一瞬の静寂


 日露戦争後

 「戦争なんてすんでしまえばつまらないものさ。軍人はそのつまらなさに耐えなければならない。」と言ったのは、「坂の上の雲」の中の黒木為驍セったろうか?

 確かにその通りだろう。日本の軍人が皆、黒木のように分別ある大人だったならば、大正から昭和にかけての日本の歴史は、別なものに変わっていたのかもしれない。

 しかし現実は、戦争に勝てばさらなる名誉を求め戦争を欲し、戦争に負ければ汚名返上のため戦争を欲し、平和が続けば戦争を欲し、戦争が続けば戦争を欲するのが、軍人と武器商人の手先である政治屋だろう。

 平和は戦争への単なる助走期間に過ぎないのかもしれない。

 さて、日露戦争が終わり、その軍隊区分が解かれた後も、白水は歩兵三十五連隊長職に留まる。三十五連隊は白水の妻の出身地富山の隣県石川県金沢にあり、この時期はまずまず平和だったであろう。

 1907(明治40)年10月7日 44歳の時に、歩兵第七連隊長に横滑りしている。第七連隊も第九師団所属で金沢にある。第七連隊長になってすぐ、11月13日には大佐に進級した。

 さらに2年後の1910(明治43)年10月10日 48歳の時に、引き続き金沢で第九師団の参謀長になっている。あるいは白水自身、このまま金沢の地で平穏にその軍人生活を終えると思っていたかもしれない。

 

 乃木大将の殉死と軍服


 明治45年7月30日(公式)、明治帝が崩御される。そして明治帝の大葬の日大正元年9月13日午後8時頃、乃木希典 静子夫妻が殉死する。

 この時、白水淡満50歳、大日本帝国陸軍古参の大佐となっていた彼が、乃木殉死の報を聞いて何を思ったであろうか。

 白水には「9月17日柩前」と添書きされた「悼乃木大将」という漢詩が残されており、白水が夫妻の葬儀の前日、乃木の柩の前に佇み、その壮絶な人生に何をか思ったのは事実である。



 悼乃木大将 九月十七日柩前

 愁 雲 漠 々 断 腸 秋   攀附 竜 髯去 不 留

 気 節 老 来 何 壮 烈   霊 光 千 古 照神 州



 乃木大将を悼む 九月十七日柩前

   愁雲漠々断腸の秋   竜髯に攀り附き(よじりつき)去って留まらず。

   気節老来何ぞ壮烈なる   霊光千古神州を照らす。



 乃木夫妻の葬儀は9月18日に東京青山斎場で営まれており、一説によるとこの時20万人の弔問客が訪れたらしい。当然、白水も参加したのであろう。

  乃木殉死後、遺品(軍服)が白水の元に贈られてくる。

  私は個人的には、例え歴史上の人物とはいえ他人の遺言状を覗くのはいかがかとは思っているが、乃木の遺言状は当時新聞にも載り、現在は長府の乃木記念館で公開されてもおり、白水に乃木の遺品が贈られた過程の説明に必要なので、該当部分だけを抜き出させていただく。

《前略》

第四

 遺物分配の儀は自分軍職上の副官たりし諸氏へは時計メートル眼鏡馬具刀剣 等軍人用品の内にて見計ひ儀塚田大佐に御依頼申置候大佐は前後両度の戦役にも尽力不尠静子承知の次第御相談可被成候其他は皆々裁談に任せ申

《後略》

大正元年九月十二日夜           希典

湯地定基殿

大舘集作殿

玉木正之殿

  静子殿


  ここに出てくる塚田大佐は、日露戦争時に第三軍司令部で吉岡友愛中佐(福岡/その後奉天会戦で戦死)の後を受け、明治38年1月より第三軍高級副官を務めた塚田清市で、塚田には「乃木大将事跡」の著作がある。

  少し本筋と離れるが、この遺言状が静子宛になっていること、塚田が静子とも顔見知りだから軍関係の遺品の分配を彼に任せると書いてあることは、乃木が殉死のその前日まで静子を連れて行く気がなかった証拠であるといわれている。

  遺言にあるように、乃木は軍人としての品々は、自分の副官を務めた後輩達に贈りたかったようで事実そうなっている。この中でどの品が誰に贈られたかを私は調べ切れていないが、その多くは現在全国の乃木神社に奉納されているようだ。

  さて、春日市史には親戚総代の玉木正之から贈られた遺品の目録が載っている。
    
目録(写)

一、紺絨製大将軍服 壱着
   右故伯爵乃木希典遺品

     乃木家親戚総代 正(ママ)木正之
        大正九年一月二十三日

 白水 淡殿
 
  春日市史はどこで間違えたかはわからないが、遺言状にもあるように乃木家の親戚は玉木家だ。

  ご存知の方も多いと思うが、少しく詳しく整理すると、長州藩士杉百合之助の二男が、親戚の吉田家に養子に行き吉田松陰。百合之助の末弟が玉木家へ養子に行き玉木文之進。この人は松下村塾の創設者で、松陰・乃木兄弟の師にあたる。その文之進の元へ、乃木家の次男正諠(希典の弟)が養子に入り玉木正諠。玉木正諠は萩の乱(前原一誠の乱)で戦死。文之進もまた萩の乱に正諠・前原はじめ門弟多くが参加したことで自刃。この時に文之進の介錯を務めたのが、松陰の妹(文之進の姪)お芳。

  そして、玉木正諠の子で玉木家を継いだのが玉木正之。要するに、杉家・吉田家・玉木家・乃木家はそれぞれ親戚であり(このうち乃木家だけが長州藩支藩の長府藩)、玉木正之は乃木の甥にあたる人である。

  萩の乱直前の、兄・歩兵第十四連隊(小倉)連隊長心得乃木希典と、萩の乱首謀者の一人になっていく弟・玉木正諠の永別のシーンが、確か「翔ぶが如く」(司馬遼太郎)にあったと思うのだが、なぜか該当の巻だけが今私の本棚にない。多分何かの資料の間にでも潜り込んでしまっているのだろう。

  玉木正之と共に書かれている遺言状のあて先の2人は、妻静子の兄湯地定基(薩摩藩士/根室県令・貴族院議員等)、希典のもう一人の弟で、大舘家の養子となった大舘集作である。

  その後、白水のご子孫から、この目録を写真撮影したものをいただいた。春日市史には(写)となっているが、画像には(写)の文字がないので原本なのであろう。一部「写」とは違っているので、ここに記しておく。
目録

一 紺絨製大将軍服 
   右故伯爵乃木希典遺品

     乃木家親戚総代 
   大正九年一月二十三日 玉木正之
        

 白水 淡殿

 尚、贈られてきた乃木の大将軍服は、私は勝手に正装などに用いる立襟ダブルボタンだと思い込んでいたのだが、明治37年着用の添書きのついた大将戦闘服(添書きには戦斗服となっている)である(明治37年はまさに日露戦争旅順攻囲戦時)。

 現在は二段の桐箱の上段に乃木の戦闘服上下、下段に白水の中将軍服(立襟ダブルボタン)と帽子がそれぞれ納められて、春日神社にて大切に保管されている。

第96回乃木祭にて  平成20年9月13日 春日神社 

  実際に軍服が白水の手元に送られてきた大正9年というのは、白水が軍人として最後の、そして最も過酷な試練の中にいるのであるが、それはまた後ほど。

 閣下へそして軍靴の足音


 乃木の殉死後すぐ、大正元年11月27日付で白水は少将に昇進し、同時に第十二旅団(小倉)長を拝命している。

歩兵第十二旅団司令部跡 (小倉城)

 白水にとって(私の知る限り)初めての故郷福岡での勤務である。白水敬山の「自屎録」には、この時代一度白水が春日村に里帰りして来たと書かれている。貧しかった田舎の次男坊が陸軍で栄達し、閣下となって帰ってくるのである。これぞまさに故郷に錦を飾るで、迎える方も大騒ぎだったことは想像に難しくない。

 白水の地元春日神社には1912(大正2)年9月建立の注連縄掛柱が、幼い頃子守をしながら文字を学んだ長円寺(春日市春日)には、1913(大正3)年2月の扁額が残っている。また、糸島郡志摩町新町の明光寺には、1912(大正2)年12月25日付の住職の顕頌碑が建っている。これらの書は帰省した折に書いた(頼まれた)ものかもしれない。(日付は縁起のよい日・何らかの縁日に合わせた可能性もあるし、帰省した時に頼まれて、後で書いて送った場合もあるだろう。)

 ちなみに白水敬山はこの時の白水に憧れ、後に家を飛び出し朝鮮駐剳軍参謀長時代の白水の押しかけ書生となっている。

 丸二年と数ヶ月を福岡で勤務した白水は、1915(大正4)年2月15日付臨時朝鮮派遣隊の司令官を拝命している。

 聞きなれない臨時朝鮮派遣隊とこの時期の日本・朝鮮半島の情勢についてだが、日清戦争後徐々に朝鮮半島への支配を強めていった日本政府及び陸軍は、1910(明治43)年の日韓併合条約に於いて韓国を併合してしまう。

 韓国には1904(明治37)年(日露戦争開戦の年)より韓国駐剳軍が置かれ、ロシアに対する警戒と韓国国内の治安を担当していた。この兵力は時代によってかなり増減するのだが、1907(明治40)年2月には、対露戦争の危険の減少・韓国国内の治安の安定により2個師団あったうちの1個師団を削ることになり、国内に帰還させた。ところが、同年7月には、ハーグ密使事件により韓国皇帝高宗を退位させ韓国軍を解散させたことにより反日武力抵抗が激しくなり、臨時韓国派遣隊(兵力は1個旅団と騎兵4個中隊・さらに歩兵2個中隊を増加)を編成して派遣した。

 その後、1909(明治42)年には編成が改められ、韓国駐剳軍2個旅団・臨時韓国派遣隊2個連隊体制となり、臨時韓国派遣隊は大邱に司令部を置き韓国南部の治安維持を担当した。この韓国駐剳軍と臨時韓国派遣隊が日韓併合により、朝鮮駐剳軍と臨時朝鮮派遣隊に呼称が変更される。さらに1915(大正4)年(白水臨時朝鮮派遣隊司令官拝命の年)、後記の政治混乱を招いてまで陸軍が主張した2個師団増設が認められ、1916(大正5)年以降順次朝鮮駐剳軍と臨時朝鮮派遣隊は再編されて朝鮮軍となる。

臨時朝鮮朝鮮派遣隊に関しては、戸部良一氏の論文「朝鮮駐屯日本軍の実像:治安・防衛・帝国」を参考にしました。


 1915(大正4)年2月15日付臨時朝鮮派遣隊司令官を拝命して朝鮮に渡った白水は、翌1916(大正5)年4月1日付朝鮮駐剳軍参謀長に横滑りしているので、ちょうどこの再編の時期の朝鮮(駐剳)軍の中枢にいたことになる。

朝鮮駐剳軍 大正五年度十一月分 機密費受払報告書
朝鮮駐剳軍司令官秋山好古と同参謀長白水淡連名の報告書。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C3022421200

陸軍省大日記 密大日記 大正6年 「密大日記 4冊の内1」(防衛省防衛研究所)(2枚目)

 さて、前記したように「自屎録」の白水敬山は、この朝鮮駐剳軍参謀長時代の白水の押しかけ書生となっている。敬山が「自屎録」を残してくれたおかげでこの時の白水のことは少しわかる。

以下「自屎録」から拾う。

 敬山が『親兄弟には無断で郷里を出奔して』で朝鮮に向かった時、白水は龍山にいたようである。敬山はその第一印象を『その温和な風貌には意外な感じがした』といっている。

 白水はこの時、家族を内地に置いて単身赴任していたが、その日常は、毎朝洗面した後に裏山に登り東方を拝したのはこの時代の人、特に軍人であれば別に不思議なことではない。その後、毎朝仏間で読経していたのは、死んでいった同僚・部下に、そしてあるいは敵として戦った人達へ対するものであったのだろうか?

 白水の愛馬2頭のうちの1頭が死んだ時には、自ら埋葬し墓標を建て経を読み合掌し「長々ご苦労でありました」と頭を垂れた。また、茅原に頭蓋骨のある絵に自ら「一将功成り万骨枯る」と讃し床の間に掛け、「僕が将軍だ参謀長だといわれるのも、皆この人達のお蔭だ」と言って拝んだりしていた。

 前時代の将校と違って、武士としての教育を受けて育ったのではない白水達の世代にとって、自らの命令によって多くの部下を死なせてきたことは、心の澱となって深く溜まっていったのかもしれない。

 その後、白水は1917(大正6)年8月6日付陸軍中将に昇進し、同時に下関要塞司令部司令官を拝命している。下関要塞は現在の山口県下関から北九州市門司区・小倉北区に渡る関門海峡沿岸の砲台群からなり、その司令部は現在の下関陸上競技場付近に置かれていた。

 
↑下関要塞 火の山砲台跡(観測所)

↓火の山砲台から門司方面を眺める


 参謀懸章
 

 白水敬山が書生をしていた朝鮮駐剳軍時代のある日、白水は自らの軍服の参謀懸章を指し(この時、朝鮮駐剳軍参謀長)、「これでどれだけの人を殺したことになるか知れん」と寂しそうに呟いたそうだ。

 参謀懸章(当然勲章や徽章も含まれるであろう)を指してそんなことを言うのは、あるいは203高地での児玉の叱責が白水の心の傷として、まだかさぶたも張らずに残っていたのかもしれない。

 しかしこのことは、初代陸軍大学校校長児玉源太郎と、その第9期卒業生白水淡の考える参謀懸章や陸大卒業生徽章の意味が、全く一緒のものだったと言えるのではなかろうか。

 また、白水敬山の自屎録には『後には参謀懸章をみな溶かして観音像を鋳って、それを拝んでいた』という話も出てくる。

 この話はどうだろう? ちょっとにわかには信じられない話だ。参謀懸章は前記したように、石附の部分以外はモールなので、これも勲章・徽章を溶かしてという話だろうが、当時の軍人としてそれをやるだろうか? それは陸軍との永遠の決別を意味したのではなかろうか。すなわち、それをもし本当にやったのなら、それ以降の白水の碑文には「陸軍中将」の文字は出てこなかっただろう。

 自屎録には卒業生徽章事件の話は全く出てこないが、この観音像の話は、敬山は後の書生として卒業生徽章事件の事、そしてそれが白水の心の枷であったことを知っていて、白水はそのくらいの気持ちだったということを後世に伝えたかったのであろうと私は思っている。


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西伯利(シベリア)出兵
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