乃木の殉死後すぐ、大正元年11月27日付で白水は少将に昇進し、同時に第十二旅団(小倉)長を拝命している。
|
歩兵第十二旅団司令部跡 (小倉城)
|
白水にとって(私の知る限り)初めての故郷福岡での勤務である。白水敬山の「自屎録」には、この時代一度白水が春日村に里帰りして来たと書かれている。貧しかった田舎の次男坊が陸軍で栄達し、閣下となって帰ってくるのである。これぞまさに故郷に錦を飾るで、迎える方も大騒ぎだったことは想像に難しくない。
白水の地元春日神社には1912(大正2)年9月建立の注連縄掛柱が、幼い頃子守をしながら文字を学んだ長円寺(春日市春日)には、1913(大正3)年2月の扁額が残っている。また、糸島郡志摩町新町の明光寺には、1912(大正2)年12月25日付の住職の顕頌碑が建っている。これらの書は帰省した折に書いた(頼まれた)ものかもしれない。(日付は縁起のよい日・何らかの縁日に合わせた可能性もあるし、帰省した時に頼まれて、後で書いて送った場合もあるだろう。)
ちなみに白水敬山はこの時の白水に憧れ、後に家を飛び出し朝鮮駐剳軍参謀長時代の白水の押しかけ書生となっている。
丸二年と数ヶ月を福岡で勤務した白水は、1915(大正4)年2月15日付臨時朝鮮派遣隊の司令官を拝命している。
聞きなれない臨時朝鮮派遣隊とこの時期の日本・朝鮮半島の情勢についてだが、日清戦争後徐々に朝鮮半島への支配を強めていった日本政府及び陸軍は、1910(明治43)年の日韓併合条約に於いて韓国を併合してしまう。
韓国には1904(明治37)年(日露戦争開戦の年)より韓国駐剳軍が置かれ、ロシアに対する警戒と韓国国内の治安を担当していた。この兵力は時代によってかなり増減するのだが、1907(明治40)年2月には、対露戦争の危険の減少・韓国国内の治安の安定により2個師団あったうちの1個師団を削ることになり、国内に帰還させた。ところが、同年7月には、ハーグ密使事件により韓国皇帝高宗を退位させ韓国軍を解散させたことにより反日武力抵抗が激しくなり、臨時韓国派遣隊(兵力は1個旅団と騎兵4個中隊・さらに歩兵2個中隊を増加)を編成して派遣した。
その後、1909(明治42)年には編成が改められ、韓国駐剳軍2個旅団・臨時韓国派遣隊2個連隊体制となり、臨時韓国派遣隊は大邱に司令部を置き韓国南部の治安維持を担当した。この韓国駐剳軍と臨時韓国派遣隊が日韓併合により、朝鮮駐剳軍と臨時朝鮮派遣隊に呼称が変更される。さらに1915(大正4)年(白水臨時朝鮮派遣隊司令官拝命の年)、後記の政治混乱を招いてまで陸軍が主張した2個師団増設が認められ、1916(大正5)年以降順次朝鮮駐剳軍と臨時朝鮮派遣隊は再編されて朝鮮軍となる。
1915(大正4)年2月15日付臨時朝鮮派遣隊司令官を拝命して朝鮮に渡った白水は、翌1916(大正5)年4月1日付朝鮮駐剳軍参謀長に横滑りしているので、ちょうどこの再編の時期の朝鮮(駐剳)軍の中枢にいたことになる。
朝鮮駐剳軍 大正五年度十一月分 機密費受払報告書
|
|
朝鮮駐剳軍司令官秋山好古と同参謀長白水淡連名の報告書。 |
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C3022421200
陸軍省大日記 密大日記 大正6年 「密大日記 4冊の内1」(防衛省防衛研究所)(2枚目)
|
さて、前記したように「自屎録」の白水敬山は、この朝鮮駐剳軍参謀長時代の白水の押しかけ書生となっている。敬山が「自屎録」を残してくれたおかげでこの時の白水のことは少しわかる。
以下「自屎録」から拾う。
敬山が『親兄弟には無断で郷里を出奔して』で朝鮮に向かった時、白水は龍山にいたようである。敬山はその第一印象を『その温和な風貌には意外な感じがした』といっている。
白水はこの時、家族を内地に置いて単身赴任していたが、その日常は、毎朝洗面した後に裏山に登り東方を拝したのはこの時代の人、特に軍人であれば別に不思議なことではない。その後、毎朝仏間で読経していたのは、死んでいった同僚・部下に、そしてあるいは敵として戦った人達へ対するものであったのだろうか?
白水の愛馬2頭のうちの1頭が死んだ時には、自ら埋葬し墓標を建て経を読み合掌し「長々ご苦労でありました」と頭を垂れた。また、茅原に頭蓋骨のある絵に自ら「一将功成り万骨枯る」と讃し床の間に掛け、「僕が将軍だ参謀長だといわれるのも、皆この人達のお蔭だ」と言って拝んだりしていた。
前時代の将校と違って、武士としての教育を受けて育ったのではない白水達の世代にとって、自らの命令によって多くの部下を死なせてきたことは、心の澱となって深く溜まっていったのかもしれない。
その後、白水は1917(大正6)年8月6日付陸軍中将に昇進し、同時に下関要塞司令部司令官を拝命している。下関要塞は現在の山口県下関から北九州市門司区・小倉北区に渡る関門海峡沿岸の砲台群からなり、その司令部は現在の下関陸上競技場付近に置かれていた。
|
↑下関要塞 火の山砲台跡(観測所)
↓火の山砲台から門司方面を眺める
|
|
|