少しずつ日本軍(下向隊・遡上隊)に伝わり出す。

 ニコラエフスクでは市民の脱出が強制されていた。「日本人に復讐されるぞ」と脅されて、街から追い出された人々は、桟橋から小舟に乗り付近の島影に避難した。6月2日、ニコラエフスク赤軍司令部も脱出する。トリャピーチンとレベデワは最後に街を巡回して、福音教会に15人の教徒が残っているのを見つけた。「神と運命を共にする。それが神の思し召しなら喜んで日本兵に殺される。」と言う彼らに、レベデワは「それなら早目に神の元へ行け」と銃を抜いたが、トリャピーチンが止めたという。

 午前8時、トリャピーチンは「全世界労働者」宛の電報を発信する。「将来日本人の使用する可能性のある市と要塞は破壊しつくした。日本人はただ灰塵を見るだろう。」と。そして、電信所をも破壊してニコラエフスクの街を脱出した。

 この電報は、尼港派遣隊・国分隊と共に黒龍江をニコラエフスクに向かっている臨時海軍派遣隊が傍受した。在ニコラエフスクの日本人全滅は確実になってしまった。

 6月3日、尼港救援隊の先遣隊50人が小舟3隻に分乗して、午前5時半、雨の中ニコラエフスクに上陸した。先遣隊隊長堀江大尉は隊を2つに分け、市内を捜索させたが、炎に包まれる市内からは15人のロシア人福音教徒を救出しただけだった。午前7時半、尼港救援隊主力と多門大佐がニコラエフスクに上陸してきた。

 多門大佐は国分隊をニコラエフスクに入れずに、逃走したトリャピーチン一味の追撃のためにマゴに派遣した。これは、ニコラエフスクの惨劇を見た僚隊がどういう行動に出るか心配だったためだが、ニコラエフスクはその心配をする必要がないくらい破壊され尽くされて、誰もいなかった。

 一方、ハバロフスク革命政府も日本軍の報復を恐れ、新たにO・アンドレーエフをニコラエフスク臨時革命委員会議長兼司令官に任命し、トリャピーチン一味の逮捕に乗り出した。

 トリャピーチン一味は、7月6日早朝、ニコラエフスクから160km離れたケビン村で逮捕され、9日、人民裁判に掛けられた。

 まず、午前中の裁判で、

ヤコフ・トリャピーチン 元ニコラエフスク地区赤軍司令官

ニーナ・レベデワ・キャシコ 元同軍参謀長(守備隊との戦闘で前参謀長戦死後昇進)

 の2人に死刑が宣告された。判決理由はあくまでも、

 ニコラエフスク市民の虐殺

 ニコラエフスクの破壊

 労働者に共産主義への反感を植えつけた

 レーニン政府の権威を傷つけた

  ことに対してであり、日本人虐殺に関しての罪が問われたものではない。

 休憩を挟み午後からは、

M・ハリコフスキー 元同軍司令部武装部長

N・サーノフ 元同軍アムグン・トルイ戦線司令官

F・ゼレージン 元サハリン州革命委員会執行委員

I・パウルスキー 元同委員会労働委員

D・ポノマレフ 元同委員会糧食委員

D・ツルフチャニノフ (ニコラエフスク市民)

 の裁判が開かれた。このうち、軍民以外の政治委員と民間人は何の罪で裁かれたがよくわからない。独裁社会特有の密告によって、証拠も弁護人もない即決の人民裁判で、ポレマノフを除く5人に死刑が宣告された。(ポレマノフはブラゴエシチェンスクで収監)

 その日の午後10時、まずトリャピーチンが刑場の村はずれの森に引き出された。刑場の周りには、子供を除くケルビ村民・ニコラエフスクからの避難民が集まって来た。刑が執行され、トリャピーチンは右胸に1発・腹部に3発の銃弾を受けて絶命した。

 次にレベデワ、その後、他の5人が一人ずつ引き出され、刑が執行された。7人の死体は、ニコラエフスク地区赤軍がかつてそうしてきたように、アムグン川に投げ捨てられた。



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尼港事件国内で沸騰する
尼港事件国内で沸騰する