以下、地名及び赤軍側は「ニコラエフスク」、日本軍(守備隊・派遣隊)に関する表記は「尼港」とする。
ニコラエフスクは黒龍江(アムール川)の河口部上流(河口から80km)に位置し、上流の町ハバロフスクからは約1,000km離れている。この都市はこの時代、沿海州の中心都市として大きな港を持ち栄えていた。黒龍江はこれより先、河口のチャドバフの町を経て間宮(韃靼)海峡に注ぐ。しかし、黒龍江は毎年11月の中旬から5月の初旬までの間、氷結してしまう。さらに間宮海峡も冬季は氷に閉ざされてしまい、船を使ってニコラエフスクに入ることはできなくなる。また、極寒の大地と降り積もる雪に阻まれ、道路も通行がほぼ不可能な状態になり、陸の孤島となった。
この当時のニコラエフスクの人口は15,000人を数え、漁業関係者を中心に在留邦人も350人程住み、日本領事館が置かれ、さらには当時の地図を見ると、日本人娼館まであった。また、日本人だけではなく中国人・朝鮮人も多数住み、中国は居留民保護のために、砲艦をニコラエフスク港に派遣していた。
このニコラエフスクは1918(大正7)年9月に日本軍が占領し、はじめ第十二師団が尼港守備隊として置かれたが、1919(大正8)年6月に第十四師団隷下の第二連隊第三大隊第十一・十二中隊(隊長石川正雅少佐<以下、石川(陸)と略す>/計306人・機関銃四挺)と交代した。海軍も臨時海軍無線電信隊(石川光儀少佐<同じく石川(海)と略す>/43人)を置いていた。
ここに一組の男女が登場する。男の名はヤコフ・トリャピーチンという当時23歳(資料によっては26〜28歳)の若者だった。トリャピーチンは金属工として働いていたが、徴兵され第一次世界大戦をロシア軍下士官として戦い、その後オムスク軍、ウラジオストク・パルチザンを経て、第四パルチザン地区隊長となり、ハバロフスクからニコラエフスクに派遣された。女はニーナ・レベデワ・キャシコ21歳(資料によっては20〜25歳)で、政治委員としてトリャピーチン軍に同行し、途中2人は男女の仲になる。この2人は別に共産党員ではなく、いわゆるどさくさにまぎれて一旗揚げよう組だった。
トリャピーチンのニコラエフスク派遣隊は、いつの間にかニコラエフスク地区赤軍を名乗り、トリャピーチンはその司令官に、レベデワは参謀副長に納まり、途中各地で農民や鉱山労働者(朝鮮・中国人を多数含む)を吸収(脅し、金で雇い)し、勢力を拡大しながらニコラエフスクを目指す。その課程でトリャピーチンは絶対指導者となっていく。ニコラエフスク地区赤軍を正規赤軍と呼ぶかは微妙なところであるが、便宜的に赤軍と呼ぶ。
ニコラエフスク地区赤軍幹部
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真中の白シャツがヤコフ・トリャピーチン、その向かって左がニーナ・レベデワ・キャシコ
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東京朝日新聞 大正9年9月24日 3面
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ニコラエフスク地区赤軍の接近を知った白軍は、迎え撃つべく戦闘態勢に入るが、強制徴兵されていた農民兵は次々赤軍に寝返り、日に日に兵の数を減らし、1月の中旬には鎧袖一触された。以降、ニコラエフスクの治安維持は尼港守備隊の手に委ねられ、石川(陸)隊長は1月10日、ニコラエフスク市内に夜間外出禁止令を敷く。これは違反すれば即死刑という過酷なものだった。
ニコラエフスクの異変はまず、1月26日、石川(陸)隊長からの電報で伝えられた。「数日前よりニコラエフスクに過激派が流入し、街は過激派で埋め尽くされた」。しかし、この時期、白水のいたブラゴエシチェンスク(第十四師団司令部)にしても、山田(軍)少将がいたハバロフスク(第二十七旅団司令部)にしても、大井がいたウラジオストク(浦潮派遣軍司令部)にしても過激派が流入していた状況は同じだった。
石川(陸)少佐は、守備隊主力を市内に集結させる一方、1個小隊(塚本正一郎中尉指揮)を市の東方8km河口にある、旧ロシア軍の遺棄弾薬が残るチヌイラフ要塞(以下要塞とする)に配置し、要塞と要塞の西方4.5kmの位置にいた海軍電信隊を擁護させた。この要塞にはロシア軍が遺棄した数門の大砲があったが、砲尾閉鎖器が外してあったので使用不能であった。
1月29日、海軍電信隊から守備隊本部の石川(陸)及び要塞の塚本に、100人程度の敵が集結中との通報があり、石川(陸)の元から18人(うちロシア人民警8)・塚本の下から8人(陸軍4・海軍4)を出すが、それぞれ別個に赤軍派勢力70人との遭遇戦となり、両隊あわせて12人の死傷(うち死亡10)を出した。同時にニコラエフスク市内の守備隊と要塞の間の通信線が赤軍派勢力に切られてしまい、通信は吹雪の中では伝わりにくい発光信号を除いて不可能となった。
赤軍派勢力は要塞に狙いを定めていた。なぜなら、かつてボリシェビキの進攻時に大砲の砲尾閉鎖器を隠した者自身が、その赤軍派勢力に加わっており、要塞に残っている残弾と合わせ、十分兵器として利用できる手立てを知っていたからである。
小競り合いが続く中、2月3日、要塞の塚本中尉は、第十四師団長白水から「敵対しない限り過激派にも手を出すな」とする訓令を受信した。これは1月31日発令の浦潮命第十五通りの方針だった。しかし、ニコラエフスクはすでに過激派との戦闘に入っていると認識する石川(陸)少佐は、戦闘継続を決意する。2月5日、石川(陸)は要塞と海軍電信所の引き上げを決意し、70人の擁護隊を出撃させるが、敵に迎撃され4人の戦死者を出した。
そのころ要塞と海軍電信所には、過激派が砲撃を持って接近を開始した。陸戦に不慣れで兵力の少ない電信隊は苦戦し、隊長石川(海)少佐は玉砕を覚悟し、倉庫に火を放ち、状況を発信する。「我四十三名ハ、近ク枕ヲ並ベテ潔ク死セン。本電ハ最後ノ電ナラン。」と。
これを2月6日に日付が変わってすぐにブラゴエシチェンスクで傍受した第十四師団長白水は、慌てて海軍通信所との交信を試みさせるが応答はなかった。白水はウラジオストクの浦潮派遣軍司令官大井中将に「少なくとも歩兵一大隊」規模の救助部隊の必要を通報するが、道も川も凍結している状態では救助部隊の送りようがなかった。
この日夕方、要塞の塚本中尉は守備隊本部への退却を決意し、海軍電信隊と合流し、電信隊は「通信所を焼却、尼港守備隊と合流する」ことを発信し、黒龍江沿いに市内の本体合流を目指した。途中過激派の襲撃を受け死傷5(死亡2)人の損害を受けて、守備隊と合流した。
以来、尼港守備隊・海軍電信隊と外界との、直接連絡は途絶えた。
トリャピーチンは、交渉に関する軍使オルロフを尼港守備隊に派遣したが、オルロフは日本軍に逮捕され、白軍に引き渡され処刑されてしまう。
急を告げるニコラエフスクの状況に参謀本部は、革命の嵐の中にある浦潮派遣軍から尼港救援隊を編成するのは、兵力のバランスを欠いて危険だと考えた。2月14日、上原勇作参謀総長は、北海道の第七師団から尼港派遣隊(隊長多門二郎大佐/歩兵1大隊・山砲兵1中隊・工兵1小隊・無線電信隊計約1個大隊)を編成するように下命した。
編成された尼港派遣隊を、即座に海路ニコラエフスクに向かわせようとしたが、海は厚く氷結し、尼港派遣隊の接近を拒んだ。
ここでトリャピーチンは尼港守備隊に投降を勧告するが、もちろん守備隊長石川(陸)少佐は拒否した。そこで2月21日、トリャピーチンは占領した電信設備を使い、ハバロフスク日本軍司令官宛に尼港守備隊を説得するように発信した。
これを受信した、ハバロフスクの第十四師団第二十七連隊山田軍太郎少将は、白水に内容を転信し返答の指示を仰ぐ。23日、白水から山田(軍)少将を経由して、尼港守備隊石川(陸)少佐宛の電信が発せられる。「尼港守備隊の任務は居留民の保護と治安の維持である。第十四師団は黒龍州がレーニン政府の支配下に入ったのを受けて近々撤退予定である。相手方との交渉に応じて、事ヲ平和的ニ解決スルニ努メ、大勢ニ順応スベシ」。
中継した山田(軍)少将はトリャピーチンに尼港守備隊との直接通信を依頼するが、折り返しトリャピーチンから「自分達を経由しない通信は許可しない。」と拒否された。
2月24日、トリャピーチンより石川(陸)少佐に、書簡により談判の申し入れがあった。石川(陸)は塚本中尉を要塞(赤軍本部)に派遣して、翌日からの講和会議が決定した。
翌日、塚本と河本禮雄中尉が要塞に行き会議が始まった。赤軍側は日本軍の降伏と政治犯の釈放を要求する。2月28日午前10時から始まった最終会議で、両軍の協定が結ばれた。これにより尼港守備隊は、赤軍のニコラエフスク入城と共に、赤軍司令部が指定する施設に移転することとなった。もちろんこれは講和であって降伏ではない。
2月29日、赤軍がニコラエフスクに入城してきた。市民は赤旗を振ってこれを迎えた。革命政府樹立が宣言され、白露軍は武装解除され、ブルジョア・知識階級者等反革命派市民の逮捕が始まった。はじめに逮捕されたのは、白軍将校や兵士、そして商人・漁業や鉱山経営者等の実業家、公務員等400人を越えたといわれている。そして拷問を受け、あるいは即決裁判で死刑の判決を受けた者は当日中に執行された。
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